あの頃の記憶
重い防具の内で早まる鼓動を抑え、息を整える。相手と竹刀の先を触れ合わせ、機会を探る。相手は私の面に狙いをつけ、飛び込んでくる。
この機会を待っていた。
私も相手の面を目がけて一歩を踏み出した。私の竹刀は相手よりも早く面を捉える、はずだった。
体が崩れ落ち、硬い床にあたる。視界が黒く、狭まっていくようだ。
誰か、助けて…
『バン』
私は衝撃で目を覚ました。私の机の隣には数学の中村先生。
「おい、南條。成績が大変なことになっているお前のために、補習に呼んだっていうのに、開始早々寝るなんていい度胸だな。そんなに俺の補習を受け続けたいか?」
「…いえ、滅相もございません。」
「なら、補習をよく聞いてテストで結果を出すんだな。」
そう言って先生は教壇に戻っていった。
思い出した。今日は放課後の補習に来ていたんだった。数学は一番眠気を誘うんだよな…
真希が寝ていて遅れた分の板書を取り始めると、教室の扉がガラガラと開いた。
「遅れてすいません、中村先生!」
入ってきたのは、ぼさぼさの髪で紺色の剣道着に身を包んだ女子生徒だった。
「才川…」
姿を見て思わず呟いた。それは剣道部の元同期、才川栞だった。
先生が才川のほうをじろりと見る。
「遅れてくるとはいい度胸だな。お前もそんなに俺の補習を受け続けたいのか?」
「いいえ!補習があることを忘れていました!遅れた分も頑張って取り戻します!」
「…その返事に免じて大目に見てやろう。早く座れ。」
才川は空いた席に座って真剣な顔で補習を受け始めた。
あの頃、才川は一年生で団体戦の先鋒に選ばれ、大将の私と一緒にチームを引っ張ってきた。一番気の許せるチームメイトだった。それなのに、才川に部活を辞める相談をしなかったのは変なプライドが邪魔したからだと思う。
補習が終わると才川は私の方に駆け寄ってきた。
「南條!久しぶりだね!」
才川は私との間に何もなかったように話しかけてきた。才川とは部活を辞めてから一度も話していない。私が避けたからだ。
「うん、久しぶり…」
この空気を読まない感じ、柚葉ちゃんに初めて会った時に誰かに似ていると思ったが、才川のことか。
「南條、今日なんか変だね?補習辛かった?」
才川が的はずれな心配をしてくる。いや、そんなことより、
「才川の格好のほうがおかしいわ!お前が変とかいうな!」
才川は大きく口を開けて笑った。
「あはは、補習忘れてて部活始めちゃったんだよね。途中で気づいて、慌てて消臭剤ふりまいてきたんだけど…やっぱりまだ私、汗臭い!?」
そう言って才川は自分の腕をくんくんと嗅いだ。
「いや、どちらかというとフローラル臭い。」
「いやぁ!」
そう言って匂いを抑えるように自分を抱きしめた。
思いだした。才川ってあんまり汗かかないし、一緒に激しい練習しても柔軟剤のいい香りがしてたな。夏場は面に塩を噴くまで汗をかく私はそれが少し羨ましかったっけ。
「こんな風に南條が笑ってくれるならフローラル臭くてよかったな。」
才川はにこっと笑った。
才川は私に優しくしてくれるけど、私は才川のことを裏切ったんだ。一緒に全国大会行こうって約束したのに。
「才川は私のこと、責めないんだね。」
「なんで私が南條のことを責めるの?」
才川は不思議そうな顔をした。
「あの試合で怪我してから南條はずっと辛そうだった。私に何も相談してくれなかったのは寂しかったよ。でも、辞める理由が『剣道以外の新しいことをやりたくなったから』だって聞いて納得したの。このまま剣道部にいても南條は剣道を嫌いになっちゃうかもしれない。それなら新しいことに夢中になるのもいいかなって。どう?新しく夢中になれることは見つかった?」
才川が私の目を見つめる。
「うん。いつか才川にも紹介するね。」
今はまだ言えないけど、この戦いが終わったら必ず。
「そか。よかったよかった。」
才川は照れたように前髪をいじった。
「私は南條と一緒でずっと剣道しかしてこなかったから、新しいことに挑戦できるのってちょっとうらやましいんだよね。今だってそりゃ充実しているんだけど。自分のことを『私にはこれしかない』って決めつけるのは面白くないよね。私達はこぉーんなにおっきな可能性があるのに。」
そう言って両手を広げた。
そうだ。私にはない考え方を持った才川だからこんなに一緒にいて心地よかったんだ。黒い気持ちに支配されてそんなことも忘れてしまっていた。
「才川。」
「ん?」
「あの、さ。」
才川の顔を真っ直ぐ見る。
「いつか、私とまた剣道してくれないかな。」
才川は嬉しそうに笑った。
「もちろん!」