【14.居睡】
ラフィンは誰もいなくなって一人、ベッドに取り残された。
まだ少々貧血気味の薄い世界の中で昨夜の事を思い返した。
念入りな要求にこちらはすっかり疲弊。行為の直後、昏睡してしまっていた。
いつまでアルビナスがいたのかも判然としない。
思えば一度として彼が眠る姿を見たことがない。
いつもそうで、今回も事を済ませて悠然と立ち去ったのだろう。
「ふふ」
自嘲するように笑うラフィン。
「それなのに、バカな女」
所詮自分はアルビナスに相応する相手ではないのだ。いや、相応も何も相手は魔界の悪魔。それも魔界有数の実力者であり、そもそも人間は単なる食料でしかない。
喰われないだけありがたく思うべきなのか。
悔しくてならない。
これ程に力のない人間。
世界は4つに分かたれているという。
一つに天界、相反に魔界。二つに並ぶ冥界。そして人間界だ。
天界は正に神と呼ばれる者が多く住む世界。人間界に恩恵をもたらす。
魔界は悪魔の住む国。人間界に災いをもたらす。
冥界は死の世界。死ぬる者の命が浄化される地。
人間界はその3世界に逆らえない。
ゲーム盤の駒の様に扱われる弱者の世界に人間らが住まう。
「天に祈り、魔に怯え、死を畏れる。それが人間だもの」
あの男にこんな思いは持ってはいけない。
そもそも村を襲った悪魔の仲間。
自分を陵辱し弄んでいるだけの悪魔なのに。
「あぁ、アルビナス」
思わず、絶頂にしがみついた。
彼の体温が心地良い。
以前は黒々と感じた魔気が今は気にならない。
「人間だけど、人間じゃなくなるんだわ。私」
湖畔をアルビナスとカミラが歩く。
「来てくれて嬉しいわ」
「昨晩は途中で退席してしまいましたしね。ずっとご機嫌が悪かった」
「いいわけないでしょう?あんな人間を連れ込んで」
「どうも評判が良くないですな」
「当たり前です」
湖畔の向こうに吸血一族ではない女の群れが見える。
カミラはそちらに見せ付ける様にアルビナスに尚腕を絡めた。
遠くから彼女らの非難めいた悲鳴。
カミラはつんと無視する。
そのカミラを見下ろすアルビナス。
頬に腫れなどほとんどない。
昨晩のベッドのラフィンを思い出した。
右足の甲にくっきりとヒールのかかとで踏まれた傷があった。頬にも腫れ。
その傷を愛撫した時の感情は。
-よくも傷つけてくれたな-
ラフィンの首筋に吸い付いていた男にはもっと感じた。
-よくも触ったな-
ラフィンの動きは見ていた。
後を付けていく男たちが、カミラに指示を受けていたのもわかっていた。
どんな傷をつける気かと思った時にはラフィンの早々の助けの声が入った。
テレポートして目に入ったのは、ラフィンが男の腕に抱きしめられている姿。
金色の髪から覗く白い首にその男が牙を立てていた。牙を深く刺し、思い切り吸い上げたであろうラフィンの血。直後、アルビナスの呪縛のかかった只ならぬ血の味に、慌てて牙を抜いた、その刹那だった。
吸血一族の館でさえなければ、連中を皆殺しにしても構わないほどの静かな怒りが満ちた。
-気安く触るな-
思わずラフィンの体を求めた。
拒絶されても封じて事を進める勢いがあったのは、誰かに触れられたままなのが嫌だったせいだ。それは嫉妬だった。
カミラが木の陰にアルビナスを誘った。
そのままキスに入る。
濃厚なキスになる。
しかし、あまり長さを感じない程度でアルビナスが顔を上げた。
カミラがアルビナスの首に回した腕を外さない。
「お見舞い、これだけではないでしょう?」
「他に?」
「離れが近くにあります。連れていって」
「今日はそれほど時間がない」
「焦らしていらっしゃる?謀反騒ぎからやっと会えたのに、昨日も今日もこれだけで帰ってしまうなんて、いじめないで」
「いじめならば、カミラ殿の方がお上手だ」
微笑んだままだが、カミラの腕を容赦なく外した。
カミラがアルビナスにすがる。
「待って、ごめんなさい。悔しかったの」
アルビナスの前に回りこんだ。
「あんな人間を連れてくるんですもの。お泊りもいただけるかと私は期待して待っておりましたものを。悔しくて」
「華やかな宴は久しぶりのこと。遠出も久しぶり」
「ええ。だからこそ」
「私の連れと申し上げた。それを男共を放って襲わせるとは、私の趣向をどう勘違いなさっている?」
「その趣向をおっしゃって。アルビナス様の好みを」
カミラはアルビナスに体を押し付けた。
「どの姫に本気でいらっしゃるの?」
「今はあの人間でしょうか」
「ご冗談を」
「たまには悪趣味に走るのもよいですよ。下等な連中の辱め女にしかならぬと侮っておりましたが、人間もそれはそれで悪くないものです」
アルビナスは微笑んだ。
「たかが人間と侮った相手。それを相手にしている私も大した者ではない」
「いいえ」
カミラはアルビナスの胸に頬を寄せる。
「本心をおっしゃって」
アルビナスは答えない。
「やはり、エルル様なのですか?」
途端にすっとカミラから離れるアルビナス。
「捨て置けないというわけですか?やはりそうなのでしょう?」
アルビナスは湖畔に戻った。
「私は諦めませんから。伯爵様とてわかっておいでのはずだわ。魔界の権力者争いは常に熾烈。奥方の選び方次第で立場は大きく変わります」
アルビナスはカミラに振り返らず歩き去った。
「どこまでも束縛するなど、許さないわよ、エルル姫」
アルビナスの機嫌が悪い。
ラフィンが部屋探しから戻ってきた。
アルビナスがいることに気づいてラフィンの足がドアを開けたままの位置で止まった。
目を合わせるのが恥ずかしい。
「その足でどこまで歩いてる」
「近くよ」
「おまけに二日酔いだろ」
「もう平気」
ラフィンはドアから近づかない。
「部屋を見つけたわ。ここから二つ下の」
「衣装部屋か」
「そこよ」
「・・・」
アルビナスの刺々しい話し方にラフィンが顔を覗く。
「怒られたの?昨日の事」
アルビナスは寝椅子に転がった。
「関係なくはないが、基本的には関係ない」
「何よ、それ」
「こっちに来い」
ラフィンは首を振った。
「もう充分でしょ。私は衣装部屋で眠るわ」
「充分?あれだけで?」
昨夜のことが思い出されてラフィンは真っ赤になって俯いた。
それをアルビナスが見つめる。
「また凍えるぞ?」
「ベッド、小さいのでいいから一つ欲しいの」
「やらぬ」
「・・・」
ラフィンがやっとアルビナスに視線を合わせた。
合わせた時には覚悟のような強さがある。
「だったら働くわ。それで手に入るでしょ」
「入るかもな。物々交換の世界だ」
「じゃ」
踵を返したラフィンの体をアルビナスが空気ごと引っ張った。
アルビナスの上に乗っかる形になる。
「俺の機嫌を直せ。それでベッドをくれてやる」
「何」
身構えるラフィン。
まだ夕食前だ。また陵辱されるのか。
「そのケルンは邪魔だな。六角もな」
ラフィンの承諾を得ずにポンポンそれらを投げる。
「何する気」
ラフィンは長い寝椅子に座らされた。
そしてアルビナスがゴロンとその頭を膝に乗せた。
「少し眠る」
「え・・・」
ラフィンの指を手に取った。
「少々疲れた。少しだけだ」
アルビナスは突然コトンと眠りに落ちた。
「何、よ?」
まるでぜんまいが切れたような眠りへの落ち方だった。
魔物の眠り方なのか。
しかし。
アルビナスの頬を突いた。
全く起きる気配がない。
「こんな無防備な眠り方なのね。だから・・・」
だから人前では滅多に見せないのだろう。
それを今目の前で確かめている。
アルビナスの額を撫でた。
目を閉じているアルビナスは日頃より気持ち幼く見えた。
整った顔だ。
角がなければ、村一番のハンサムだった兄ハンツや、皇帝に寵愛を受けているという吟遊詩人で占師ヤコフのような風貌の良い人間に見えるだろう。
艶やかな黒い髪。
自分の金色の髪がそこに垂れて互いが映えていた。
「そんなに安心しないで」
すーっと深い息遣いだけが返ってくる。
アルビナスの鍵爪が目に付いた。
鷹の様な捕食者の爪だ。
確か牙もあったはずだ。
カミラ程立派ではないが。
そう思ううちに昨日の二人の踊る姿が脳裏をよぎった。
カミラと今日会って何をしたのだろう?
朝から向った。
そんなに彼女に気を使う理由があるのか・・・
ぼんやり考えるラフィンは目の前の光に気づいた。
六角の光の幕が張っている。
床に放り出された六角のブレスから投影機の様に光が上っていたのだ。
その中に誰かがいた。
「・・・」
古いフィルムの様なぼけた映像が流れる。
男女が絡み合う。
「・・・」
アルビナスとカミラに見えた。
ラフィンの要求に応えて何をしていたか映し出しているのか・・・
ぼやけている。どこか虚ろだ。しかし、ラフィンが見つめるほど映像ははっきりする。
「やめて」
ラフィンは目を瞑った。
「そんな物見せなくていいわ」
六角の幕がひゅっと縮む。
しかしまた光った。
ラフィン自身が映る。膝で眠るアルビナスも。
そしてラフィンの手にないはずのケルンが、映るラフィンには握られており、アルビナスの喉元に振り下ろされた。
-お手伝い・・・いたします・・・今なら・・・-
ラフィンは六角の腕輪を見据えた。
「話せるの?」
-悪魔の眠りは、短いが深い・・・意識のない今なら容易い-
六角の腕輪が一人で転がる。
ケルンをこんこんと押しながらこちらに徐々に近づいてきた。
ラフィンはアルビナスを見下ろした。
-滅多にないチャンス-
とうとうラフィンの足元にケルンが当った。
-コワ村、わたしが帰路をご案内いたします-
「あなた、何?誰?」
-我が名はハダー-
「ハダー?でも」
-お早く。眠りは短いのです-
ラフィンはまたアルビナスを見下ろした。
ラフィンはケルンを拾った。
-気絶など半端なことはお考えなさいますな。伯爵相手に手加減は必要ございません-
「でも」
ハダーに先を見透かされる。
振り下ろせない。
あまりに無防備な状態のアルビナスだ。相手が誰でも躊躇われる状態。
-抱かれて情が移りましたか?愛されているとでも?-
ハダーの言葉にラフィンが目を上げた。
-先程お見せしました通り、お相手は他にもおります。慣れていらっしゃったのは、あなた様の方がよくおわかりでしょう?-
「やめて」
-さぁ、迷いなく、殺してしまいなさい-
「やめて。できないわ。そこまではしたくない。殺したくない」
-殺せ-
「殺したくないの」
-殺せ!-
「嫌よ!」
途端にアルビナスが目を開けた。
アルビナスの放ったナイフが腕輪を掠める。
しかし、腕輪はいきなり窓に飛んだ。
「結界があるぞ」
しかし腕輪は光を放って突っ込む。
メリっと食い込む音がした。
-この程度、どうにでもなる-
ふわふわした音声だったのがはっきりした。男の声だ。
そして腕輪は更に結界に食い込み、とうとう破れた。
つむじ風が室内に巻き起こった。
アルビナスは身を起こした。
「やはり油断ならぬ奴だったな、あの腕輪」
はっきりした男の声。
「初めからあそこに潜んでいたな。割れた鏡に紛れ込み、全て覗き見というわけか」
誰だか見当もつかない。
伯爵の上前を撥ねるような奴。
思い浮かぶ連中は数えられるほどしかいない。
そしてそこに該当者はいない気がした。
「俺の結界をあっさり破るか。あれほどの実力ならヂュクック始末もダン逃走の手助けも容易いはずだ。もう気配が追えない。見事に姿をくノクテした」
窓を見、ラフィンを見た。
ラフィンがケルンを握っていた。
「殺すチャンスをみすみす逃したな」
「ええ」
「おまけに武器も一つ減った」
「そのようね」
「何を話した?」
「実は聞いていたんじゃないの?」
「・・・」
アルビナスは髪をかき上げた。
「お前の強い拒絶の声で目が覚めた」
ラフィンはアルビナスを見つめる。
「俺を殺したくない、とな」
「・・・」
「魔物の眠りは深い。その眠りの壁を打ち抜いて飛び込んできた。おかげで目が覚めた」
「そんなに強く思ってない。急に殺せって、それはできないってだけよ」
その唇にアルビナスが軽くキスをする。
しかしラフィンは俯いてしまった。
「機嫌直ったでしょう?務めは果たしたわ」
「・・・」
アルビナスはラフィンに回しかけた腕を止めた。
吹き込む風にラフィンの前髪が揺れる。
「ベッド一つ、ちょうだい」
「用意させておこう」
アルビナスが立ち上がる。
腕を押し出し、ばしっと結界が張り直された気配がした。
風も止んだ。
ラフィンは衣装部屋に運び込まれたベッドで膝を抱えていた。
嫌だった。
殺したくない。
それが全てだった。
無防備であってくれて助かった。
自分に言い訳が出来る。
アルビナスは一人でベッドにいた。
鏡を突き破って落ちてきたラフィン。
全てはそこから。
そう思ってその前に彼女を見かけた事を思い出した。
くるくると楽しそうに踊っていた。
ハザマの森に若い娘が一人。
靴を脱ぎ去り、三つ編みの髪を解いて歌い笑っていた。
花畑に木漏れ日。
謀反騒ぎですっかりささくれ立っていた気持ち。
呑気な人間を眺めていると妙に気が楽になった。
アルビナスは一人で微笑んだ。
「ふん。既にあの時点からか?」
誰かの故意だとしたら巧妙この上ない。
ベルゼゼがあのハザマに隣接の村を狙って狩りに出た。
六角鏡を出してみようと思ったのは、あの娘がどこかで気掛かりだったのだ。
そして。
何故踏み抜いてしまえる?
あの場にあってないような鏡の存在だ。それを突き破った。
空間と空間を誰かが繋いだ?
「私があの人間を気に入るとわかって送り込んだのか」
大体、何故ラフィンはこんなにも魔界に適応できる?
人間ではあるが、実の所は誰か魔物の傀儡があるのではないのか。
「ち」
アルビナスは身を起こした。
ラフィンという者が掴みきれない。
真実の名を支配し、その身も上手く取り込んでいるはずなのに、肝心な根源が全く解明できていなかった。
小さな理由付けに騙されて、中々本性が見えてこない。
見えてこないうちに。
衣装部屋のラフィンを覗き見る。
先程からベッドで膝を抱えている姿が見えていた。
「あーあ。失敗かぁ」
男は空を見上げた。
「近すぎるのは返って扱いにくいな。取り込みようもない」
男の髪がなびいた。
「不純物だらけのくせに、端々まで細かく食い込んで簡単にはいかないな」
男が絶壁のテラスに腰掛けている。
外向きに腰掛けているので前のめりに腰を浮かせば墜落しそうだ。
「もうおしまい?」
その背に誰かが訊ねた。
「一応ね」
「一応?」
「言ったろ?別にもう道具はあってもなくてもいいんだ」
「でもカモフラージュがなくなっちゃったじゃない」
「ああ、それはちょっとやり辛くなったな」
「まさかそのまま見せてやる気はないだろう?正体バレちゃうもんね」
男の背中が笑って揺れた。
「バレる?そんなの心配してた?」
「油断禁物だよ。伯爵様だろ?」
「そうだったね。気をつけよう」
手を広げてテラスの体を前のめりに倒した。
そのまま墜落する男。
風が肌に絡みつく。
「まだだよ。もっと楽しまないと」
男は目を瞑った。
闇の淵に猛スピードで落ちる。
それを楽しんでいた。
「ハダー。近くに上手く潜んでいなさい。また使ってあげるから」
-ハイ-
どこからか返事があった。
淵の底が一気に目の前に近づく。
しかし男はそのまま激突するように突っ込んだ。
ドンと砕けたのは底の岩盤。
ようやく止まった男はつまらなさそうに上を見上げた。
ラフィンは寝返りを打った。
ドアの外の音がやけにはっきり聞こえていた。
アルビナスの部屋や鏡の修復で奥殿にいた時も、静寂だけは秀逸で落ち着いていられた。
しかしそれもアルビナスの結界があればこそだったのだろう。
夜の方が、廊下を走り回っているらしいネイブや、奇声を発する者が多く、いつドアを抜けてくるかと思うとぐっすり眠れなかった。
鍵はかけてある。しかしそれが役に立つとは思えなかった。
ケルンとアルビナスの指輪をしっかと持っていた。
「チエ」
醜悪な鬼が衣裳部屋の前で舌打ちした。
「チキショウ。カギがついてる」
他の魔物が覗き込んだ。
「コワシテしまえ。ニンゲンがいるのに」
ネイブがワラワラ集まってくる。
「ミハリをしまつ」
「オマエがやれ」
「オマエが」
ドアの前で二人は揉めている。
ネイブが一匹ドアノブに飛びついて弾き飛ばされた。
ギャーギャー転がる。
「ホンモノだ」
騒ぐネイブは後ろを振り返る。
ネイブより一回り大きな魔物が飛び込んできたのだ。
散って逃げるネイブを踏み越えて更に一回り大きな魔物がその魔物を捕まえようとする。
階段を上下しながらそんな小競り合いが行われている。
皆が一度はラフィンのいる衣裳部屋に視線を向けるのだが、すぐに諦める。
ドアノブにチェスの黒のクイーンの駒が乗っていた。それがドアを保護しているのだ。
アルビナスが部屋で一人チェスを指す。
クイーンの黒い駒が欠けていた。
「つまらんな。勝てん」
白のチェスを動かす。黒のチェスが見るからに劣勢だった。
「女王か」
黒のキングを動かす。
「ふ」
アルビナスは一人で笑った。
ラフィンは一晩無事に過ごした。
朝、恐る恐るドアを開けると、廊下にも階段にも誰もいなかった。
ドアノブに乗っかっていた黒のクイーンもなかった。
「何だ。意外と安全なのね」
そう言いながらもアルビナスの指輪とケルンは身につけていた。
仕事を探そう。
ラフィンは塔を下っていく。
「あの」
朝食の用意にバタバタしている厨房を覗いた。
一瞬全員が振り返るが、すぐに仕事の続きを始めた。
「あの、何か仕事を。朝食の代わりになる働きがしたいの」
ラフィンはもう一度声をかけた。
大柄の女が歩み寄ってくる。
「お前は当主様に飼われている人間だろう。エサが欲しいなら当主様にねだりな」
「お願いします。一通りの家事は出来るわ」
「ふん。下手に使って火傷されたり、その小奇麗な衣装に染みでもつけたら怒られるのはこっちだからね。やなこった」
「そんな事、アルビナスに、アルビナス様に言わせないから」
厨房の連中が一斉にラフィンを見た。
呼び捨てをやめた後にこの人間は何と言った?
ここの当主に文句を言わせないと言ったのだ。
呼び捨て以上の権威を自分から露呈させていた。
「場違いだよ。そんなに役に立ちたいならここから出て行ってくれよ。それが一番のお手伝いになりそうだ」
しゅんとするラフィンを皆がクスクス笑い者にする。
「大体、その指輪とその腰差しでよく言うよ。私らを殺す気かい?」
ラフィンは後ずさった。
「ごめんなさい。でも」
「ああ、そうだ。当主様のご朝食が出来ていたね?」
後ろに声を掛ける。
「はい。でもこれは」
「野摘みに出てまだだろ?こいつに任せちまいな」
ラフィンが朝食をトレイに乗せて出て行く。
大柄の女が意地悪く笑った。
「いい気味」
「いいんですか?イカウの仕事なのに」
「いいんだよ。遅れるあの子がいけないのさ」
「時間がまだもう少しあるけど」
「ちょっと位早くても構いやしない」
「ああ、まあねぇ」
その会話の途中にイカウが走って飛び込んできた。
グロテスクな実が山盛りの篭をその辺に投げるように置く。
「ご、ご朝食。時間、もうすぐだから。用意は?」
息が切れて上手く話せないが、身支度を直しながら周囲をきょろきょろした。
「アルビナス様のご朝食は?」
「今持って行かせたよ」
「!」
大柄の女にイカウが詰め寄った。
「誰に?あれは私の仕事!他人に手出しされては困る!」
イカウが大声を上げた。
「侍従長でも許されない!ちゃんと時間に戻った!」
「ではそう当主様に言ったらいい。今の配膳係が気に入らないならね」
「!?」
イカウが大柄の女を睨みつけた。
「人間の女が是非お手伝いしたいと申し出てね」
イカウが身を翻した。
「ほう?」
アルビナスがラフィンに微笑んだ。
「お前の給仕か」
「・・・」
無言でテーブルに朝食を置くラフィン。
ニヤニヤとアルビナスが見つめた。
「どうぞ」
席から離れようとするが、それをアルビナスが捕えた。
「給仕係はこちらが食べ終わるまで側に控えるものだぞ?」
「離して」
「言葉遣いもなっておらんな」
朝食そっちのけでラフィンを引き寄せて膝に乗せてしまう。
「ちょっと」
アルビナスが間近のラフィンに顔を寄せる。鼻同士が触れそうだ。
「朝食がまだなのだろ?もう一人分運ばせよう」
「結構よ。こうやって働くから」
「キス一つで与えてやろうというのに」
「甘く見ないで」
アルビナスを殴ろうとした手を押さえつけられた。
そのままキスされてしまう。
そこへイカウが入ってきた。
「ひゃ」
イカウは突然の光景に立ち竦んだ。
アルビナスも顔を上げる。
ラフィンも急いで体を立て直す。
「やっと来たか。どうした?今日の趣向は誰の仕業だ?」
「はい。えーっと」
イカウの方が動揺していた。
「大きな女の人に、これを持ってけって言われたわ」
ラフィンが答える。
「野摘みに出てまして。時間ギリギリに戻ったんですけど」
「これはこいつの食事に当てよう。俺の分はいつもの様にイカウが運んだ物にする」
イカウの顔が紅潮した。
「はい。すぐに!」
イカウが出て行く。
アルビナスがラフィンに振り返った。
「お前が仕事を探すのは結構だが、イカウの仕事を取るな」
「気づかなくて。他の仕事断られたし」
「俺のお気に入りの人間に何かさせたら色々面倒だと思っているのだろう」
「そうなの。ね、もっとボロの衣装はない?あとね、指輪を外したりしてもいい?」
「何を考えてる?」
「働く格好じゃないの。指輪もケルンも怖がられて、誰も近寄ってこないし」
「お前な」
「わかってる。人間だから、ちゃんと警戒しないといけないのよね?でも、この城の中なら大丈夫かなって」
「俺がいつでも守ってくれて助けてくれると?」
「おもちゃ、盗られてしまうわけないかなって」
アルビナスはラフィンを食事の前に進めた。
「昨日もね、ちょっと怖かったけど、誰も入って来なかったわ。外が随分騒がしかったけど、朝まで大丈夫だったの。そんなに怖がらなくていいのかもしれないって思って」
「愚か者は楽でいいな」
「え?」
「ケルンは好きにしろ。お前が持ち込んだ物だ。但し、指輪は外させぬ」
「でも」
「レイテ・ラウ。指輪を外すのはならん」
しかめっ面のラフィンがイヤイヤ頷いた。
イカウが食事を運んできた。
「イカウ。今日は衣装部屋の掃除を頼む。こいつが居候を決めたからな。一緒に片づけを済ませてくれ」
イカウがラフィンを一瞥だけした。
「ごめんね」
ラフィンはイカウに謝った。
「何?」
「朝。朝食運ぶのは貴方の仕事だったのね」
「アルビナス様のお食事は全部よ。アルビナス様のお部屋に入れるのも侍女は私だけ」
「特別なのね」
「・・・そうね」
イカウの返事は一呼吸置いてからになった。
特別?それは自分よりお前の方だろうが。と怒鳴りたい気持ちを飲み込む間だった。
衣装を引っ張り出し、奥から埃をはたき出す。
「突然、野摘みに行けってね。たたき起こされたのよ」
イカウの声が奥からする。
話を変えてしまわなければ、ラフィンに魔物らしい暴力で叩き潰したくなりそうだった。
送り出される衣装をラフィンが自分のベッドにとりあえず置いていく。
「気に入らないのよ、私が」
「異例の大出世なんでしょ?アルビナスが言ってたわ」
イカウの返事がない。
「あっと、アルビナス様がイカウを大抜擢したって。でも古参の連中が目の敵にしてるって。今回も嫌がらせだったのね」
「必死で走って戻ったら、あんたが運んだって」
「ごめん。嫌がらせの片棒なんか担いじゃった」
「アルビナス様の部屋出たの?」
「え?ええ。まぁ」
「よく一晩ここで平気だったわね。宝物関係は別の蔵に移したから、ここはあまり強い結界が張られなくなったのに。ここらは毎晩夜の魔物が徘徊してくるはずよ」
「そうなの?」
「アルビナス様のすぐ近くにはその魔気に引かれて小虫みたいなのが集まるの。それを食べようというネイブなんかがうろうろするのよ。それを狙う魔物もね」
「確かに騒がしかったわ。でもここ空気は澄んでいて良さそうだったの」
「つい最近まで、この部屋は強力な結界内だったから。宝物があったからその名残ね」
ああ・・・ラフィンは部屋を見回した。
通りで空気が澄んでいるのに、外との壁が薄いはずだ。
でも、それじゃ。
「じゃ、ここの気、どんどん不純物が混じるのね」
通りでアルビナスが余裕だったのだ。
いずれ自分の所に戻ると確信していたのだ。
見事に手の平で転がされている。
ラフィンはベッドに転がってぼんやりしていた。
食事はどうにかありついた。
しかし体が重い。
人間界で働くより数倍疲れる感じがする。
そう、そもそも人間なのだ、私は。
ラフィンはアルビナスの指輪をかざした。
魔界に落ちて何日たったのだろう。
こちらの時間と人間界の時間は果たして同じスピードなのか。
-帰りたい-
自分の居場所などない魔界になど居たくはない。
おまけに。アルビナスの顔が浮ぶ。
自分の唇に手を当てた。
弄ばれるのは嫌だ。それでもいいと思う自分がもっと嫌だ。惨めになる。
-帰りましょう-
誰かの声がした。
「帰れないわ。方法も道もわからない」
-ご案内しましょう。お望み通りにいたします-
「アルビナスの目を盗んで?」
-望まれれば叶います。どうぞお心のままにご命令ください-
「何処へ?」
-生まれた場所へ-
「それは、どこ?」
ラフィンが身を起こした。
目が虚ろに何かを眺める。催眠にかかったような姿になっている。
-必要ないものを外しなさい。邪魔なものです-
ケルンが床に落ちた。
-必要ございません。指輪も-
ラフィンが指輪をひき抜こうとする。
しかしブカブカに嵌っていたはずの指輪が抜けない。
「・・・」
指輪に手こずるうちにラフィン自身の動きが止まった。
ラフィンの視線から虚ろさが消えた。
「誰?あなた。」
ラフィンは我に返った。
途端に周囲の澱みが飛んだ。
「今」
ラフィンは誰かに後ろから抱き寄せられていた。
耳元で囁く声。
その声と肩に乗った手の感触。
ラフィンは振り返った。
驚いた男の顔が一瞬見えて掻き消えた。
ビクン!と余りに派手に体が動いたので、横の少年まで飛び上がった。
「何?」
男が自分の手の平を顔に当てた。
「振り返った!」
「何?」
男は可笑しそうに笑い出す。
「俺の囁きの途中で振り返りやがった」
少年が男の顔を覗く。
「楽しんでるね」
男が顔から手を外した。
「ああ、まさか振り返るとは。そこまで来ていたんだ」
「大丈夫?顔色悪いよ?」
「うん。ちょっといじくるのが怖くなってきた」
心配そうな顔の少年を抱き寄せた。
「ぞくぞくするよ。ちょっとずつ自分で封印を食い破ってる。恐ろしい女だ」
何かが私に囁いていた。
意識がぼんやりして判然としない。
しかし確かに誰かがいた。
ぞくっと我が身に震えた。
-何かに。アルビナスとは違う何かが別に自分に関与している?-
鏡を直している時から奇妙に思えた出来事。
時々自分から乖離してしまう意識。
魔界にいるせいかと思った。魔気に正気を失いかけている前兆ではないかと思った。六角鏡の時にも、同じような幻聴を聞いた気がする。
アルビナスのせいかと思ったこともある。
真実の名を奪われ、心も体も縛られている。操作されていてもおかしくない。
でもそうじゃない。
アレは別の何かだった!
そして。ラフィンは目を瞑った。
恐ろしい事にそれは育ったコワ村と同じくらい懐かしさを感じるのだ。
そう。この感覚。
他にも何処かで。
「あ」
あの女性。
ハザマの森にいた、サタンが出現した森にいた女性の存在感。
「おや」
小さな魔物が大きな耳をはためかせた。
背丈の3倍はあろう杖をつく。
「東か・・・」
魔物はゆっくり向きを変えた。
砂嵐の荒野のど真ん中。
「このような気配。何という事」
小さな魔物はトコトコと歩く。
「東の伯爵様はまた厄介事を抱えたか?」
風にコロンと転がった。
「気のせいならばそれもよし。久し振りの訪問といくか」
衣裳部屋のドアノブの黒のクイーンがふと揺れて落ちた。
アルビナスの手がそれをキャッチする。
「!」
ラフィンは身を起こした。
アルビナスの気配。そう思ったところにアルビナスが現れた。
「・・・」
アルビナスがラフィンを見つめた。
「察知したか」
「?」
ラフィンはアルビナスを見上げながら首を傾げた。
アルビナスはラフィンがうとうとした所を狙い澄ましてやって来たつもりだった。
それを事前に気づかれたのだ。
「俺の出現を見切るとはな。お前、一体何を隠し持ってる?」
ラフィンの手首を掴んだ。
途端に逃げようとするラフィン。
「離して!」
それに答えずアルビナスの力がラフィンを仰向けに倒す。
「少し目を離した内にもどんどん研ぎ澄まされていく。お前の正体、さっさと晒せ」
「何を」
ラフィンはアルビナスを睨んだ。
「これ以上何を晒すの?何にもないわ、たかが人間なんでしょ?」
「ああ。だから見えない」
ラフィンの手を拘束して胸元を撫でる。
「やめて!」
「口先はいつもそう言う。お前の言葉はいつも当てにならぬ」
構わず体を撫でた。
「やめてよ。飽きるまで遊ばれるなんてイヤなの」
「心配するな。そう長くは持たないはずだ」
「若さがある内だけなんでしょ」
「察しがいいな」
魔界に住む者にとって10年とはどの程度の長さに感じるのだろう。
自分はあっという間に若さを失う。
その姿を晒して更に笑いものにされて殺されるのか。
我慢ならない。アルビナスに好意を持ってしまったからこそ。
「もう!」
ラフィンが暴れた。
「おもちゃになんかされないから」
ラフィンがケルンを握る。
それをいつものように直に掴んだアルビナスの顔が引きつったが、そのままケルンを奪って放る。
「離して!」
アルビナスは構わずラフィンを引き倒す。
「イヤ!」
「体はイヤとは応えてない」
アルビナスの余裕の声。
ラフィンは逆上した。
「だったら」
ラフィンの声がやけに響いた。
「体だけ持っていったらいいわ!」