祠の赤い人
もうすぐ小学校生活最後の夏休みがはじまる。
昼休みを終えたあとの物憂い光が窓から射し込み、教室は漂白したような色であふれていた。
それにしても退屈な理科の授業!
当の担当教諭でさえ上の空である。黒板に陸上と海中における食物連鎖の図を書き込んでいるが、どこか身が入らない様子だ。
中新馬 主水は右最後尾の席で、頬杖をついたまま、窓の外に眼をやった。
コの字になった校舎の中庭は日陰になり、青い影に支配されている。容赦ない7月下旬の日差しが入る運動場側が廊下に面しているため、反対側の窓からダイレクトに中庭を見おろせるのだ。
ある異変に気づいた。
三方を校舎に囲まれた中庭には、なんの変哲もないウサギ小屋があったはずだ。
いつの間にか祠のような建物に変わっているのはどういうわけか。
瞼をこすって、よく見直した。
文字どおり、道路の端に見かけるお地蔵を祀る祠にしか見えない。
中に生き物を飼っているらしく、なにかが動いた気がした。
――あんなものあったっけ? いつからだろ?
主水は頬杖ついたまま、窓ガラスに寄りかかる。
祠はかつてのウサギ小屋ほどの大きさがあり、やはりなんらかの生き物を閉じ込めているらしく、格子越しに赤いものが動いているのがわかった。
――なんだあれ。やけに赤くてヌメッとした奴だったぞ?
ただでさえ午後2時すぎの授業内容など右から左なのに、中庭のあれが気になって仕方がない。
ようやくチャイムが鳴り、教諭はあくびを噛み殺しながら、早々に退散していった。
5分だけの休み時間の合間に、中庭の祠を見に行こうと思い立った。
主水は隣の席の菖蒲池 流伽を誘うことにした。流伽とは同じ団地から登校していることもあり、なにかと気が合う仲だった。
◆◆◆◆◆
「流伽ちゃん、中庭にあったウサギ小屋って、いつから祠にチェンジしたんだっけ?」
と、主水は流伽と並んで廊下を歩きながら聞いた。陽炎立ち込める運動場では、別の学年の生徒たちが次の体育の時間にそなえ、ぞろぞろと集まっている。みんな、だるそうにしていた。
「ウサギ小屋?」流伽は後ろ手に組み、パッツンした前髪を揺らしながら言った。主水よりも背が高く、おませさんな身体つきをしている。「うちの学校は、ずっとアレだったのに。なに寝ぼけたこと言ってんの」
「そうだっけ? だって、もろに祠だよ。あの中でウサギ飼ってるの、おかしくね?」
「さては猛暑で脳みそ、バグったんじゃね?」
「痛いな。頭、グリグリするのはよせよ。ワックスで決めてるのに、髪型乱れるだろ」
「まーた、色気づいちゃって、この!」
主水と流伽は1階におりると、下駄箱からスニーカーを手にし、渡り廊下まで行き、履き替えた。
日陰になった中庭は空気がカラリと乾き、心地よいそよ風が吹き抜けている。
主水たちの教室のほぼ真下にある祠へと足を運んだ。
祠の真正面に立つ。
やっぱりなにかを飼っているようだ。格子の奥の暗がりで、赤いヌメヌメッとした生き物が哀れっぽく座っているのが見える。ナメクジみたいに光沢を放っていた。
主水は身体を屈め、眉の上に両手で庇を作り、内部をのぞき込んだ。
それをひと目見るなり、ヒッと喉の奥で悲鳴を発した。
「なんだこれ!」と、主水は裏返った声をあげた。「奥に、人みたいなのがいるよ!」
「ウッソ。主水くん、どうしちゃったの。さっき言ったじゃない。前からここには【ご神体】を囲ってたのに。忘れちゃったの?」
流伽は腰に両手を当て、慣れた様子で祠の中をのぞき込む。
手まで差し出し、生き物をあやすような仕草をするのだから、彼女が嘘をついているわけではなさそうだ。
もっとも、奥に座ったそれは近寄ってくる気配もない。
「なんだよ、【ご神体】って?」
「【ご神体】は【ご神体】じゃん。他にどう表現しろと。我が校に昔からある守り神ってこと」
「守り神? これが?」
祠には観音開きの扉があり、南京錠がかけられていた。
つまり、中の赤い人は監禁されているも同然だった。学校を守護する存在にしては、まるで牢屋の中に閉じ込められ、懲罰を与えられているかのような仕打ちではないか。
主水は、恐る恐る格子の奥をのぞいた。
【ご神体】の姿は見るも無残だった。
背恰好は、ちょうど担任の小鳥遊先生と同じくらいの中肉中背の大人のサイズなのだが、まるで重度の火傷を負った人のように皮がずるむけなのだ。
服も着ておらず、全身から膿のようなものが流れ出しているため、ヌラヌラと光沢を放っていた。性別は男だろう。粗末な陰茎を隠そうともしない。女性のように横座りをしていた。
ところが頭部は、人のそれとは似ても似つかぬグロテスクな造形だった。例えるならタコのよう。
頭髪はなく、まるで七福神の福禄寿みたいに禿げ頭が異様に長く、全体的に血管が浮き出ている。頭の先端はふくらみ、桃のように割れていた。
鼻筋はなく、穴が二つ開いているにすぎない。口もあるかなきに等しく、貯金箱の投入口みたいなすき間があるだけ。
印象的だったのはその眼だ。まん丸の黒目が、頭部のずいぶん下の方についている。大人しい草食動物を思わせた。ただし、およそ人らしい表情というものに欠いた。
まさにタコに人間の胴体と手足をくっつけたような姿なのだ。全体的に赤い色で、火傷を思わせる肌のせいで痛々しく映る。
「【ご神体】がここで学校を守ってくれてるから、生徒は健康にすごせるし、怪我もしないんだって。とにかく平和でいられるのは、この赤い人のおかげなんだとか。全校集会を開くたび、校長先生が感謝しなさいって毎回言ってるよ。なのに、忘れるかな?」
流伽は呆れたような口調で言った。主水の健忘症を信じられずにいるのか、軽蔑の眼差しを寄こしてくる。
主水はまったく心当たりがないので、狐につままれた気分だった。校長先生がそんなこと言っただって――?
「どうしちゃったんだろ、おれ。まったく憶えてない」
「マジで暑さで参っちゃってるのよ、きっと。家のエアコン壊れてるんでしょ。よく眠れてる? 脳みそ、蕩けてるんじゃね?」流伽は背を屈めて主水の顔をのぞき込んだ。ちょうどそのとき、チャイムが鳴った。「……いけない。授業はじまっちゃう。主水くん、Bダッシュ。戻ろ!」
◆◆◆◆◆
釈然としないまま、6時限目の授業を終え、帰りの会になった。
隣の流伽は、文房具やら教科書をランドセルにつめ、帰り支度をはじめている。主水もそれにならうのだが、窓の下が気になって仕方がない。
祠の赤い人は格子をつかみ、こちらを見あげている。
主水と眼が合った――ような気がした。
窓ガラスに密着していた頭を離し、教壇の方に向いたときだった。
ちょうど担任の小鳥遊先生が教室に入ってきたところだった。30歳の、いかにも誠実そうな好男子である。
委員長が号令をかけた。生徒たちはガタガタと椅子を引いて立ちあがり、礼をし、着席した。
「さて、もうすぐお待ちかねの夏休みに入りますが、浮かれてばかりいてはいけません。休みの間こそゲームはほどほどにし、勉強に励んでもらいたいのです。ところがですね――」と、いつにもまして真面目な口調で言い、言葉尻を濁した。「ひとつ問題が生じたのです。というのも、みなさんご存知のとおり、中庭にある【ご神体】さまのお世話は、基本的に我々教員が行っておりますが」
小鳥遊先生までが赤い人のことを口にしたので、主水は思わずはっとした。
次の言葉を一言一句聞き洩らすまいと、集中する。
「夏休みに入るにあたり、校舎は無人になっても、日直の教員が最低1人はいます。その先生が【ご神体】さまの供物と水をさしあげる担当だったんです。ですが、最近あまりお召し上がりにならず、元気がなかったのです。先ほど代表で校長先生が話しかけました。すると【ご神体】さまは、こう提案されたのです――」
「どんな提案ですか、先生」
左最前列に座った副委員長の女子が甲高い声を出した。
クラスの35人は食い入るように教壇を見つめた。
主水は、口を開けたまま身を乗り出す。
小鳥遊先生はうなずいたあと、声音を代え、こう言った。
「『できれば、夏休み中は我が校の生徒たちにお世話をお願いしたい。ふだんから私はあまり生徒から顧みられず、本音を言えば寂しいのだ。せめて夏休みの間だけは、生徒たちと親睦を深めたい』と、おっしゃったのです」
「もしかして、私たちが輪番制で担当しろというわけですか?」
こう察したのは流伽だった。
「いえ、正確にはうちのクラスの一人の男子生徒を指名してきました。【ご神体】さま直々の言葉なのです。あの方のおっしゃったことはお告げにも等しい」
「誰をご指名されたんです?」
サッカー部の主将の男子生徒がすかさず聞いた。
「ハッキリ言いましょう」と、小鳥遊先生は教壇に手をついたまま、右最後尾の席に眼を向けた。「中新馬 主水くん。君をご指名です」
「え」主水は言葉を失った。隣の流伽をはじめ、他の生徒たちがふり返り、主水に視線が集中する。「嘘でしょ? なんでおれが選ばれるの」
たった今、祠の主と眼が合ったと思ったのは気のせいではなかったのだ。
流伽と一緒に見に行ったとき、あの赤い人に気に入られたにちがいない。
「幸い中新馬くんのご自宅は、学校とさほど離れていません。毎日徒歩で通学されていますね。【ご神体】さまのお世話は、朝か昼、一回のみで結構です。食事と水をさしあげるだけでよろしい。祠の中まで清掃する必要はありません。供物と水を換えるだけなら、ものの5分で済む仕事だと思います」
「先生、たった5分だけのために、毎日学校へ通えっていうんですか?」
「中新馬くんにはお手数かけますが、勉強に支障をきたすほどのものではないと思いますので、どうか私からもお願いしたい」
「え――――っ」
――なんだそれ? 強制かよ。こんなのってありか?
◆◆◆◆◆
まさか、夏休み初日から学校へ通うようになるとは思いもよらなかった。
せっかくの小学校最後の夏休みだったのに……。
当然、両親に報告した。
ところが両親さえも学校の祠のことは周知の事実であり、任された以上、ちゃんとお勤めを果たせと釘を刺されたのだった。
約束を破ったら重いペナルティを課すとまで脅された。――夏休みの間、テレビゲームの本体ごと没収するというのだ。
とすれば、覚悟を決めるしかない。
朝、起きるなり、眠い瞼をこすりながら登校する。
職員室で祠の扉の鍵を借り、日直の先生が用意してくれた供物と水の入った器を祠まで運ぶ。
南京錠を開け、格子の手前に置いた古い箱膳と新しいそれに交換するのだ。米を盛った茶碗、野菜の煮物、干魚、香の物と、ありふれた神への食事だった。肉類はない。水の器も取り換える。
初日こそ扉を開けたとたん、赤い人はにじり寄ってくるのではないかと身構えていたが、身体を動かすのも億劫そうだった。全身火傷のような肌をしているのはまんざら比喩ではないらしい。
日に日に【ご神体】に慣れていった。害はなさそうだった。
小鳥遊先生いわく、相手は「生徒と親睦を深めたい」つもりのわりに、およそ口を利ける状態ではない気がした。
毎朝、供物と水を交換しに行くたびに(いつもきれいにたいらげ、水もほとんど飲んでいた)、とくにコミュニケーションをとろうとする意思表示は感じられなかった。
主水からも声をかけることなく、与えられた仕事を消化すると施錠するだけだ。
鍵を返しに行き、当直の先生に頭をさげ、一目散に学校をあとにするのだった。
小鳥遊先生に命じられた手前、お勤めをおろそかにするわけにはいかない。
たとえ朝から大雨が降る日であろうと、雨合羽を着て言い付けを守った。
しかし8月に入り、本格的な暑さになると、次第にやっつけ仕事になっていった。
その間、主水は一度も赤い人と口を交わすこともなかった。
殺人的な猛暑が連日テレビを賑わせるようになったある日。
昼下がり、主水は両親が出払っているすきにクラスメート3人を、団地に招いた。
流伽とクラス委員長、副委員長だった。
主水たちはリビングで車座になり、額を突き合わせる。
いまだ主水は、担がれているのではないかと疑っていた。
【ご神体】が出現するようになったのは、自分以外の人間が総出で騙しているのではないかと。
「なに寝ぼけてんの。おれたちが入学したときから祠はあって、あの方が入ってただろ。そうして学校は守られてるんじゃないか」
委員長は真剣な顔で言った。
「親の時代から続けられてるって聞いたよ。校長先生だって、しょっちゅう言ってる」
こう援護射撃したのは副委員長である。
「主水くん家、やっとエアコン直ったんだね」と、流伽はカルピスの入ったグラスに口をつけながら言った。「きっとよく眠れてなかったから、疲れてるんだよ」
「エアコン買い替えた。こう暑いとかなわないからな」と、主水は言った。両手を広げ、声をひそめた。「だったらさ、【ご神体】って、いったい元は何者なんだ? みんなが知ってる範囲で教えてくれよ。なんであの人って素っ裸で、しかも全身皮がむけてるみたいに爛れてるんだ。あれじゃまるで――」
この素朴な問いに対して、3人は意見を交換した。
祠にまつわる話は、いくら先生に聞いても詳しく教えてくれなかった。憶測するしかなかったのだ。
団地の一室で、ああでもないこうでもないと論争が巻き起こった。それぞれが聞いたとされる祠にまつわる噂を並べる。
かつての在校生が、手が付けられないほどの悪さをくり返すため、懲罰の意味で閉じ込められているのではないかという説。全身が赤く焼け爛れているのは、先生らによって火炙りの刑にされ、半生のまま生かされているから。全校生徒に対する見せしめとして監禁されているとの噂があげられた。ああ見えて、とっくに成人をすぎているから、大人の体型なのだと……。
「もしかしたら、こうかも!――学校に秘密の暗号があるって、聞いたことない?」と、流伽が人差し指を立て、眼を輝かせた。「校内放送で、『大きな荷物が1個届きました』だとか、『緊急会議を行います、至急〇〇へ集合してください』とかって聞いたことないかな? それって、〇〇が、不審者の居場所を意味するってことなんだとか」
「ときどき、先生たちが刺股で素振りしてるのを見かけるよな」腕組みした委員長が納得したような口調で言った。「おれたちが知らないだけで、昔、学校侵入事件があったのかもしんない。校内に入ってきた不審者を捕らえ、生贄として飼ってるとしたら?」
「なんでそんな不審者を、学校の守り神に格上げしちゃうんだ。ふつう警察に突き出すだろ。おれが毎日飯を食わせる理由になってないったら」
間髪を入れず、主水は反論した。
「だったら主水くんは、あの方は何者だと思うの?」
と、副委員長。
「学校の守り神として、毎日欠かさず供物を与えてるんだ。元は悪人ではないような気がする」と、主水は前のめりになり、おずおずと口にした。「あれは被爆した元教師じゃないかな。だってあの姿、どう見たって――」
「ヤダ……。どうして、そう結び付けるのよ。いくらなんでも、それは言っちゃいけないよ」
流伽が我が身を抱いて寒さを訴えた。そんな発想をした主水に、非難の眼差しを向ける。
どれだけ4人が推測し、意見をぶつけてもしょせんは11、2歳の推測にすぎず、決定打に欠けた。
◆◆◆◆◆
「中新馬さんのお宅ですか? こちら有華月小学校です。主水くんはいらっしゃいますか?」
8月中旬のある日のこと。
固定電話が鳴ったので、主水が出ると、聞き憶えのある声が受話器の向こうからした。
直後に血の気が引いていく。窓の外を見ると、もう西日が射す時間になっていた。
団地の和室はエアコンがよく効き、朝からテレビゲームにのめり込んでいたのだ。両親は仕事に出かけているので、咎められる心配もなかった。
発売されたばかりの日本製アクションRPGだった。シームレスなオープンワールドのゲーム世界に、すっかりドハマりしていた。行きたいところへ行くことのできる自由度の高さをはじめ、謎が謎を呼ぶシナリオ、絶妙な難易度といい、モンスターとの白熱バトル、有名声優を起用したキャラ同士の掛け合いといい、どれをとってもメーカー渾身の出来に、ゲーマーの血が滾らずにはいられなかったのだ。
「もしかして、小鳥遊先生? 主水です」
受話器を耳に当てたまま言った。
「小鳥遊です。本日、私が日直を担当していましてね。なぜ私が君の家に電話したか、おわかりになりますよね?」
「いけね! 赤い人に飯食わせるの、忘れてた!」
「そんな言い方してはいけません。ちゃんと【ご神体】さまと言いなさい」小鳥遊先生は冷たく窘めた。「私からも、ちゃんとお勤めを果たすよう注意したはずです。今からならまだ間に合います。至急、学校へ来てください。君の勤めの替わりは、誰もやってくれませんよ」
「ごめんなさい。今すぐ行きます!」
主水はゲームをセーブし、電源を切ったあと、あわてて団地を飛び出した。
黄昏の色に染まった職員室で、小鳥遊先生が腕組みしたまま佇んでいた。
頭ごなしに叱ることもなく、鍵を渡してくれた。
すでに箱膳と水の容器まで用意してくれていた。これらの供え物は、日直の教員が早朝作るらしく、ちゃんと給湯室の壁にはレシピまで貼られているという。
主水は平謝りすると、盆に載せて両手に持ち、そそくさと中庭に向かった。
校舎に囲まれた中庭は青い翳りに支配されたため、暑さがやわらぎ、どんよりと湿っぽい空気が淀んでいる。
祠の前にそろそろと足を運んだ。
鍵を差し込み、扉を開ける。
失礼しますと言って、主水は身を乗り出した。
――赤い人、まさか飢え死にしちゃいないよな?
奥で、がさり、と身じろぎする気配がした。
祠の奥は墨をこぼしたような闇が蟠っていた。闇に同化していれば、安全地帯と言わんばかりに身体を縮こめ、光にさらされるのを最小限に努めている。わずかに光沢を放つものが見えた。
「遅くなってすみません。ゲームに夢中になってて忘れてました」と、主水は闇に向かって詫びた。すぐ手前に箱膳と水の容器を置き、昨日供えた空箱と入れ替える。「さ、お腹が空いたでしょう。お召し上がりください」
手のひらで供え物を示した。
頭をさげ、祠から出ようとしたときだった。
奥からガソゴソと物音がし、うめき声が洩れた。いかにも拷問による責め苦を受けているかのような、思わず耳をふさぎたくなるようなそれ。
闇から赤く爛れた手が伸べられた。
こっちゃ来いとばかりに手招きしている。
「おいで……」
しゃがれた声とともに、手がゆっくり動く。
細い五本の指がしなやかに、第一関節、第二関節が曲げられるさまを主水は見た。爪がすべて剥離し、指の先端から黄色い膿まで滴っていた。
「うわ……」
主水は格子に背中を押しつけ、伸びてくる手から逃れようとした。
退路を阻むかのごとく、ずいと、【ご神体】の身体が出てきた。
間近で見るその姿のおぞましさよ。全身は焼け爛れ、とりわけ異様な頭部が眼を惹いた。
七福神の福禄寿のように禿げ頭が異様に長い。いや長すぎた。血管が浮きあがり、歪なこぶ状になっている。しかも頭頂部がキノコの傘のようになり、真ん中で割れていた。
――これって、まるで……。
「こっちにおいで……」
赤い人は巨大な頭を傾けたまま迫ってきた。てっきり耐え難い痛みで俊敏に動けないのかと思いきや、日没になると活発になるのか。
「お、お身体が痛むのではないでしょうか? あまり無理をしない方が……」と、主水は苦しまぎれに言い、相手を制止させようとした。これ以上そばに来られると、どうにかなってしまいそうだった。「お願いですから、近寄らないで!」
――この【ご神体】は、学校の守り神どころか、とんでもない変態にちがいない。
「ずっと君を見ていた。前から気に入っていたんだ……」と、赤い人は荒い息をつきながら洩らした。なんの感情も表わさない黒い眼が潤いを帯びている。両手が猛禽類の鉤爪のように折り曲げられていた。「おいでったら……。触らせておくれ」
赤い人は長い頭をふりふり、すぐ近くまで這い寄ってきた。
貯金箱の投入口みたいな切れ目からぬっと、舌を露出させた。舌の表面は、まるで薬品を塗ったかのように真っ黄色だった。
「や、やめてください……」
「触らせてくれ……。痛みがやわらぐから。キスしてくれたら、もっとありがたいんだが」
キスしてくれ……と、赤い人はしきりにせがんだ。
呪文を唱えるかのごとく、くり返す。
捕食者が獲物を狩るときの緊迫感が立ち込める。箱膳が覆される音がした。
主水は、これは絶対ヤバいと思った。
襟足のうぶ毛が逆立つのがわかった。
――母さんが言ってたやつだ。世の中には、変わった性癖を持った大人がいるって。むやみに初対面の人を信用しちゃいけないって、あれほど言ってたのに! まさかこの祠の人がそうだったなんて、油断してた!
「時折、男の子を見て昂奮する大人がいるの」と、母の声が耳もとで甦った。そんな母は今でこそコンビニのパート店員にすぎないが、結婚する前はバリバリの保育士だった。まさに経験者は語る――。「そういう男の人は、子どもたちとどうにかして関わろうと、あの手この手で言葉巧みに近づこうとするの。子どもに対する性欲――性欲って言葉、わかるよね?――は、とんでもなくエネルギッシュなの。そのためなら必死で勉強して、保育士の資格や教員免許を取って、なにがなんでも大勢の子どもたちを相手にする仕事に就こうとするんだから、甘く見ちゃダメよ。もちろんそんなのは、一部の人間にすぎないけど」
【ご神体】は、さながらイモリのように四つん這いになって迫った。
しきりにキスしてくれ、と言い寄ってくる。
祠の入り口を相手にふさがれていた。主水はあまりの恐怖で委縮してしまい、その場に釘付けにされてしまった。これでは逃げようがない。
そもそもこんな異常性癖者を、どうして校長先生をはじめ、小鳥遊先生までもが信じ切って生かしているのか、理解に苦しむ。
――きっとこいつは、みんなを騙していたんだ!
傷つき打ちひしがれた見た目から、みんなの同情心を誘っていたにちがいない。
その実、ここぞとばかりに罪もない子どもを毒牙にかけようとしていたのだ。
ラテックス素材のような艶やかな赤い腕がニューッと伸びてきて、主水は肩をつかまれた。
福禄寿そのものの頭部はさらに縦長に大きくなった気がした。大きすぎて祠の天井に閊えそうだ。
すぐそばで【ご神体】の匂いを嗅ぐと、ひどく磯臭かった。タコを思わせる頭部だから、そう連想させたのかもしれない。
主水はとっさに赤い人の手首をつかんだ。
ゼラチンのような肌触り。無理に引き離そうとすると、肩をつかんだ手首はそのままに、ズルリと滑る感触がした。
主水は肩を見た。
相手の皮が手袋みたいにめくれ、手首のところでアコーディオンのじゃばらのような襞になっていた。筋肉の繊維がむき出しの手が、がっちりと肩に食い込んでいる。
「お願いだ……。主水、キスさせてくれ」
主水は声にならない声を放った。
追いつめられたネズミは土壇場で猫に反撃する。
キスを求めて近づいてきたタコの胴体じみた頭を思いきり殴りつけた。さながらアクションRPGのバトルみたいに。
右の拳に確かな手ごたえがあった。意外に赤い人の頭部は硬かった。
さらに連打する。
まさか抵抗されるとは予想外だったのだろう。相手は思考停止したかのように、硬直した。
目鼻のついた顔の中心に亀裂が入っている。
赤い人は自らその亀裂に両手をかけた。
そして力任せに、ゲートでもこじ開けるかのように広げた。
蟹の甲羅をはずすときのような乾いた音。
その透き間からは、二枚貝を剥いだときに現れるむき身みたいなジクジクしたものが見えた。
その下から新たな顔が露出したから、主水は驚かずにはいられない。二重構造の造りになっていたのだ。
眼は閉じられていたが、ひどく見憶えのある顔だった。
主水は信じられない面持ちで凝視する。
【ご神体】の中から現れた顔の眼が、ゆっくりと開かれようとしていた。
最後のチャンスではないか。完全変態を遂げていない今なら脱出できると思った。
さっと横っ飛びし、祠の入り口から後転するかのように外に出た。
尻餅をついて、後頭部を打ち付けた。
あとは施錠するのも忘れ、脇目もふらず、半ば這うようにして逃げた。Bダッシュどころではない。
こんな奴が逃げ出したとしても知ったことではなかった。声を嗄らして学校を飛び出し、校門を抜け、自宅の方へ走った。
もう大人は誰も信用できない。
◆◆◆◆◆
すぐシャワーを浴び、身体についた血やら膿やらを洗い流した。
仕事から帰宅した両親に叱られるのではないかと恐れたが、案に相違して声を荒らげられることもなかった。
月日はすぎ、なんとなく夏休みは終わってしまった。いつの間にかゲームへの熱意も萎んだ。
団地から流伽と一緒に学校へ通学する道すがら、それとなく聞いてみたが、彼女の反応も同じだった。
「は――。祠の【ご神体】? 全身赤い人って、なんのことよ。もしかして怖い話で、私をからかってる?」
と、眼を丸くし、側頭部で人差し指をクルクル回される始末。
てっきり【ご神体】の命じることに反したわけだから、二学期早々みんなに叱責されるのではないかと内心怯えていた。
講堂での全体集会でも同じだった。誰からも咎められなかった。
あとで校長室に呼び出されることもなかった。
教室に戻る途中、ためしに流伽とともに中庭に足を運んでみた。
祠はなかった。以前から見慣れたウサギ小屋が代わりにあるだけだ。
むろん中にはウサギの親子が、飼育委員が新鮮なキャベツを与えたばかりらしく、柔らかい葉を食んでいる。平和そのものだった。
結局、あれはなんだったのか?
9月に入ったというのに、いまだ残暑はきつく、遠くの運動場では陽炎が揺らいでいた。
チャイムが鳴ったので、二人は踵を返し、教室に戻ろうとする。
渡り廊下まで来たとき、校舎の陰で人の気配がした。
「やあ、ここにいたのですか。捜していたところだったのです。さ、1時限目の授業が始まりますよ。一緒に教室に行きましょう」
小鳥遊先生だった。
にこやかに笑ったあと、舌なめずりしたのを主水は見逃さなかった。
了