【18.封印】
ラフィンは重い瞼を上げた。
「苦しい」
再び瞳を閉じる。
アルビナスのベッドに繭のような分厚い結界がかかっている。
その中が白くなる程香の煙が立ち込めていた。
アルビナスがその繭の外からラフィンの様子に落ち着かない。
アルビナスがユピを振り返った。
「ユピ様、これは」
「人間らしい反応でありましょう?」
アルビナスが舌打ちをする。
「何を封印されました?」
「わしにも捉えられぬよ。だから、人間である部分のみが解放されるように呪をかけてみた。まずまず成功であろう」
「しかし、これでは」
「香の濃度を少しずつ薄めていかれよ。そなたも香で全身清めるしか側に寄る方法はない」
「・・・」
「真実の名を使われることは控えよ。窒息させてしまう」
「・・・」
「お部屋も別で用意された方が良いでしょう。用意は既にありますな?」
「他に楽になる手段は?」
「ご心配なさるな。徐々に慣れよう。今までが異常だっただけ」
「ユピ様。またお話頂けないのですか?」
「また?」
「先日、冥界妃にもラフィンをお見せました。何かに気づき何かを思ってペンダントを下賜くださったご様子。なれど、何もおっしゃっては頂けなかった」
「あの御方がおっしゃりようのない事をわしが言えるとでも?」
「ご存知ないわけではないのですね」
「語れることはない」
「東の正妃に据える女です。何も知らぬまま巻き込まれるわけですか」
ユピは息をついた。
「赤子からのお前を知っている。ルクシストにも手を焼き、お前にも手を焼くのか」
「はい」
「宿命と言うか。空の間はまだ健在か?」
「はい」
幼い自分。
懐かしいポイントの森を走り回っていた。
日頃見かけない珍しい花々。カラフルなのも楽しい。
-・・・様!あまり奥へ走ってはなりません-
-はぁーい!-
言いながらも走り回った。
陰に入るなと言われると、その際に咲く七色の花に目が行く。
-おいで-
呼ばれた気がした。
見たことのない蝶が舞っていた。それを追いかける。
楽しくて楽しくて、背後の声や周りの様子にも気が向かなかった。
-お母様?-
我に返った時、入ってはいけないと言われた暗闇の中にいた。
-ママ!-
慌てて戻ろうと駆け出す。
しかし何処まで走っても暗闇から抜け出せない。
-ママ!どこ!ママ!-
泣き声になった。
足を取られてこける。
泣きじゃくった。泣き疲れて座り込んだ。
こんなに待たされた事はない。広い屋敷のどこでかくれんぼをしていても、誰かがすぐに探し出してしまう。
ポツンと灯が見えた。
-ママ!-
飛び上って走った。知らない人だった。
-迷子になったの?ん?名前は?-
女性の声は優しかった。
-3歳位かね。可哀想に目が真っ赤だよ-
-ラフィン-
誰かにそう呼ばれた。
ラフィンが振り返る、が小首をかしげた。
-私の名前、違う-
途端に周囲が一変した。
-出られない-
ラフィンは固いドアを必死で開けようとした。
-私はここ。誰?鍵を返して-
はっとラフィンは目を覚ました。
「夢」
目が覚めるとまだ体が辛かった。
「アルビナス」
ラフィンは泣き声のように呟いた。
途端にアルビナスの気配が繭の外でした。
ゆっくり伺うように結界の中に入ってくる。
「私、どうなったの」
香の煙が少し薄められていた。
「人間らしい反応という奴でな」
ラフィンは目をしばたいた。
「アルビナス。黒くて、怖い」
アルビナスは伸ばし掛けた手を止めた。
「魔気が障るか」
それでもラフィンから手を伸ばしてきた。
「助けて」
「もう少し慣れればましになる」
言いながらもやつれたラフィンが痛々しい。金の髪の光沢が消え失せていた。
「休め」
ラフィンは、ぐったり体を沈めた。
「目指すは東の城ぞ!」
マルチーズの様な顔をした魔物が竜の首に跨っていた。
ユピによく似ている。
彼はリックである。
「ご当主様!」
ド派手な作りの廊下をリックが走った。
「見つけましてございます。稀なる人間を」
居間に入りかけて止まった。
艶鬼の喘ぐ声が響いている。
玉座の男の周りに4,5人の裸体に近い格好の女らが侍っていた。
「どうした?何を見つけたと?」
男の手が自分の前に座る格好で密着する女の乳房を揉みしだいた。
また喘ぎ声が上がる。
「迂闊に聞かれてよい話ではございませぬ」
男はリックを睨むように見据えた。そして艶鬼を一払いで全員脇へ追いやる。
「勿体つけてくれるな。何だ」
「東の伯爵殿が人間の女を連れ歩いておる様子」
「人間!?あの若造がか!?」
「はい」
自慢げなリック。
「中々の麗質だとか」
「それはそれは余程の麗質なのだろうな。奴の横にはあのエルルが傅いていたのだ」
「赤き月の娘であれば厄介。南も略奪を試みたようですが失敗に終わっております」
「確かに厄介だな」
「私めにお任せくださいませ。その人間頂いて参ります」
「その前に、キリに相談をしよう」
リックが男の足元に走り寄った。
「お待ち下さい!何故あの女にお伺いを立てねばなりません?」
「目立つ人間の話はキリの占にも出た啓示。無視できぬ」
「ですが!」
リックは男の前に回りこんだ。
「キリは得体が知れない女です」
「ああ。先代すら知らなかった地下奥深くで眠っていた女だ。だが、キリの占は侮れぬぞ。見事次々機を読み、俺に運をもたらした。その功績は大きい」
「私めよりも!?」
リックの言葉に男が大声で笑った。
「何を対抗意識剥き出しにしておる!お前は識者だ。占者とは専門が違おう」
「しかしこのところ、最終判断をあの女ばかりに求めておいでです」
「妬くな、妬くな」
「私にもプライドがございます。最近の西の噂をご存知でありますか?最近のリックは伯爵様にも遠ざけられ、今ではユピにも劣るだろうと。」
「ユピか。あいつの名が出るとお前の目の色が変わる」
「何卒今回の件、私めに」
「わかったわかった。任せてやろう。ちとキリに聞いて来るまで待っておれ」
「イシュガーク様!」
リックは地団太を踏んだ。
東にユピ、西にリックと謳われたのは共に先代伯爵の時代。同じ種族、血筋も近く、互いに肩並べあう識者であった。
決定的に差をつけられたのが先代から現当主交代時。
ユピは先代を無理なく引退に導き、魔界では珍しい世襲を実現させた。そうしておいて自らも一線から身を引いたのである。その直後、あの魔帝王サタンから自分の識者になれとの声がかかったと言う噂が出たのだ。ユピは今もあちこち放浪を続けている。その自由さはやはりサタンの庇護下にあるのだろうと実しやかに囁かれている。
一方リックは、その輝かしいユピの噂より十数年遡った頃、先代伯爵をイシュガークの謀殺から守りきれず、西の財産の一つとしてイシュガークの配下に引きずり込まれた。それで重用されれば気も晴れるが、イシュガークは知略に興味があまりなくリックは鬱憤を溜めていた。とは言え、識者としての地位は確立されていた。イシュガークにもそれなりに頼りにされて来たのだ。しかし数年前、西の城の地下奥深くで隠し部屋が見つかった。誰も知らなかったそこから、内側の封印を自ら破った者、女らしき者が出てきたのだ。らしき、なのは、誰も姿形をはっきり見ていないからだ。いつも大きな敷布を被り、目元だけが確認できる。美しい紫の瞳は、女としてみるに妥当な雰囲気。声も女声である。それ故女だろうと思われているのだ。女は占者キリと名乗り、イシュガークはその怪しげな女にいちいち伺いを立てて事を決めるようになってしまった。
噂はすぐに広まった。リックはもう用なしだ、と。
キリの見せる映像にリックが1小隊を引き連れて東に向う姿が映る。
「下手な刺激になりはせぬか?」
「南も略奪しようと試みたほどです。西が静か過ぎるのもまた妙でありましょう。構わないのです。赤き月の娘などと思い込まれているうちは」
「そろそろその話の続きが聞きたいのう」
イシュガークが大きな手をキリに伸ばした。
キリの手を捕える。
「リックが不審がるのも道理と言えば道理。何せこの美しい手先と瞳、その声以外はそなたの何も我らは知らないのだから」
白く細い手先は若い女の肌の様だ。
全身を布が覆い隠し、体型さえも定かではない。
地下に隠し部屋があったと、そしてそこに誰かいると、当時騒ぎになった時から、キリはこの姿のままだ。一度としてこれ以上の本体を見る事はできていない。
紫の瞳がイシュガークの目と合う。
「すみれ色の何とも美しい瞳だ。俺と駆け引きをしているつもりかな?」
「勝手に想像されているようだが?私が若く美しい女と保証した覚えはない」
「それこそ確かめたいものよ。正体をいい加減晒してみよ」
「商談は成立しておろう?」
手首を掴まれたままのキリが静かに呟いた。
「私につまらぬ劣情など抱かぬ方がよいぞ。私の機嫌を損ねたら、一番手に入れたい女をみすみす逃す事になる。構わぬか?」
「西の伯爵を脅すか。別に了解など取らずとも手に入れたいものは手に入れる」
「ならば試されよ」
イシュガークはキリを見下ろした。
ただの強がりにしてはそのベールの奥の視線は泰然として揺るぎない。
「焦らされるのは性に合わぬ。が」
キリの手を外した。
「よかろう。だが話は聞かせてもらうぞ」
「それも時期尚早」
「キリ!」
「お気に召さねば、この体奪うなり、命奪うなりなさったらよい。但し」
キリは振り返った。
「勝機は確実に失せる」
キリは向き直って部屋の奥に姿を消した。
「喰えぬ女よ」
言いながら舌なめずりをした。
「まあ見ていろ。そのうち必ずな」
ユピが空中に漂っていた。
「とは言ったものの」
上下逆さまになって考える。
「わしとて命を下されておる。とても逆らえぬ」
ふう、と溜息をついた。
アルビナスの手元に落ちたのは正に運命的としか言い様がない。
だが落ちた成り行きを聞くと、六角の写し鏡を踏み抜いて落ちたという。ということは、アルビナスはコワ村の攻撃を観察していたことになる。なんてことはない村の一つだ。どうして観察する気になったのか。偶然だけとは言えない気もした。
ユピはその頃、コワ村の隣の国ニガリッツとランダの国境付近にいた。
旅芸人の一座と国境越えの道で出会ったが、運悪くその中に巫女が居た。
そして逃げる空の途中で、ベルゼゼがまた村を一つ襲撃したと聞き及んだ。
まさかそこにいらしたとは。
「不幸中の幸いか。南に発見されていたらどう扱ったであろうな」
あの情熱的な若き主は、あのエルルに大層ご執心だった。
東を引き離す為、あっさり娘を喰らったのではないだろうか。
そうすれば状況は大きく違っただろう。
アルビナスの様子が見える。
あれほど落ち着かない様子もなかなか見れるものではない。
表面上冷静にすればするほど、その心配ぶりが見て取れた。
「さて、どうなるか。わしはわしのすべき事をせねばならぬ。あのご様子ではそうそうゆっくりもしておられぬ。あれ程美しく成長されて」
-あの中で、かの方はいかがされているのか-
「あーあー。愛されてるなぁ」
「例の女?」
「モテモテだよ。今度は西が奪取に行くみたい。また一つ余計な封印も追加されたし、ちょっと面倒臭いな」
「楽しんでるようにしか見えない」
「リックが指揮してる。彼女はまだ出ない気だ。さすが。機を伺ってる」
「彼女って?」
「ああ、こっちも割と見えやすい。でも逆探知されかねないからさ。ちらっとだけね」
「お前」
男が少年を抱き寄せた。
「体温と実体が必要なのはお前だけだから。拗ねないの」
「ろくに構わないくせに」
「構ってやろうか?でもすぐ忙しくなるよ?」
「?」
「その前にちょっとしちゃう?」
アルビナスは長い溜息をついた。
気が重い。
ラフィンのやつれた様子に落ち着いていられなかった。
以前自分の血を含んだ時はそこまで思わなかった。
気持ちもそうだが、こんなに生気を細くする事もなかったからだ。
今ではこのまま消えるのではないかと思うほど心もとない。
「アルビナス」
魘されて呼ばれて抱き寄せてはやるが、そうすると苦しそうな息遣いに変わる。
手を離せば息は落ち着くが、また身を捩って自分を呼ぶ。
香を薄めてはいるが、ラフィンには濃さが足りず、自分には不快な香。イカウはまだ近づけない濃度だった。
「何を封じた?人間らしいがその存在自体が薄い。並以下ではないか」
ラフィンの人間以外の部分とは何だ。ヂュックックが話そうとしていた事なのか。
「何が何でも聞き出すしかないようだな」
アルビナスは顔を上げた。
「わざわざ空の間に入られるというのだ。相応の話を聞かせていただかねばな」
アルビナスは誰もいない迎賓の寝室に息をついた。
「気ままな旅とおっしゃっておきながら、か」
アルビナスの干渉の隙を縫って出て行ったらしく、既に追跡できないように気配が消されていた。それは以前と変わらない、ユピらしい姿の消し方だったが妙に引っ掛った。
アルビナスは空の間に歩き出した。
「老師好みといえば」
アルビナスは扉を閉じ、結界を固く張ってから微笑んだ。
「やはり忘れ物をしていかれたか」
ポツンと小さな本があった。
「させぬ」
どこかの闇で低く声が響いた。
アルビナスが漂う。
重力があやふやで上下感覚がない空の間。
ポーンと本を放り出す。
名はシィ・ラの書。万事を知ると言われるユピ秘蔵の書だ。
本は宙を暫く漂い、不意にページが開いた。
リズムのある朗読が始まる。
「月があがる。珍しきかな、赤き月よ。其は験なり」
派手にページがバラリとめくる音がする。
「浅き地にて見失うは悲しきこと。名もなき子は何処までも紛れゆく」
-子が紛れた?迷子?-
「誰ぞ?」
アルビナスが思考をはっきり示した途端、本が問いかけてきた。
「誰ぞ?名乗れ」
「我が名はアルビナス。東の当主」
「ルクシストが子」
「いかにも。教えていただきたい事がありまする」
「答えられる事ならば」
「赤き月は験。名もなき子が人間界に迷い込んだ。名もなき子は魔界の者でありますか?」
「含まぬでもない」
「含む力は何処から?」
「古より」
「力は魔力?」
「魔力など遠く及ばぬ」
「それは太初の力、ですか?」
アルビナスには一つの仮説がある。
魔界は領土として四つに分かれているが常にそうだったわけではない。拮抗を保ったところがおよそ東西南北と言うとわかりやすい状態だっただけ。実際に北の領土は広く、西と南、東も広さは北の7割ほどだ。そしてこれとは別に、常に伯爵不可侵の土地がある。セントラルと呼ばれる魔界の中央付近である。こちらも歪な境界線を持つが、明らかに異質な‘魔力のようなもの’が充満している。何故か、それを発するものは判明しておらず、特に‘森’と名の付く場所は入る事さえ危険がある、とされる。危険であるとされるのに理由が不明なのは、戻って来たものがいないからだ。
魔帝王サタンの領土であるとも、サタンの居城の入り口だとする説もある。
サタン。それ自体は異次元に住まう魔界の主。神と説明した方が早い存在だ。
サタンが在る故、魔界が在る。
同様、天界はユビスタ、冥界はハーデスが在る故在る。らしい。
その三兄弟が在る故。
彼らはそう、創造主に当たる、太初から在るものなのだ。
ラフィンの力は魔力そのものには見えない。
だが途方もない力を発揮する瞬間がある。
太初の力、と仮定するより他なかったのである。
ページが狂うようにバラバラバラバラ下記乱れるような音を立てた
「その証」
「赤き月は人間界であがった。人間界に太初の力が現れた?」
「名のなき子。人間界とは深い繋がりを持った」
「名のなき子は真実の名を人間界で得た?」
「そう」
「その名は?」
「己はそれを知って」
書との掛け合いに集中していたアルビナスは、いきなり目の前にユピの幻影を見た。
ユピの差し迫った顔。
アルビナスは思わず身を引く。
引いたと同時に鋭く大きな鎌の様な物が猛スピードで通った。
体に遅れた襟元の飾り紐がスパッと切れて霧散した。
ドスンと重力が戻り結界ごと断ち切られたのがわかった。
「な、に!」
本来、空の間は結界としては最強の物を備える。
ユピの幻影が見えた事も不可思議、ましてや許可されぬ物が入り込むはずはない。
しかし実際に幻でない実体ある
物が目の前を掠め通った。
そして同時に空の間が内圧に弾け飛んだ。
「ち」
男が舌を鳴らす。
「あんな大鉈振っておいて空振りはないんじゃないの。腕なまったね」
「文句言うなら自分でしたらいい」
「教えてやっただけでも十分協力さ」
「それほど必死に探していた?」
「この弱みを広めるほどバカじゃない。秘密裏に動こうにも自分はデカすぎる」
「結局のところ、さして目立たない能力も低い奴が一つ一つ回って探すしかない」
「それそれ」
「でもあの方にも探索を頼んでいた」
「これでよくて抹殺。悪くて虐殺だろうな」
「裏切ったから?」
「だね。東の坊やを庇ったんだから」
「やっぱりお前が遊ばずに、さっさとやってしまえばよかったんじゃないか?」
「東の相手は怖いもーん。あいつ底が知れないじゃん?しつこそうだし」
「よく言う。どっちが」
「メインイベントはまだ先さ」
男が微笑む。
「いい具合に西の手勢が東にご到着だ。場を暖めてくれる気なのはありがたいが、リックではちょっと役不足だな。少し手伝ってやろっかな」
少年が男の手元を覗き込む。
男が目を閉じる。
次開くと瞳が金色になっていた。
「奴らの気配を消して見せよう。数十人分など容易い」
少年が身を引く。
男からドンっと大きな気が出、その直後一気に消えた。
「さ、きっとお前の出番もあるよ。その権威はきちんと示してあげなさい」
アルビナスは構えたまま周囲を見回したが次の襲撃はない。
気配は一瞬、あの時だけだったようだ。
アルビナスは体を立てた。
数歩離れた所に本が落ちている。
端がボロボロだが形はきちんと残っていた。
アルビナスが拾い上げる。
しかしそれはサクっと粉の様に崩れ、指の間から零れた。
「聞き損ねた」
アルビナスがその塵を派手に空に撒く。
「答えを聞かせろ!名だ!」
オオンと何か音を響かせた。
「シッテイル」
アルビナスは耳元で小さく囁かれた声を聞いた。
-知っている、と?-
しかしかろうじての声。
推測を含む以上に聞き取れるものはなかった。
そしていきなり背後で大きな音とよそ者の気配が満ちた。
それは領地の結界越えなどではなく、不意に城の上空を蹴破る気配。
ドカンっと何かがまとめて南の塔を直撃した。
「チィッ!!」
庭にテレポートした時には既に塔の上半分が引きちぎられていた。
「どういう・・・!」
何故既に上空にいる?前触れが全くないなど。
領地境界の結界は、城下町の結界は、城内の結界は、全てで察知できなかった。
しかしどうしてなどと考えているヒマはなかった。
「ラフィン!」
大きな怪鳥のキシメイドが大きく旋回して上昇している。首には小さな魔物。
ユピにそっくりの魔物が跨っていた。
「リック!西か!」
キシメイドの足にはしっかり塔の一部が握り締められていた。塔の残骸の隙間から白い繭玉のような物体が覗く。ラフィンがその中に居る。
瓦礫を落としながらも構わず飛び去ろうとしているキシメイド。ラフィンを浚おうとしているのだろうが何とも乱暴だ。
既に西の兵士30数名、あちこちに降り立っていた。
ビルフォが敵を蹴散らしながらアルビナスに駆け寄る。
「ラフィンを奪われた。追う。お前は城を死守」
「は」
素早く舞い上がるアルビナスに兵が挑んでくる。
「邪魔だ!」
力任せに薙ぎ払って一気に7,8名吹き飛ばす。
その間にもキシメイドが大きく羽ばたいてぐんと城から遠ざかっていく。
「させるか!」
アルビナスの怒声にリックが振り返る。
「それはこちらのセリフ。案外間の抜けた方でいらっしゃる」
リックが手を振る。
「アルビナスが首を取れば東は己のものぞ!死力を尽くせ!」
アルビナスに再び兵が襲い掛かった。
「ふざけるなぁ!」
今度は十数名が吹き飛ばされる。
アルビナスの様子にリックは突然恐怖を覚えた。
先程、自分が予測していたより遥かに安易に東に潜入を果たした。
自分はこれ程までに力量がある事に改めて自惚れ、東の噂ばかりの力に笑いが漏れた。
それが今、実際にアルビナスを目の前にすると、その落差に驚かされる。
結界を密かに乗り越えられた安易さと、実物アルビナスの魔力の強さと差がありすぎる。
あり得ない、不自然な差があった。
リックはキシメイドに鞭を入れた。
「目当ての人間は手に入れた。西まで急げ!」
アルビナスの追撃が後方ではっきり聞こえる。
リックはまた振り返った。
着実にアルビナスが近づいてくる。
キシメイドの足元を覗き見た。
既に繭玉を直に掴んでいるような形になっている。
おまけにその繭玉にキシメイドの爪が食い込んでおり、繭玉は変形していた。
「殺してはならんぞ、キシメイド!」
キシメイドは構わず爪を食い込ませる。
そもそもこの怪鳥の知能は高くない。
ただ抜群の大きさと怪力と飛行力があった。
「握りつぶされては元も子もない。西まで持たんか。構わん、近道を・・・」
リックは追われてキシメイドの梶を大きく右に切った。
西に向う近道は直進だが、禁忌のセントラルの上空を通ってしまう。
かと言って南に下ればすぐにベルゼゼの領空に、北に上がっても北の伯爵の領空だ。
大周りになるが安全確実な非干渉地帯、行きの侵入経路と同じ空路で帰還のつもりだった。
だがその余裕はなくなった。
キシメイドは北に向きを変える。
セントラルと北の領空の、その境界線上を縫うように通ることにしたのだ。
「上空をちょっと通るだけだ。急げ!」
リックは叫んだ。
キシメイドが飛ぶ下に鬱蒼とした異質な森が広がり出した。
「真上を避けなければ。うまくここを切り抜けて主様に献上するのだ。そうすれば」
「そうすれば?」
リックは正面からの声に顔を上げた。
血まみれのアルビナスがテレポートしてきていた。
次の瞬間、キシメイドが悲鳴を上げた。アルビナスの剣がキシメイドの右目を貫いた。
ラフィンはいきなりの加速に一瞬目を覚まし、そして呻いた。
そもそも楽ではなかった部屋に突如生々しい魔の気が立ち込めた。
濃い結界の幕越しに壁が崩れ、部屋が崩壊していくのが見える。
何かの獣の爪が部屋ごと握っている。
ラフィンは揺さぶられるまま、結界内を転がされた。
激しく体をあちこちにぶつける。
「アルビナス・・・!」
助けを求めていた。
結界にほつれが出来てきたのか、直に魔気がじわじわとラフィンの回りに漂い出した。
今まで感じなかった魔の気の毒。
ユピ様は腕輪に何をした?
ラフィンの意識が遠のきだした。
その意識の中に、アルビナスの姿が一瞬見えた気がした。
「キシメイド!」
キシメイドは痛みに制御不能になって暴れた。
「愚か者!こんな時に!」
リックは蒼ざめた。
「騒ぐな!慎重にだ!少し横切るだけでも!」
まずい。真上ではないから大丈夫だろうが、こんなに騒いで大丈夫か。
リックははたと顔を上げた。キシメイドは暴れながら向きを更に変えていく。
「こっちもまずい。これでは完全に北に入って」
そう呟いた瞬間だった。
スパっと何かが目の前を過ぎた。
一瞬の静寂の後、突如キシメイドの羽ばたきが止み落下しはじめた。
ギャーギャー喚いていたキシメイドが静かになり、リックも呆然とした。呆然としたリックの顔面をどす黒い血が伝った。
キシメイドは既に頭が斜めに半分ほど落ち、絶命していた。
アルビナスはラフィンの側に辿り着いた。
傾いた端に折れるように蹲るラフィン。
少しだけ目を開けたがすぐにぐったり閉じた。
「ちぃ!」
さっさと連れ出してテレポートしてしまいたいが、弱りきったラフィンを外気に晒して持ちこたえるか自信がなかった。
とりあえず結界を張り直すが、戦闘中の急ごしらえだ。
なんとかもってくれ。そう思った時、シュッと鋭い音だけが耳に入った。
アルビナスは本能だけで避けた。それがキシメイドの頭を割いたのだった。
「くそ!」
キシメイドの巨体が猛スピードで眼下の森に向かう。
「まずい」
繭玉がキシメイドの爪に引っ掛ったまま一緒に墜落していく。
残党の兵がアルビナスにまだ切りかかる。
「くどい!」
アルビナスは叫びながら繭玉を追う。
「厄介にも程がある。ここは」
空気で作ったような見えない刃が次々放たれる。
アルビナスは言葉を切って背後からの空気の刃を避けた。
アルビナスを掠め、西の兵をスパッと裂いた。
「北の領地の端境か。神経質な事だ」
絶命して落下するだけのキシメイドの足をその刃が切り落とした。一瞬繭玉にも刃が直撃しかけたのをアルビナスが弾いて軌道をずらした。
血しぶきをあげながら粉々にされていくキシメイドや兵たち。
リックが片耳を落とされた状態で自分一人テレポートで逃げるのが見えた。
繭玉の行方に気を取られるアルビナスを残党が追い回す。
一気に弾きとばせるアルビナスだが、むき出しの繭玉を一緒に破壊しかねない。
力を出し切れずに残党にてこずるうちに繭玉がアルビナスより先に森に落ちた。
「住まわれていない事を祈るしかないな」
アルビナスは繭玉を追った。