第20話 嵐との関係
嵐に身体を支えられながら廊下を少し行くと、庭に置いてある椅子に座らされた。
「ちょっと待ってな」
嵐はそう言うと、懐から手拭いを出し、そばに流れている小さな滝に差し込み水に濡らすと戻ってきた。
その場で軽く絞り、それをルカの頬にそっと当てる。
「大丈夫か?」
「うん……」
「打つなんて酷いな」
「癇癪はいつものことよ……」
ヒリヒリと痛む頬に、冷たい手拭いが気持ちいい。優しい嵐の心遣いにも癒されて、ルカは少しだけ笑みを見せた。
「何があったんだ?」
「それが……、陛下が少し私のことを気遣ってくれて……、二人でいるところをエレノア様が見てしまったの。何でもないのに、誤解してしまったようで……」
「なるほど。確かに陛下はルカのことを気に入り始めているな」
「そうなの?」
まさか嵐が事情を知っているとは思わず、驚いて訊き返すと、嵐は軽く頷いた。
「陛下も、華露皇貴妃たちも、王女よりもルカの方が印象が良いみたいだな」
「そんな……、それは困るわ」
「なんでだ?」
「だって! だって私は単なる侍女よ。使用人がエレノア様より気に入られたって仕方ないもの」
ルカの言葉に嵐は不思議そうに首を傾げる。
「使用人とかいうのは、あんまり関係ないと思うけど」
「関係あるわ。使用人はあくまで使用人よ」
嵐はあまり理解している表情ではなかったが、それ以上この話を続けることはなかった。
ルカの前に膝を突いたまま、もう片方の頬も冷やしてくれる。
「黒雷尾たちと随分仲良くなったようだな」
「そうかしら」
「うん。世話してる子たちも、ここをうろついてる子たちも、なんだかんだルカのこと気に入ってるようだぞ」
「さっき小さい体の子たちを撫でられたの。私のこと、慣れてくれたのかしら」
「あれだけ一生懸命世話すれば、皆ルカのこと認めるさ」
嵐の言葉にルカは笑みを浮かべる。その笑顔につられるように嵐も笑う。
「ルカは王女の世話も大変だろうに、我慢強いし、前向きだな」
「そうかしら……」
「うん。働き者だし、黒雷尾たちにも優しい。それに何よりいつも笑顔なのがいい」
「そ、そう? そんなに私、笑ってるかしら」
「うん。ずっと見ていたくなる」
じっと見つめられてそう言われると、ルカはなんだか気恥ずかしくなって嵐から目を逸らした。
「ら、嵐も、いつも笑顔よね」
「そうか?」
「うん。私、いつも嵐の笑顔にすごく勇気づけられているの」
「本当か?」
嬉しそうな嵐の声に視線を戻すと、少し顔が近くてルカの胸がドキンと跳ねた。
真っ直ぐに見つめる紫の瞳は吸い込まれるような美しさで、ルカは突然嵐を強く意識した。
(私……、何を考えてるのかしら……)
晶国に来る時、見知らぬ土地でやっていけるか、侍女としてちゃんと働けるか、そんなことばかりが頭にあって、まさか男性と仲が良くなるなんて思いもしなかった。
けれど嵐はこれまでで出会ったどんな男性よりも好感が持てた。これまで婚約者とも本当に本心から会話をしたことはなかった。嫌われないように、おかしな女性だと思われないように常に気を張り、“良識ある貴族の女性”を演じ続けた。
晶国に来て使用人という立場になってからは、そんなこと一瞬も考える暇はなくて、一生懸命働いている時に、女性としてどう思われるかなんてどうでも良かった。
そんな自分が今、嵐にどう思われいるか、とても気になった。
(私もしかして……)
ふいに心に芽生えた気持ちに動揺したルカは、あからさまに下を向き嵐の視線から逃げてしまった。
「ルカ?」
「やぁ、いたいた」
不思議に思ったのだろう嵐が名前を呼ぶ声に重なるように、突然男性の声がした。
ルカが驚いて声のする方へ顔を向けると、そこには今まで一度も見たことのない男性が立っていた。
端正な顔に派手な衣装がよく似合っている。長い黒髪を横に緩く三つ編みに編んでいて、それを括っているキラキラとした赤い紐が目を引いた。
「秀」
「仕事をさぼってどこにいるのかと思えば、まさか女の子といるとはね。というか、君はもしかしてエクールから来たっていう王女様?」
「い、いいえ! 違います!」
自分に話し掛けられて慌てて首を振ると、秀と呼ばれた男性はにこにこしながら近付いてくる。
「ふぅん? じゃあ誰かな?」
「私はルカ・シュバルツです。エレノア王女様のお付きで来た者です」
「ああ、侍女の子ね。で? なんで嵐は侍女の子となんだか良い感じになっているのかな?」
にやにやとした笑いを嵐を向けると、嵐は眉を寄せて秀を睨んだ。
「別にいいだろ。それより何か用か?」
「きっと君は上で遊んでいるだろうから呼んでこいって、丞相がね」
秀の言葉に嵐は小さく溜め息を吐くと、ゆっくりと立ち上がる。
「ルカ、もう大丈夫か?」
「平気よ。気遣ってくれてありがとう」
「星露宮に戻るのか?」
「うん。仕事に戻るわ」
「そっか」
心配そうな表情の嵐に笑顔で頷くと、嵐は納得したように頷いた。
その様子を秀が面白そうに見つめている。その視線に気付いた嵐が咳払いをした。
「その顔やめろ」
「昔からこの顔だと思うけどね」
「ふん」
二人の様子を微笑ましく感じながら、ルカも立ち上がると頬に当てていた布をポケットにしまった。
「嵐、仕事大丈夫? さぼらせちゃってごめんね。怒られない?」
「平気さ。ちょっと叱られる程度だよ」
「ホント?」
「嵐はいっつも怒られてるから大丈夫だよ、お嬢さん」
間に割って入る秀にルカは目を向ける。
「ルカと呼んで下さい」
「ルカね。私は秀・雪。嵐の幼馴染だよ」
「ああ、だから仲が良いんですね」
「俺と秀は仲良くないぞ」
「寂しいことを言うなよ。唯一の幼馴染じゃないか」
秀が嵐にじゃれつくように肩に腕を回すが、嵐は眉を吊り上げてそれを振り解く。
「じゃあ、俺は行くよ」
「うん。ありがとう、嵐」
二人連れ立って廊下を去って行く後ろ姿を見送ったルカは、少しだけ気合いを入れるとエレノアの部屋に戻った。
もう一度くらい叱られるのを覚悟で部屋に入ると、なぜか鈴が慌ただしくエレノアを着付けていた。
「ルカ! どこ行ってたの!? あなたも早く手伝って!!」
「え!? あ、はい!!」
エレノアの怒鳴り声に、ルカは慌てて返事をする。何が何だか分からず、鈴に視線を向けると、帯を手渡された。
そうして小声でこそっと耳打ちされる。
「皇后様からお呼びが掛かったの!」
「皇后様!?」
今まで一度も姿を現さなかった皇后の突然の登場にルカは驚く。
「ルカ! サファイアの髪飾りを出して! あなたしか分からないんだから早くしてちょうだい!」
「分かりました!」
苛々したエレノアの声に、とりあえず考えるのは後にしてルカは急いでエレノアの着付けを手伝った。
そうして煌びやかな衣装に身を包んだエレノアは部屋を出た。
「ルカ、あなたは広間の隅にいなさい」
「え、でも」
「いいわね?」
「は、はい……」
そばにいなければ通訳はできない。けれどエレノアはどうやら自分と皇帝を近付けさせないことにしたようだ。
鈴に通訳をさせるのだろうかとちらりと鈴を見る。
(仕方ないか……)
自分に与えられた仕事を奪われるのはなんだか落ち込むけれど、こればかりは仕方ない。
ルカは肩を落としてエレノアの後を追った。
謁見の大広間に着くと、初めて皇帝と会った時と同じように、正面に皇帝が、両脇に妃たちが待っていた。だがその時と違う点があった。皇帝の隣に美しい女性が座っている。
皇后だろうその人は、真っ白の髪であまりにも珍しくルカは目を見開いた。遠目に見ても美しさが分かる。たおやかな雰囲気で穏やかに笑みを浮かべている。
「あなたがエレノア王女ね」
優しい声で皇后はそう言うと、にこりと笑った。




