嘘
絶望ちゃんは、絶望管理局に所属する絶望コンサルタントで、皆の絶望に関する相談事を受けている。
誰かが絶望して、絶望管理局と契約を結ぶと、何処からともなくその誰かの許に彼女は現れる。現れる、といっても実際にやって来る訳じゃない。突然の白昼夢の中、パソコンの画面、或いは有り得ないはずの記憶など、その隙間に紛れ込むようにして彼女は僕らにコンタクトをして来るのだ。
数日前に、僕は絶望管理局と契約を交わし、絶望ちゃんの指導を受ける身となった。僕が選んだのは無意識希死念慮結実コースで、それは最も社会問題となっているプランの内の一つだった。
それもそのはずで、このプランは僕らが絶望をし、心の底からの湧き上がるような死にとり憑かれた時、自動的に死を齎してくれるといったものなのだ。具体的には、契約者が絶望をして死を望むと、“殺し屋”がやって来て、迅速かつ安楽にその命を奪ってくれる。
これは下手すれば殺人、かなり甘く観ても自殺幇助は確実で、つまりは犯罪である訳なのだけど、日本の警察は彼らに全く手が出せない。
何故なら、絶望管理局は、別世界のものだからだ。国際社会を迎える今日においても、外国の犯罪を取り締まることは中々に難しい。これが別世界となれば、更に困難になるのは当然のことで、日本政府は、結局のところ「絶望管理局と契約を交わしてはならない」、といった法律を作ることくらいしかできなかった。
しかし、その法律も実に効果が薄く、絶望管理局との契約者は後を絶たず、その犠牲者(?)の数も毎年、一万人を超えていた。絶望管理局の導きによって、死にまで至ってしまう人間がたくさんいるのだ。彼らに物理的制約は意味を成さないから、それを防ぐ手段がない、というのが実情らしい。契約を結んでいるかどうか見分けがつかないのも問題だ。絶望あるところに、絶望管理局あり。絶望さえあれば、彼らは時間も空間も乗り越えて、絶望を抱く者の許へと現れる。
彼らの目的が何であるのか、それは全く分かっていない。なんでそんな事をやっているのか。魂や負の感情をエネルギーにしているから、とか、彼らの正体は悪魔で、人の死を望んでいるのだ、とか、色々と説はあるみたいだけど、それらの憶測は証拠もなければ根拠もない、デタラメばかりであるらしい。そして、絶望管理局は、そういった仮説のものものを悉く否定する。
実際、彼らは積極的に人を死に導いたりはしない。彼らはその環境を用意してくれるだけであって、その行為を選択するのは飽くまで僕らなのだ。つまり、顧客の死は彼らの目的ではない。彼らはただ単に、絶望の取り扱いに関してレクチャーしてくれるだけ。そして、彼らの存在に関して唯一分かっている事実もそれだけだ。
彼らは絶望を取り扱っている。
僕が絶望を感じ、そのもやもやに頭を支配されると、ぼんやりとした闇のように、僕の胸の中に死にたい気持ちが浮かび上がってくる。
(胸)
(本当に、胸にそんな感じがする)
なんで、僕は生きているのだろう?
そんな答えのない(或いは答えの分かりきった)疑問符までもが登場する。そんな疑問符を思い浮かべた自分自身を馬鹿にしながら、それでも、その胸に浮かび上がった闇を僕は消せやしない。それどころか、闇は膨らみ続ける。その闇は柔らかくて手応えがない癖に、圧力だけは強くある。捉えどころがないのに、存在感があるんだ。
そのぼんやりとしたものを、胸に抱き続け、虚ろに顔を伏せて歩いていると、いつしか殺し屋のハリガネがその辺の、世界の“端っこ”から生えてくる。
ニョキニョキ、と。
彼は、絶望管理局所属の殺し屋なのだ。
道路のヒビや家の影や壁の隅、そういった街々からすっかり忘れ去られ、誰からも気にされなくなったポイント。
名前もないような数々の細菌類が、熱い日差しから逃れて人知れず繁殖していそうな、そういった場所。
そんな世界の“端っこ”から、殺し屋ハリガネは、生えてくる。
ニョキニョキ、ニョキニョキ、ゆっくりと。
殺し屋ハリガネの動きは遅い。非常に緩慢。その上、手足体顔全てが異様に細い。細長い。力なんか少しもなさそうで、実際に多分、かなり弱いはず。しかし、にも拘らず、この殺し屋ハリガネは恐ろしい。
殺し屋ハリガネは、極めて存在が希薄なのだ。だから、存在を殺して相手に近付くことが容易で、そして近付いたなら、手にしているとても小型のピストルで、至近距離からターゲットを撃ち殺してしまう。
この殺し屋ハリガネに気付くには、自分の中に生き続けたい気持ちが充分にある事が必須条件で、それがないと自分の中の無意識が、気付いていることに気付かせてくれない。つまり、無意識的な領域から死を本当に望んでいれば、ハリガネに気付かず、自動的に死ぬ事ができるのだ。
迅速かつ、安楽に。
いや、安楽かどうか、本当のところはよく知らないのだけれど。取り敢えず、迅速ではあるらしい。
僕は今までに二、三度このハリガネを呼び出したことがある。その存在感は奇妙だった。僕は彼が現れる時から、彼の姿を視覚していて、それをはっきり記憶してもいる。ニョキニョキと彼の身体が現れるシーンを思い浮かべる事だってできる。だけど、それなのに、にも拘らず、僕はその時、彼の存在には気付いてはいなかった。
全く。
視覚はしている。
しかし、僕の脳が、彼の存在を認めてはくれなかったのだ。視覚情報から、意味が奪われてしまっていて、そこで起こっている事がなんであるのか把握できなかった。言葉がただの発音になり、意味として捉えられない。言語中枢の何処かが麻痺をすると、そういった事が起こるらしいけど、恐らく、その時のハリガネに関しても同じような事が起きていたのじゃないかと思う。
つまり、それが、無意識が僕に気付かせてくれなかった、という事なのかもしれない。
僕は彼の手にしているピストルが、僕の額の中央にまで、にゅっと伸びる段になって初めて、そこで、死の存在と気配を感じ取った。その彼の行為の先にあるものが、その彼の希薄な存在にくっ付いているものが、“死”であることを自覚できた。そして、僕がそれを自覚してしまうと、ハリガネの動きはパタリと止まった。それから、僕が死の気配だけでなく、彼にも気付くと、ハリガネはあっさりと戻っていってしまった。
来る時と同じ様な動作で、ゆっくりと。
その様子は別に残念そうには見えないし、また喜んでいる風にも見えない。実に作業的に、無表情で淡々と、まるでタンスの中に収納されていく衣類のように、彼は戻っていった。世界の“端っこ”の中へ。
……今までで一番危なかったのは、本屋で文庫本の立ち読みをしていた時だ。
それは大きな本屋で、僕は僕の好みそうな本が中々見つからなくて、それでしばらく棚と棚との間をうろつき、当てもなく彷徨っていた。読む気もないくせに、本を一つ取り、……どんな本だったか内容は忘れてしまったけれど、読んでいる最中に何かを感じてふと上を見たら、そこには、スッと伸びた細い腕の小さな指にしっかりと握られた小さなピストルが、僕の頭を狙っていたのだった。
そのハリガネの腕は棚越しに伸びていて(そんな物理的な要因が原因ではないのかもしれないのだけれど)、僕は彼の存在には気付かないでいたのだ。
あの時、後もう少しで、僕は死んでいたはずだったのだ。
……でも、こうして生きているけど。
『まぁ 言っちゃえば、さ。絶望なんてみんな、嘘なのよね』
パソコンの画面から、おかっぱ頭の目の細い女の子が、僕に話しかけてきた。
そう、彼女。彼女こそが“絶望ちゃん”だ。
絶望管理局所属の絶望コンサルタント。
「嘘?」
彼女はその時は、パソコンの画面に現れ、僕に絶望を指導してくれていた。
「嘘って?」
僕は意味が分からずそう尋ねる。
『極論だけどねぇ~』
彼女はカラカラといった感じの声で、やる気なさそうにそう反応した。
『あなたってば、絶望って、何かしらのイベントにくっついたものだと思っているのでしょう? なんか不幸なことがあって、それで絶望して死にたくなるって… でも、それ、本当を言うと違うのよね。本当を言っちゃえば出来事なんて関係ないわけよ、絶望には。楽しい事ばっかで、何にも不幸なんてなくたって、絶望はしっかりやって来る時にはやって来るの。何故なら、絶望は嘘だから』
嘘だから。
僕は、それでも意味が分からなかった。
「嘘って、誰の嘘なのですか?」
それを聞くと、絶望ちゃんは二ッと笑った。それは、本当に、『二ッ』って感じの、ザッツライトで『ニッ』な笑いだった。
『あなた自身』
僕自身?
『或いは、あなたの脳みそちゃん』
脳みそちゃん?
それって…
『もう分かってるかもしれないけど、絶望なんて、脳みそが作り出す単なる幻である訳よ。脳内麻薬の分泌が止まるとか、交感・副交感神経が働いてない、とか。実際に、幾ら状況が最悪でも、脳さえ“絶望”を産み出す状態にならなけりゃ、絶望なんてやって来ない』
そこまでを聞けば、僕にも彼女の言いたいことが分かった。でも、それって、そんな事を言っちゃえば、絶望に限らず、全ては脳の作り出す幻になるじゃないか。つまりは、全ては嘘だっていう事に。
『ただ、その脳の作り出す幻は、人間の自由にはならないのだけどね。やっぱり、脳の状態は周囲の環境の影響を受けるし。という事は、それを踏まえつつ、どうやって、脳の作り出す嘘に付き合っていくかが問題、なのよね』
カラカラとした質の声が、空ろにパソコン画面から響いている。
……それは、
全てが脳の作り出す嘘だとするのならば、その嘘である全て、とどう付き合っていくかが肝要になる。つまり、そいう事でもある訳か。
……彼女と、どういう経緯で、その店で一緒に昼食を取ることになったのか、僕はもう覚えてはいない。
なにか事情があった気もするし、ただ単に偶然、相席になっただけのような気もする。でも、とにかく、僕らはそこで初めて出会ったのだった。そこはデパートの中にあるファーストフード店で、僕らは向かい合いになって無言で座ってた。
お互い、何も喋らない。
周囲の喧騒は、とてもにぎやかに、そしてとても楽しそうに響いていて、まるで僕ら二人だけ別世界にいるように思えた。
寡黙で、暗い。
僕ははじめの内は、彼女に対して好意なんて持っちゃいなかった。人と接するのって苦手なんだ。触れるのは避けたい。彼女に限らず、誰とでも、上辺で済まそうとするのが僕のやり方。
ヤマアラシのジレンマって知ってる?
お互いに近付き合いたい。合いたいのに、ハリが邪魔して、近付くと互いが互いを傷つけてしまう。だから、次第にハリがぶつからないくらいの距離を、お互いが確保するようになっていく って人間関係心理の例え話。
僕にとって他人のハリはとても長くて、かなり離れていても僕を傷つける。そして、もちろん、他人のハリが長いという事は、僕のハリも僕にとってはとても長くて、かなり離れていても他人を傷つけてしまう。傷つけてしまう、とそう思ってしまう。だから、僕は人と接しようとはしない。でも、そんなのは、僕の抱いている幻だって僕は気付いている。けど、僕の中の「脳みそちゃん」は気付いていない。僕の「脳みそちゃん」が気付いていないと、僕自身には「脳みそちゃん」を説得する事は中々に難しくて、結果的に僕にとってのハリは長いままになってしまう。
でも、彼女と向かい合って、無言のまま見つめている内に、僕に不思議な事が起こったんだ。
僕には彼女のハリが見えなかったのだ。
彼女にはハリがない。そして彼女は、自分の身を護るハリがないまま他人に近付き、他人のハリでいいだけ傷つき、結果的に致命傷を負い、結果的に今僕が目の前にいるような人間になってしまっているように僕には思えた。
僕はそんな彼女を見つめている内に、どんどんと嫌な気持ちになっていった。彼女に嫌悪感を抱いた訳じゃない。嫌悪感を抱いたのはこの世の中に対してだ。
くだらない。
なんて、くだらないのだろう?
彼女の暗く、虚空を見つめているような視線が痛々しかった。優しそうな顔が、悲しく無表情なのがやり切れなかった。
彼女みたいなタイプの人間が、こんな風になってしまう世の中。
僕にはそれが嫌で嫌で仕方なかったのだ。
暗い気持ちになっていた。
(なんで、もう少しくらいは、優しい場所にできないのだろう?
この場所を…)
絶望。
逃げ出したい。
こんな場所からは、早く逃げてしまいたい。
(絶望)
すると、世界の端っこから、殺し屋“ハリガネ”が生えて来た。当たり前のように、ニョキニョキ、と。
僕を殺しにやって来た。
僕は彼の希薄な存在感を受けて、ニタリと残酷に笑ってやった。
僕を殺しにやって来た。
僕を殺しにやって来たの?
(なら、)
このまま、殺されてやろう。
そう思ったんだ。彼の緩慢な動作が分かった。近付いてきている。ほら、(ほら、)、細長い腕がゆっくりと伸びてきている。その小さな指には、とても小さなあのピストルが握られている。このままピストルは伸びて来るはず。僕のこめかみまで、あと少し。
…でも、
(でも、)
何故か、“ハリガネ”のピストルは、僕のこめかみには向かわなかった。
彼女
(彼女)
僕と向かい合って座っている優しそうな彼女に向けて、殺し屋“ハリガネ”のピストルは、何故だか知らないけど、伸ばされているのだった。
まさか……、
僕は思った。
この殺し屋“ハリガネ”を、呼び出したのは僕じゃない? 僕じゃなくて、目の前にいるこの女の子?
彼女が絶望を感じている?
なんで!?
それは咄嗟の判断だった。そう思った瞬間には、僕はその言葉を口にしていたのだ。
「た・楽しいですね」
およそ意味のない言葉で、何がどう楽しいのか言った僕にも分からなかった。不自然で空気に馴染まない響き。
でも、そんな言葉でも、彼女は拒否はしなかったのだった。
そう。
彼女は、他人を傷つける鋭いハリを持ってはいない。だから、僕のそんな間抜けな言葉さえも拒否をしない。
彼女は一瞬だけ、驚いた顔を見せたその後で、ゆっくりと微笑んだのだ。
「ええ」
と、だけ応える。
戸惑っている。戸惑ってはいるけど、その笑顔は嘘じゃなかった。僕には、何故だか知らないけど、それが分かった。彼女は僕が「楽しい」と言った事を喜んでいる。そして、そうして微笑むのなら、(微笑む事ができたのなら)、彼女の中に微かとはいえ、生きてる理由が生じるはず。
案の定、“ハリガネ”の動きがピタリと止まる。
ピストルを握った手が、ゆっくりと引っ込んでいき、それから、急速に動きを速めて“ハリガネ”はたたまれていった。世界の端っこへ。
そうだ。
何処かへ行ってしまえ……。
僕はそれから、無理に話を紡いでいった。(僕のハリはとても長いんだ)。ここで話すのを止めてしまったら、きっと彼女をより傷つけてしまう。だから、何としてでも話し続けなくちゃならなかった。話題なんか出ないかと思ったけど、話し始めると、自然と連想ゲームのように話題は出てきた。僕がこれだけ話せるのは珍しい事だ。やがて、僕の態度から不自然さが消え、彼女の笑顔からは戸惑いが消えていった。
彼女は他人を傷つけるハリを持たない。
多分、だからだろうと思う。だから僕は安心をして話をする事ができているのだ。彼女が笑うと、僕も嬉しくなって笑っていた。そうすると、ますます僕は話をする。話をすると、更にそこから笑顔が生まれて…
……その出会いが切っ掛けとなって、それからも僕らはよく一緒に遊ぶようになっていた。僕も彼女を必要としていて、彼女も僕を必要としていた。僕らの付き合いは、そんな事情からとてもうまくいっていた。
周囲の人はそんな僕を、前と変わったと言っている。明るくなったって。
そう。
全ては嘘だったんだ。『絶望ちゃん』の言う通り。全ての現実は幻。幻であるのなら、僕の暗澹たる世界だって変えられる。
別の幻を現実にしてやろう。
みんなが噂話をする。
“あいつは、たった一人でいるのに、最近なんだか、明るくなった”
そう。全ては幻。嘘。その嘘と、どう付き合っていくかが肝要なんだ。




