第5話 晶国へ
それからルカ本人の意思などまったく関係なく話は勝手に進んだ。
晶国は言葉も習慣も違う国ということで2ヶ月の猶予をもらい、その間にエレノアと二人で勉強することになった。国で一番の賢者と言われるボナール教授は、晶国を研究しており言葉も理解している。そのため、毎日二人はボナール教授の授業を受けている。
「晶国の言葉は魔法の詠唱で使われる言葉と同じ系統ではありますが、意味が多少異なる使い方をしている単語も少なくありません。今日はその中でも、日常的に使われるであろう言葉を勉強していきましょう」
長い白髪と白髭を伸ばしたいかにも賢者らしい姿のボナール教授は、優しい笑顔で黒板に文字を書き出す。
ルカはそれを真面目にノートに書き写していく。けれどその隣で、エレノアはいかにも飽きたという顔で小さくあくびをしている。
「エレノア姫、日常会話で使いそうな言葉です。ぜひ覚えておいた方が良いと思いますが」
「ふん。こんな言葉、発音から何から大陸語と全然違うじゃない。どうやって覚えたらいいというのよ」
「ですが、王妃となるなら晶国の言葉が話せないのは、ちと困るのでは?」
ボナール教授はエレノアの怠惰な態度を怒ることもなく、穏やかに言ってくる。
「そのためにルカを連れて行くんでしょ。ルカが完璧に話せれば問題ないじゃない。わたくしが恥をかくことがあるなら、それは全部ルカのせいよ。それにわたくしだって馬鹿じゃないんだから、あちらで聞いている内に覚えるわよ」
楽観的なエレノアの言葉にルカは呆れたが、ボナール教授は顔色を変えることはなかった。
「ルカ、そなたは随分言葉を覚えてきたが、それ以外で心配なことはないか?」
「そうですね……。晶国は魔物と共存する国だと伝承にはありますが、これは本当なのですか?」
「そうだな。結界の内、魔の森には多くの魔物が存在するという。我らにとって魔物とは討伐すべき存在だが、晶国ではそうではないのかもしれないな」
「私は魔法が使えるといっても、ほんの少しです。それで晶国に行っても平気でしょうか」
それはずっと不安に思っていたことだ。エクール王国にも魔物は出没するが、それらはすべて騎士や兵士たちが討伐している。ルカは生まれてから一度も魔物に出会ったことはない。
もし本当に晶国に魔物がたくさんいるとしたら、自分は無事でいられるだろうか。
「ルカ、あなたがそんな弱気でどうするのよ。わたくしは魔法が使えないのよ。あなたがわたくしを守らなくちゃいけないのに」
「そんなこと言われても……。お付きとして共にいく者は他にいないのですか? 魔法騎士とか」
「わたくしが決めたことに文句があるの!?」
「そ、そういうことでは……」
言葉も分かって魔法も強い者がそばにいた方がいいに決まっている。それなのにエレノアは頑なに自分をお供にすると言う。
そんなにも自分に意地悪をしたいのだろうか。ギルバートのことが許せないのだろうか。
「とにかくもうあまり時間がないのだから、あなたはグダグダ言わず勉強しなさい。わたくしに恥をかかせるんじゃないわよ」
「……分かりました」
ルカは渋々返事をすると、仕方なく勉強を再開した。
◇◇◇
そうしてあっという間に2ヶ月が経つと、出立の時となった。
エレノアの人質の話は国民にも伝わり、馬車に乗り込む頃には、門前に多くの国民が詰めかけた。見目麗しく国民に人気が高いエレノアが、16歳という若さで人質になることに同情的な目を向ける国民たちは、口々に「お可哀想に」と叫んでいる。
煌びやかな馬車には山のようなエレノアの荷物が載せられている。別れを惜しむ国王がエレノアに向かって「息災でな」と心配そうに言っている。ルカはといえば、少し前に父親に「絶対に姫様に迷惑をかけるんじゃないぞ」と別れの言葉もないまま、忠告だけを受けた。
空しい気持ちのままエレノアの様子を見つめる。エレノアはいかにも王女らしく、胸を張り美しい笑顔を国民に向け、手を振っている。歓声が上がる中、エレノアは壇上に上がった。
「わたくしはエクール王国のため、ひいては五大国の平和のために、この身を犠牲にして晶国へ参ります。未知の国とはいえ、王妃という立場で迎えられるからには、エクールの王女として恥じない王妃になるつもりです」
透き通る声で発せられる言葉に、国民から割れんばかりの歓声と拍手が沸き上がる。
「祖国を離れ、二度と戻ることはないかもしれない。それでもわたくしは、エクールが平和であることを祈り続けます!」
目に涙を浮かべ決然と告げたエレノアの姿は、ルカにとってはまるで茶番だった。エレノアが本当にそう思っているか知らないが、ルカの心には微塵も響いてくることはなかった。
温かい拍手の中、エレノアが優雅に馬車に乗り込む。ルカはまるでそこで空気にでもなった気分だった。ルカだけを置き去りにしてすべてが動いている。自分がいてもいなくても何も変わらない、そんな気がしてしょうがなかった。
だがそんな訳もなく、エレノアが「何してるの、早く乗りなさい」と先ほどと打って変わって冷たい声を発して、ルカは我に返ると重い足取りで馬車に乗り込んだ。
「あなたは気楽でいいわよね。わたくしは国民の期待を一身に受けているから、何をするにも大変だわ」
肩を竦めてそう言うエレノアの顔は満足げに笑っている。ルカは何も言う気にならず黙り込んだ。
「何よ、その顔。辛気臭いわね。これからあなたとずっと一緒かと思うとうんざりするわ」
悪態は今に始まったことじゃない。ルカはその言葉を右から左に受け流して、窓の外を見た。
走りだした馬車は城を出て城下町を進む。道の両端には多くの国民がおり手を振っている。花びらを巻く女性たちもいて、美しい花吹雪が舞っていた。
(綺麗……)
美しい城下町をルカはできるだけ覚えておこうと、目を離さずにいた。
もう帰ってくることはないだろう。そんな絶望しか胸にはなかったが、もう涙は涸れ果てて、緑の瞳は潤むこともなく、ただはっきりと街の景色を映し続けた。
◇◇◇
城下町から国境までの道のりは馬車で3日の旅だった。途中休憩も挟みながらののんびりとした馬車の旅は、遠くに鬱蒼とした魔の森が見えだすと終わりを迎えた。
近付いてみるとエクールでは見たこともない密度の濃い高い木々が生い茂っている。その森の端に、こちらを待つ一団が見えた。
馬車が止まり外で話し声が聞こえる。さすがにエレノアも緊張しているのか、顔は強張っている。
「姫様、お降り下さい。ここから晶国の馬車に乗り換えるそうです」
外から声が掛かり、ルカはエレノアを見た。
ルカもさすがに心細く感じ足が動かない。
「さ、行くわよ」
「は、はい!」
覚悟を決めたエレノアの声に、ルカは戸惑いながらも返事をすると腰を上げた。
馬車の外に出ると、大きな馬車が一つと、その周りに数名の兵士がいるのみだった。あまりの少ない出迎えに驚く。
「エクール王女、エレノア姫様ですね。お迎えにあがりました」
黒髪の男性が大陸語で話し掛けると深く腰を折る。それが晶国では挨拶なのだとルカは理解して同じように腰を折って挨拶する。
「わたくしは王妃となるはず。随分と寂しい出迎えね」
「申し訳ございません。魔の森は大人数で越えるのは骨の折れること。魔物を刺激しないためにも少人数でのお迎えになりました。ご了承ください」
男性は申し訳なさそうにまた頭を下げる。その様子にエレノアは「ふん」と鼻を鳴らすと、ツカツカと晶国の用意した馬車に歩み寄った。
ルカもその後ろに付いて歩いたのだが、馬車を引く馬を見て目を見開いた。
「馬に……羽が!!」
美しい2頭の白馬の背には明らかに羽がある。鳥のような羽毛ではなく、コウモリのような薄い皮膜のような羽だ。額を見ればねじれた角がある。
「翅馬と言います。騎乗できる魔物は他にもいますが、翅馬は穏やかな性格で誰にでも懐き、飛行速度もかなりのものですので、晶国では日常的に使われる魔物ですね」
「シバ……、魔物なのですね」
「さぁ、お乗りください」
男性が馬車の扉を開くと、そこには何もなかった。美しい模様の敷物があるだけで、座れる場所が何もない。
「何よ、これ。どこに座れっていうの!?」
「ああ、丘の民の馬車には椅子があるのですね。晶国は基本的に足を折って床に座るのです。慣れないかもしれませんが、どうぞ中へ」
エレノアの表情がみるみる内に歪んでいく。ルカはボナール教授の授業で学んだことなのでそれほど驚かなかったが、さぼって話を聞いていなかったエレノアには初耳だったのだろう。
ルカは小さく溜め息を吐いてから、エレノアに顔を向けた。
「エレノア様、晶国ではこれが普通です。侮られている訳ではありませんよ」
「……そうなの?」
「はい。皆、同じように床に座るんです。大丈夫です」
「そう……。ならいいわ」
エレノアはまだ少し納得いかない顔をしていたが、それでも渋々馬車に乗り込んだ。
ルカも馬車に乗り込むと、扉が閉まる。
ここでエクールの兵士たちとは別れ、ついにエレノアと二人きりになってしまう。そう思うと、突然不安が押し寄せてきた。
(本当に私やれるのかしら……)
覚悟はもうとっくに決まっていたと思っていたが、やはりその場になると心は揺らいだ。
扉の外を見ると、晶国の兵士が森へ向かって手を上げている。何をしているのかと見ていると、景色がぐにゃりと歪んで見えた。
(あれが、結界?)
何もないはずの空間が、七色に歪んでいる。動き出した馬車はその歪みに吸い込まれるように入った。
窓の外は鬱蒼とした森の景色になる。暗い景色に不安が募り、ルカは視線を戻した。
「晶国の城までどのくらいなのかしら」
「さぁ、さすがにボナール教授も晶国の城がどの辺りにあるのかは知らないと言っていましたしね」
「こんな姿勢でずっといられないわ」
「我慢して下さい。疲れたら休ませてもらえるように言いますから」
エレノアの機嫌をどうにか直そうと話していると、ふいに馬車の揺れがなくなったように感じた。
止まったのかと窓の外を見て、ルカはそこに森の景色がないことに気付いた。少し身を乗り出して窓の外を見たルカは思わず声を上げた。
「そ、空を飛んでる!!」
「何を言ってるの?」
「エレノア様!! この馬車、空を飛んでいます!!」
「ええ!?」
エレノアも同じように窓の外を見て目を見開いた。
馬車はすでに森の上空をすごい速さで飛んでいた。首を捻って前方を見れば、翅馬と言われた魔物が、大きく羽を広げて空を駆けている。
そして兵士たちはそれぞれ翅馬に跨り、馬車を囲んで飛んでいる。
「す、すごい!!」
「ル、ルカ!! まさか落ちないでしょうね!?」
エレノアが恐怖に引き攣った顔をしてルカにしがみついてくる。
けれどルカは恐怖などなく、目を輝かせて風景を見た。どこまでも途切れることなく鬱蒼とした森が眼下に広がり、馬車の行く先には、まだ雲に霞む高い山々が見えている。
晴れ渡る空に、まるで並走するように鳥が飛んでいる。その雄大な景色を見て、ルカの不安は一時、消し飛んだのだった。