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【19.導火】

ラフィンは、墜落の衝撃を結界の繭玉にかろうじて守られた。

守った繭玉は消失し、ラフィンは地面にそのまま倒れる。意識はあるようだが動けない。

アルビナスが急いで張った結界も、周囲にうっすらと残骸が残ってはいたが、今は既に結界の様相ではなかった。

「いたぞ」

兵士3人が駆け寄っても、何の防護にもならずにラフィンを取り囲んだ。

兵士がラフィンの髪を掴んだ。力なく首だけ上がる。

「死んでるんじゃないか?」

「構わんさ。急げ。これを手柄にさっさと戻ろう」

そのまま乱暴に髪を引っ張った。首が伸びきってからようやく体がずるりと動いた。

金髪の髪はすっかりかさついて汚れ、色がくすんでいた。

顔色も悪く、見る影もない姿だった。

「東の伯爵も物好きだ。こんなもののどこがいいんだか」

「それを取って来いといううちの当主様もな」

「いいから急げ。セントラルだろ、ここ」

腕が抜けそうな勢いでラフィンを引き上げる。痛みに呻くラフィンを一瞥。

「生きてるな。仲間ほとんど東にやられた。いざというときは人質に」

その時になって周囲を取り囲む異様な気配に気づいた。

何かが地中を蠢いていた。大きくて無数の何か。

彼らの真下にそれらは集結していた。

「何」

言いかけた兵士は無数の棘に体中を刺された。そして地中に引きずり込まれる。

ラフィンは支えを失って地面に叩きつけられた。

そのラフィンにも長く鋭い棘が一斉に向かった。


アルビナスは異様な気配に慎重に周囲を伺った。

先程感じた気配。

確かに殺気であり緊迫した気配が立ち込めたのに、ふと消えてなくなった。

「気を失っててくれよ」

害を為さねば害を為さぬとも聞いた。そうであれと願う。

自分と同様に数名の西の兵がこの地に降り立ったはずだ。

もし戦闘になって、この場は何も反応しないのか。

しないわけはないか。

無数に放たれた空気の刃はおそらく北の仕業。

侵入に敏感なのはセントラルも同様のはず。

もしここが‘森’なら尚のことだ。

ふと宙に舞う何かに気づいた。

金の粉?

アルビナスは漂う金色の湯気の様な空気を見つけて向かった。


ラフィンは金色の粉の中に埋もれていた。

周囲に何者の気配もなかった。

「・・・」

細かな金粉がさらさらと音もなくラフィンの服から滑り落ちる。

染み一つない衣装に違和感を覚えるアルビナス。ラフィンは安らかな寝息を立てていた。

金の粉に塗れたせいか、またラフィンの金の髪が輝いて見えた。

アルビナスはラフィンを抱き上げた。

そしてユピの腕輪を見入った。

「・・・」

2本の紐がしっかりとした螺旋を描いていたはずの模様が限りなく緩んで軽く捻っただけの螺旋になっていた。おまけにラフィンの髪で編んだ紐に厚みが出て、封印のこげ茶の紐の方を押える様なイメージになっていた。

その様を見つめていたアルビナスだが、再び何かが周囲を囲むような気配を感じた。

「まずは退散だが」

ラフィンの様子を眺める。

「問題なさそうだ」

アルビナスは躊躇なくテレポートした。


「失敗」

男は小さく呟いて少年の首筋にキスした。

「またよそ見しながら・・・」

少年の言葉に男も少年の顔を覗き込んだ。

「お互い様じゃん?」

「そんな事ない」

少年は男を睨んだ。

「まだ覗き見してる。もういいじゃないか、東に戻ったんだろ?」

「まぁね」

少年の方が強く男を引き寄せた。

「おやおや、興奮気味だねぇ。血に酔ってる?」

男は困り顔を作って見せた。


「・・・」

ラフィンが目を覚ました。

いつものアルビナスの主寝室のベッドの上だった。

ふう、と息を吐き出し寝返りを打った。

そうしてからラフィンは体をゆっくり起こした。

「・・・」

自分の体を撫でる。手の感触と自分の肌の感触を確かめた。

-苦しくない?-

髪をかき上げようと腕を上げて左手の腕輪に気づいた。

シャリンと涼やかな音がして腕に絡むその意匠。以前と違っていた。

「どうしたんだっけ」

ユピに腕輪を通されてから熱を出して寝込んでいたようなものだ。

意識自体が常に朦朧としていた。

いきなり地震のような目に遭わされたのだ。

何もかもが大きく揺れて自分は波に揺られる木の葉のように床を転げまわった。

アルビナスが追って来ていた。

他にも魔物がうじゃうじゃいて。

結界の繭玉がひしゃげていた。

大きな鉤爪。

いきなり落下したんだ。

「地面、落ちて・・・」

誰かに引っ張られた。乱暴に引きずられかけて。

ラフィンの視線の焦点がおかしくなった。

ラフィンの髪が仄かに光を帯びた。

腕輪になった金の部分も同じように光り、ユピの封印の主たる茶の筋を引き絞っていた。


ラフィンの上に血の雨が降った。

兵士達の血糊だ。

その雨を降らせた棘はラフィンにも躊躇いなく向かった。

しかしすんでの所でいきなり硬質な棘が細い紐のようにたわんでふわりと地面に落ちた。

そしていきなり今までの数千倍のその細い触手がラフィンを包んだ。

ボリボリっという骨を砕く様な音がした。

そしてなにか黒いおが屑のような物が触手の隙間からこぼれ、そしてその触手は空気に溶けるように消えた。

ラフィンは先程までの埃が磨き落とされたようになり、青白かった顔色に紅がさしていた。

血糊どころか衣装の汚れさえ消え、ラフィンに金の粉が降り積もった。

-ヨウヤク、ようやく-

誰かの浮かれた声がした。ラフィンの額の辺りに何かが旋回している。

優に大人一人の大きさをしたものがラフィンに触れないギリギリのところを円を描くように回って浮遊していた。

-無二の御方。唯一の主-

動かなかったラフィンの指が動いた。

その指がピッと地面を弾いた。

「呼んでおらぬ。行け」

ラフィンの声だが口から発せられた音ではなかった。

途端に気配が止まる。

そしてフッと消えた。その直後だ、アルビナスがラフィンを見つけた。


「目的は人間の女だったようです。南の塔は破壊。それ以外の被害はさほどございません」

ビルフォの報告だ。

「またか」

「そういうことになります」

「・・・」

「ユピ様からは何か情報は」

「聞きそびれた。と言うか」

邪魔された。俺の暗殺と言うより、シィ・ラの書から情報を得ることを恐れた。俺を殺してしまいたいほど重要な情報。

「まただな」

アルビナスは頬杖をついた。

「元より異質でございます」

「はっきり言いおる」

ビルフォを一瞥する。

「感じておられましょう?」

「まぁな。ほとんど出揃ってしまった」

「出揃う、と言うことは。では」

「北の伯爵様も、ですか?」

イカウが口を挟んだ。

「間違いないだろう。ほんの少し境界線を跨いだだけだったろうが。西の兵の半分は北からの襲撃でみじん切りだ」

「堅い守りで有名ですものね。西の連中も知っていたでしょうに」

「無論。知恵者のリックだ。だがうまく通過する気だったのだろう。キシメイドを操縦できていればギリギリを行けた」

「ほとんど動きがない方なのに。動いたんですね、また」

イカウの言葉にアルビナスは答えず杯を空ける。

その通りだ。まただ。

南の襲撃の時はサタン。西の襲撃の時は北。

そして西の襲撃の直前に起こったあの侵入者。

一瞬の事であったがアルビナスの生命の危機と言うならば、あの胸元を掠めた鎌が一番危うかった。あの侵入者はいとも簡単に空の間に飛び込み、シィ・ラの書ともどもアルビナスを葬ろうとした。

それはアルビナスを脅威に晒す力を持ちながらまるで得体が知れない。

ラフィンが絡むとき、何故か大物が絡んで動く。大物。そう、あの森も。

セントラルまで登場されては、最早なんでもアリだ。

「アルビナス様、やっぱりあの人間はよくないです」

イカウは切羽詰った顔で呟いた。

「せっかく平穏になってきたところだったのに。ラフィンが来てから何か大変な事になってきてます。何だかこわい」

「魔物を震え上がらせるか」

「でも!北が動いた話なんてひい婆ちゃんの時にもなかったって!それにどうして城の奥殿に限ってこうも侵入者が?空の間が暴発してしまいましたでしょう?塔だって壊れてしまった。城は東の要、そうやすやす敵に入り込まれては」

「確かに格好がつかんな」

「何だかおかしいです。何かが麻痺してる」

「かもしれぬ。俺の懐に誰かが手を入れている様な不愉快さだ」

一瞬間が空いた。それからイカウが口を開く。

「ラフィンを手放していただけませんか?」

イカウはアルビナスに真剣な目を向けた。

アルビナスが応えて顔を引き締めた。

「やきもちとかじゃないですから。本気で」

イカウの目に涙が溜まってきた。


ただ呆然と立ち尽くしていた。

ガラーヴィア様がアルビナス様の足元に倒れている。

その手には剣。血糊がびっしりついている。

アルビナス様の手にも剣。その剣を支えにかろうじて立っているアルビナス様は返り血を浴びた上に、さっきから足元にポタポタと自身の血を滴らせていた。

「・・・どうして」

やっとイカウの喉から言葉が出た。

ほんの数分前までいつものように二人で飲みながら談笑していたではないか。

追加の肴を取りに行っている間に何がそんなに激変したのか、イカウにはわからなかった。

東の統治が目前となり安心した矢先だった。

それでも冷酷さに拍車がかかったアルビナスに踏み固められて東はその形を保ったのだ。

今度こそ落ち着く。

イカウがほっと一息ついたところにラフィンが振り落ちてきた。

見た瞬間、嫌だと思った。

きっと、色々な意味で嫌だったのだが、本能的に災厄が舞い降りたと感じたのも本当。

その嫌な予感は当たったと思っている。

「お願いです。ラフィンを」

言いかけるイカウの手をアルビナスが取った。

イカウの頬がさっと赤くなった。

「お前の言いたい事はわかっている。得体の知れんあんな人間は側に置くべきではない」

「そうです」

「俺はお前を信頼している。勿論その行状を見ていてだが、理屈でない部分でな、お前を気に入っているんだよ」

更にイカウは赤くなった。なりながらもそれが愛の告白の類でないのはわかっていた。

「理屈ではない部分、ここが厄介でな」

「ご自身に危険であっても?」

今度はビルフォが口を挟む。

盟友ガラーヴィアでさえ、裏切る結果を招く。

奴もまた、主が利害を抜きにした根底部分で理屈になく気に入った男であった。

その苦い味はビルフォにも残っている。主アルビナスを支える者同士、尊敬も信頼もあった。良い上司を持ったと思っていた。

「イカウと同じ感覚が私にもございます。あの人間、何かある」

「だろうな」

「それでも、ですか?たかが女一人」

「辛辣だな」

「諫言お気に召さないのならお手打ちでも何でも受けまする。ユピ様の処置もあの人間の危険性を察知しての行いだと考えております。そこまで諭されても、ですか」

「許せ」

ビルフォを見据えて呟く。

「愚かだろう。見限られても致し方ないかもな」

ビルフォはそれに応えて膝を折る。

「我が主はアルビナス様と決めております」

アルビナスは頷く。

手を持ったままのイカウに向き直った。

「許せよ」

イカウの手の甲にアルビナスはキスをした。

「麻痺させられております、アルビナス様自身も」

「かもしれんな」

イカウはアルビナスの説得を諦めた。

わかってはいたのだ。とっくに。ラフィンを手放しはしないと。しかし口にせずにはいられなかった。得体が知れない力と直結しているとしか思えないと。

「でも不気味がすぎます。北が動くなんて山が動くようなものです」

「武装した連中に無断で通られたらお怒りにもなるだろう。静かな方だが油断されてるわけではないという事だ」

「でも」

「諫言ありがたいが、それをバカにする話はまだ続く」

「はい?」


ドアが開いてアルビナスが入ってきた。

そしてベッドに腰掛けるラフィンを見つけた。

「・・・」

無言でアルビナスを見上げるラフィン。

アルビナスはゆっくり歩み寄った。

「今度は西の伯爵の襲撃だ。腹心の魔物が一部隊引き連れての大掛かりなものだった」

ラフィンは黙ってアルビナスを見上げたまま。

「結界ごとというか塔自体破壊してお前を浚ったが、追撃に焦りすぎて北の領空と沈黙の森の上空を通ってしまったのが大誤算だったろう」

「北?沈黙の森?」

ラフィンの横に腰掛けた。

「色艶のよい顔だ。俺の魔気も障らないとみえる」

「平気。どうして?」

「どうして?」

アルビナスはラフィンの髪をすくい上げた。黄金色が輝き見事だ。

「こちらのセリフだ。何があった?」

ラフィンはアルビナスを見つめた。

「またか」

「よく覚えてないわ。大体この腕輪をしてから意識がはっきりしない事多くて」

「なるほどな」

ラフィンの腕をとった。

「変えたの?」

ラフィンの質問にアルビナスは微笑んだ。

「封印を喰うか。破るより小癪なことをしおって」

完全に金色の部分が濃茶の部分を絞り上げていた。

「誰が?」

「誰だろうな。おそらくお前なのだが?」

「私なの?」

「すっかり元通りだな。いや、更に磨きがかかった」

それは既に沈黙の森で発見した時に成っていた事だった。

「私、どうなってしまったの?」

「さてな。だがまた一段と厄介になったようだ」

バリっときつい音がした。アルビナスが結界を張ったのだ。おそらく今まで以上に何層も。

「必要ないが、必要だ。やわな一重では心もとない」

もうラフィンに魔気に触れさせない結界は必要なかった。が。

ラフィンの腰を引き寄せた。

心配事は別にあった。

「どうにも誘惑される」

なんとも形容しがたい色香がラフィンから漂っていた。

元より惹かれてはいるのだが、沈黙の森から引き上げてきた後のラフィンは一層芳しい匂いを放つようになった。

「これは更に奥深く隠しておかねばならぬな」

呟きながらラフィンを愛撫した。

「なにせ結婚も控えている」

「!」

身を委ねかけていたラフィンが体を起こした。

「アルビナス、結婚?」

「ああ」

こともなげに答えてまた愛撫しかけるのをラフィンがかわした。

「そう、結婚するの」

「だがこの襲撃でまた部屋が壊された。新妻を迎えるに相応しくない有様だ。まったく、何故こうも他者に入り込まれたものか」

立て続けに侵入されすぎている。

東の伯爵の城としてはいささか評判を落とす事態であった。

何故気づかなかった?我ながら不可解である。

いきなり城の上空に出現とは、あれだけの気配が察知できないなど考えられない。

一人一人に気配を消す能力があるとも思えない。ベルゼゼが連れ込んだノズなどの足元にも及ばぬ雑兵がほとんどだった。第一、キシメイドは所詮怪鳥。あの巨体をどう見過ごせるというのか。

引き込み役がいる?

アルビナスはラフィンを一瞥した。

「そうであれば、全てが危険に晒されることになるが」

触れようとした手を今度ははっきり拒絶された。

「結婚話、気に入らぬか?」

「どういう答えをお望みかしら?」

ユピに問われて答えた返事をアルビナスは知っているのだろうか。

ラフィンは自分の気持ちに向き合って魔界に生きる覚悟を決めたのだ。

たとえアルビナスの無限の時間の一部分でも側にいたいと、慰み者でも構わないと、確かに思ったはずだった。しかし、いざ目の前で結婚の話をされるのは辛い。何も今でなくても。私に飽きるであろう僅かな時間、若さを保てる一瞬の間くらい、寵愛されている錯覚を味わっていたかったというのに。

「本当にバカみたい、私」

何故こんな思いをこんな所でこんな奴に抱かなければならない?

「帰りたい」

ラフィンは呟いた。

「人間界へか?人間ではないであろうに」

「!」

ラフィンは潤みかけた瞳でアルビナスを睨んだ。

「少しは自覚もあるだろう?そのブレスレット、お前を人間らしい状態にしたはずだ」

「あの禍々しい魔界の気。どす黒い忌まわしい気」

「天界人ですら、魔界の気は相応に心身を蝕む。ましてや只の人間で、パタパタ歩き回れるはずはないのだよ。多少魔気に強く、支配を受けた俺の結界内という、恵まれた場に悪酔いしないと言ってもだ。不自然なのだ、最初から」

そう、最初から。

六角の映し鏡を踏み抜いて落ちてこられる事自体。

「ええ。わかってた」

ラフィンはわかっていた。大体、ポイントの森に行きたがる変わり者の自分を知っていた。

不気味に思った事は一度もない。それより懐かしさの様な心持さえあった。

それは養父母が自分をポイントの森の近くで見つけた子だと教えてくれたからかもしれない。そう思いを馳せる一方で、自分には何がしか魔物の血が含まれるのではないかとも思っていた。その不安はほんの少し家族の中にもあって、ラフィンが巫女になると言った時は、ほっと安心した表情を養父母は浮かべた。

「でも魔界の生き物でもないわ」

「違うな。人間であればこそユピ様の封印も効き目があった」

ラフィンは自嘲するような笑いを漏らした。

「どこにも行き場がないのね、私。ここで貴方のオモチャでいる事もできない」

「確かにオモチャではおられぬな」

「奥様を迎えるのですものね。どこへ私を片付けるの?」

「人目のつかない奥の奥へだな。まずはこの部屋から移動だ」

「貴方の寝室にはいられないというわけね」

「まぁそんなところだな」

ラフィンはキっとアルビナスを睨みつけた。

「悪いけど私はそんなに物分りよくないから。変に見せ付けられるには嫌よ。だから」

「だからいっそ遠ざけてくれと?当主のオレに意見できる立場か?真実の名も握られ拘束され、その身も心もオレに傾いている。逃げられるはずなかろう?」

「だからこそよ!」

ラフィンは叫んだ。

「激情に駆られて何をしでかすか知れないわよ!」

「俺を殺すか?できぬだろ?」

「ええ」

意外とあっさりラフィンは認めて頷いた。

「そうよ。私が手を下せる相手はそうはいない。家畜以下の人間だものね」

「ラフィン?」

ラフィンの様子にアルビナスは不意に異変を感じた。

だがその直感はやや遅かった。いや正しくは間に合っていた。だが今しがた自分は結界を数倍に張り巡らせた。その自信がアルビナスの動きを鈍らせた。

「殺すわ。自分を」

ラフィンは背後の窓に突っ込んでいた。

破れるはずのない強固な結界だった。だが、実際にはアルビナスの目の前でその結界が溶ける飴細工のように緩やかにたわんだ。

「ラフィン!!」

アルビナスの伸ばした手は間に合わなかった。

ラフィンの体重がかかりきるに任せ、結界はそのとろみさえ失くし、不意に消失した。

ラフィンの体は漆黒の闇に降り落ちた。


一体何秒の事だったか。

ラフィンは落下を阻止する力にいきなり支えられた。

目の前で黒い羽毛が舞い散る。

「アルビナス」

ラフィンは自分を捉えた者を見上げた。

「離して!」

もがいたが、途端に睨み返された。

「動くな」

言い返そうとしたが、アルビナスの表情に逼迫したものを感じた。

片腕でラフィンを支え、片手はラフィンをエサとたかって来た魔物を叩き落している。

黒い翼はアルビナスの背中から生えていたが、バサっと派手な音で羽ばたいても、上昇はしなかった。片方の翼が飾り程度にしか動いていないせいのようだ。

動く片羽で二人分の体重を支えているため、落下のスピードを抑えただけでズルズル落ちながらも眼下の城壁の外階段に着地した。

ラフィンを自分の背後に押し隠し、自由になった両手で残りの魔物を一気に薙ぎ払う。

ラフィンはそのアルビナスの背中を見つめた。

ひどい刀傷だった。

右の翼が動かないのはもっともだ。その翼の根元は3分の2程抉れている。

そこから始まった傷は背中を斜めに真っ直ぐ走り、左のわき腹まで続いていた。

古傷という状態ではない、見ようによってはまだ血が滲んでいるような生々しさがあって、よく自分を抱えて飛べたものだと思った。

これだ。

ラフィンは直感した。

話に聞いた深い傷。

無防備に背中を向ける相手だった。その者が袈裟懸けに一気に刃を振り下ろした。

その情景が浮かぶような、明確な殺意が見える傷である。

アルビナスが振り返った。

怒っている。

「ごめんなさい」

ラフィンは謝ったと同時に泣き出した。

「だって奥様が来られたら正気ではいられない。今のうちに消えてしまいたかったの」

「・・・」

アルビナスは黙ってラフィンの腕を掴んだ。

「部屋に戻る」

今度はテレポートだった。


ラフィンの姿が窓から落ちて消えた時、アルビナスは落下の先にテレポートする余裕がなかった。

テレポートには一瞬の空白がある。もちろん十分に間に合うタイミングのはずだった。

だがその間、ラフィンの命を無防備に放り出しておける余裕がなかった。

思わず体が動いた。

そのまま自分も窓から飛び出し、翼で加速して先に落ちたラフィンに追いついて空中で捉まえた。傷で殆ど動かせない右の翼の事を考慮する余裕もなかった。


部屋に戻ったアルビナスは翼をたたもうとして苦痛に顔を歪めた。歪めたが翼を畳む動作を続けると、折り畳まれる終盤で翼自体の姿が霞んで消えた。

ラフィンは背中側に回って、丸見えになった背中の傷に、泣きそうな声を上げた。

「翼の付け根だったところ、血が噴き出してる」

近くの柔らかく清潔そうな布を手にした。

「痛い、わよね」

そっとゆっくり血を拭う。

「動かしたからな」

アルビナスはそうなる事を承知していた。

「そこの緑の薬瓶を。傷口に塗れ」

ラフィンは素早く瓶を手にしてその中身を掌に開けた。とろりとした薄い黄色の軟膏だ。

こすらないように、慎重にラフィンは傷口に塗りつける。

「!」

傷口に滲みるような痛みにアルビナスは少しだけ背中を動かした。

「しみる?痛い?」

だがその液は本来滲みない。アルビナスはそれがラフィンの指の波動だと気づいた。

最初滲みて感じた波動は、すぐに優しいマッサージの様な刺激に変わった。

「すごい」

ラフィンは液を塗りながら呟いた。泣き声の中に明るさが戻った。

塗ると塗った所の血が止まるのだ。明らかに生々しい傷口の周囲がググっと縮む。

「傷口、塞がってきたわ。すごい薬ね」

アルビナスはその言葉に苦笑した。

-塞がる?塞ぐ事ができるのか。傷を受けて一度も塞がらなかったものを-

軟膏の薬効は傷を悪化させないだけで治癒は出来ない。

状況を変えたのは、ラフィンの持つ何かに違いなかった。

「もっと量があればいいのに。そうしたら完全に治せそうよ」

確かに痛みが引いている。

先程の結界を無効にしてしまう力といい、この癒しといい、この女は。

「もういい」

アルビナスはラフィンを振り返った。

じっと見据えると、ラフィンは目を逸らした。

「どうしても結婚の話はなくならないの?」

逸らした横顔が小さく呟く。

「なくならぬな。婚姻の星が俺にあがった」

自分の体内に瞬くイメージだけだが、この感覚は出れば本能でわかる。

「・・・」

「自分を殺す事でしか俺から逃れられぬと踏んだか?だがそれも許さん」

アルビナスはラフィンの腕を掴んだ。振り払おうとするラフィンを力で押さえつけて自分に引き寄せる。

「もうお前はオレの側から離れられん。そういう宿命と諦めるんだな」

「だったら結婚は少し先にして」

ラフィンは涙を浮かべてアルビナスを見上げた。

「どうせ私なんて一瞬の相手でしょう?悔しいけど、憎らしいけど、いっそ束の間の相手ならその間は結婚はしないで」

また涙声になった。

「どうせ慰み者でしょうよ。でも、奥様が来られたらそれすら許されない」

アルビナスは口元を緩ませた。ラフィンには不敵な笑みに見える。

「悪いが先延ばしはせぬ。これでもタイミングというのがあってな。第一俺は結婚を望んでいる。妻を迎える。正妃としてな」

「私はどうなるの!?」

「お前の住まう部屋を見ればわかるだろう」

「愛人にでもする?奴隷と言った方がいい?」

「俺に決定権がある。従ってもらおう」

「嫌よ、私は。私は、これ以上慰み者でいられない。だって私は、あなたを」

アルビナスを見上げた。

その瞳がせつない。

「好きになってしまったの。だから今だけ、私だけで、いてくれない?」

ラフィンの告白に答えずアルビナスは尚きつく引き寄せた。

「承諾ととる。取らずとも構わなかったが、なかなかいい気分だ」

「何の承諾!?」

ラフィンは自分をいたぶって楽しんでいるかと怒鳴りかけた。

しかしアルビナスは構わずラフィンを引きずってテレポートした。


「諫言ありがたいが、それをバカにする話はまだ続く」

「はい?」

イカウはアルビナスを見上げた。

「結婚を決めた」

「アルビナス様?」

傍のビルフォがため息をつく。

「兆候が出た。今増築の離れを新居とする」

「あの、お相手は」

「正妃としてお迎えする。相応の準備が必要な相手だ」

「お相手は決めていらっしゃるのですね。正妃としてご入城されるのはどなたですか?」

「その顔は察しているかと思ったが?」

「・・・」

イカウは黙りこくった。

ビルフォとも目を合わせる。ビルフォが肩を竦める。

「歓迎できないだろうが、お前を世話役にしたい」

「ご命令に逆らうはずありません」

イカウが機械的に呟く。

「ご当主様のご結婚、心より祝福申し上げます」

「心にもない事を。今諫言したことと矛盾するだろう?」

「致し方ないことです。そうでありましょう?」

らしい言葉を全て吐いてから、イカウは大きく息を吸って吐いた。

キっとアルビナスを直視する。

「アルビナス様と東が安泰であればいいだけです」

「わかっている」

アルビナスは微笑んだ。

「俺の信頼を得ている者は少ない。お前にならばあいつを任せられる」

イカウはようやく腹の据わった笑みを浮かべた。

「奥方様になられても、多分ケンカしちゃいますよ」

「構わん。俺とのつきあいはお前の方が長い」

ポンポンとイカウの頭をアルビナスが撫でた。

イカウは一度目を伏せ、それから改めて顔を上げた。

「諫言をもう一つ、エルル様、ご納得なさいませんでしょう。結婚そのものは勿論、ましてや中央に座す相手が人間ふぜいでは」

「わかっている」


「離して!」

テレポートで降り立った部屋にラフィンは投げ出される形になった。

「お前の新しい部屋だ。まだ少し手を入れねば完成とはならぬが、まぁいい」

「こんなとこに閉じ込め、て」

激昂し喚きかけたラフィンは部屋の様子に気づいた。

何もかもが真新しい。おまけに豪奢な造りである。

塔の部屋とは違って床面積がいかにも広かった。ドアの様子から部屋は幾つか続くようだ。

アルビナスの言い方では、自分は妻を迎えるのに邪魔で、城の奥の湿った地下牢にでも放り込まれるのかと思っていたが、これでは真逆の部屋である。

「私の部屋って?」

「塔はもう勘弁だ。南も東も壊されたからな。何かと手狭になろうし、ここならばお前が好きに使える。わかるか?俺の主寝室の結界の内側の、更に結界内だ」

静かだった。確かにアルビナス以外の気配がまるでない。

「どういう」

先程から妙に機嫌のいいアルビナスに再び抱き寄せられた。

「察しが悪いな」

「何の」

ラフィンはわけがわからず戸惑い顔でアルビナスを見上げた。

「新妻を迎える新居だ。俺以外誰も入り込めない籠の中というわけだ」

「?どうしてそこに?」

ニヤニヤとアルビナスがラフィンを見つめる。

「オモチャというわけにはいかぬと言っただろう」

しばらく考えていたラフィンはいきなりアルビナスを見上げた。

「からかってるの?」

「一応本気だ」

アルビナスはそのままラフィンにキスをした。

「待って。ふざけないで。どういう意味?どうして?」

慌てるラフィンを今度は抱き上げた。

「しばらくおあずけだったからな。話は後だ」

アルビナスが近づいたドアはスイっと音もなく勝手に開いた。

そこにはアルビナスの主寝室より大きなベッドがあった。

「だって、私なんか」

ベッドに横たえられ、アルビナスが上から覆いかぶさる。

「そう卑下したものではないぞ。退屈しない相手だ」

言いながら髪を撫で、頬を撫でた。

「お前がここの部屋を使う身となる。逃がしはせん」

「・・・」

ラフィンは戸惑いながらもアルビナスを切ない目で見上げた。

次のキスは熱く深く、そのまま二人もつれ合った。

ようやく区切りがつきました。次回掲載まで少しお時間をいただきます。

さて、アルビナスとラフィンは結婚することになりましたが、それは叶うのでしょうか。

物語はまだ序盤です。続きをお楽しみに。

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