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 この一画。最後の一画まで、墨が飛んだり滲んだりしないように全神経を集中させて、指先に力を込めた。あるいは、力を抜いた、と表現するほうがより適切かもしれない。筆を半紙から離す時、息をするのも忘れていた。いや、息をしたらせっかく仕上がった文字が滲んでしまうような気がして、あえて呼吸を止めていたのだ。音を立てないように、そっと筆を置く。ふうーっと大きく息を吐くと、久しぶりに肺に空気が流れ込んできたかのような錯覚に陥る。墨汁の匂いの立ちこめる室内で、吸い込む空気も、幽香(ゆうこう)さを孕んでいた。


芽衣(めい)〜、やっとできたの?」


 後ろからほんわかと明るい声が飛んできて、ちょんちょんと肩を軽く叩かれる。振り返った先にいたのは、頬に一滴の墨をつけた親友・浜崎実夏(はまさきみなつ)だ。


「み、実夏、いたんだ」


「ずーっといたよ。話しかけたかったけど、めちゃくちゃ集中してたからそっと見守ってた感じ」


「そう、なんだ。実夏はもうコンクール用の作品、できたんだっけ?」


「うん、一週間前くらいかな? もうこれ以上のものは書けないやって思ったから、それから書いてない」

 

 あっけらかんと言ってみせる実夏は、ぽわわんとしていて優しげな雰囲気を纏う可愛らしい女の子なのに、絶対的な王者の風格が備わっている。そのミスマッチな感じが、私の神経をピリつかせた。

 書道部の間では有名な書道コンクールの締切は、明日だ。 

 ほとんどの部員は、締切直前の今日まで何度も筆を取り、書いては書いては半紙を捨て、納得のいく作品が仕上がるようにと努力しているのに。実夏——彼女は一週間も前に本番用の作品を書き終えたという。「これ以上のものは書けない」って、なんだそれ。芸術に終着点なんてある? これが最高の作品だなんて、どうやって分かるの? 彼女に対する素朴な疑問がぐるぐると頭の中で渦を巻く。ただ疑問に思うだけならまだしも、私の中に確かに芽生えたのは、強烈な嫉妬心だ。


 彼女は、八名いる書道部の二年生の中で、いちばん腕がいいから。


 去年、一年生の時のコンクールですでに最優秀大賞を受賞している。ほわほわとした性格の彼女が、さらりとその王者の座を掻っ攫っていったことに、先輩たちはただ唖然としていた。「浜崎さん、すごいね」という当時の二年生の部長の顔が引き攣っていたのを思い出す。同じ一年生だった私は、部長ほど神経質にならなかったけれど、同級生で部で一番仲良しの彼女が大きな結果を残したことに、焦りを覚えたのは言うまでもない。


「芽衣、今年は気合いの入り方が違うね。去年は優秀大賞だったし、今年は最優秀大賞狙えるんじゃない?」


 私の書いた「奮励努力(ふんれいどりょく)」という四字熟語に視線を落としながら、からりとした口調で言った。

 実夏の言う通り、去年私は優秀大賞をいただいた。とても名誉ある賞で、受賞するだけでも御の字で、実際受賞を知った時は心臓が飛び上がるほど嬉しかった。書道は小学生の頃から習っていて、中学の時も書道部に所属していた。高校生になった今、長年の努力を認められたような気がして嬉しかった。


 でも、と実夏の長いまつ毛を見ながら思う。

 彼女は……高校生から書道を始めたのに。

 どうして最優秀大賞なんて、もらえるの?

 二番手。優秀大賞は、最優秀大賞に次ぐ二番手の賞だ。それでも賞をもらえない人が大半の中で、優秀大賞をいただけたことは喜ぶべきことだ。喜ばなくちゃ、選外になってしまった他の人たちに失礼なのだ。だから嬉しい。私は嬉しかった——はずなのに。

 心にぐにゃりとした歪みが生じていることに気づいていた。

 書き上げたばかりの「奮励努力」をじっと見つめる。

 彼女は何を書いたんだろう。努力。才能。努力。才能。二つの言葉が頭の中をターンしながら現れては消えて、を繰り返す。彼女は才能の人だ。才能があるから書道を初めて一年も経たずと、最優秀大賞をもらったのだ。一番になれたのだ。

 私が喉から手が出るほどほしい、王者の座を。


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