令和新『雨月物語』
キリスト教において、人間の身を滅ぼすとされる「七つの大罪」という概念があるが、中でも嫉妬と色欲が混ざり合った罪ほど厄介なものはない。「嫉妬深い女も、年老いてみればありがたさが判ることもある」などろいう愚言を残したのは一体誰であろう。嫉妬の情はまったくもって七面倒なもので、どんなに最小の害であっても器物を破損させたり家業を傾かせたり、害が大きくなると一族や時には一国さえ亡ぼしかねない。人類最古の殺人とされるカインとアベルの例をとっても、少なからず嫉妬心が悲劇の一因となっている。神代の時代から、我々は常に嫉妬に深く悩まされ害を被ってきたのである。
ここに、嫉妬と色欲によって人生を大きく狂わせた男女がある。男の名を聖太郎、女の名を徳子という。
二人はかつて、病めるとき健やかなるときも死がふたりを分かつまで愛しあうと誓った仲だった。そもそもは、先祖代々より続く和菓子屋の跡取り息子である聖太郎が、家業も疎かに酒や女に溺れる体たらくであったところを、彼の両親が「どこか良家の綺麗な娘でも妻にすれば、放蕩息子の身持ちも自然と収まるのではないか」と思案した末に成立した縁談だった。徳子は地元でも名の知れた神社の一人娘で、神主である父が手塩にかけて育てただけあって眉目秀麗で気立てもよく、方々より見合い話が持ち込まれるほどであった。しかしながら徳子の男性の趣味は風変りなもので、どんなに良夫となり得る資格を備えていても、自分が気に入らなければ縁談をなかったことにするのである。さながら、諸王の求婚を無理難題な要求で撥ね退けるかぐや姫のように。そのなよたけの姫が唯一、強烈な運命を感じ取った相手が聖太郎その人なのだった。
神主の父は、聖太郎の不行状を知るやいなや娘の縁談希望を強く反対した。清廉潔白な箱入り娘を、好き好んで札付きの漁色家に譲り渡す父親が世のどこにいようか。だが、徳子の決断は鋼も打ち砕くほど固かった。父はやむなく根負けし、また聖太郎の親族は縁談の成立に諸手をあげて喜んだ。
ところで、徳子の神社には代々語り継がれる不思議な釜が存在する。その釜は吉凶を占うことができるのだ。釜に湯を注ぎ沸騰した際、釜から獣の咆哮めいた音が響けば吉、すんとも音が聞こえなければそれは凶兆の徴である。この「釜祓い」と呼ばれる易断は不思議と的中し、特に神社の地元住民は縁談が持ち上がるとまず釜祓いで婚礼の日並をみる。吉が出れば恙なく輿入れに進む一方で凶が出れば破談になることもあった。
さて、聖太郎と徳子の華燭にあたってもこの神事が実行されたことは云うまでもない。ところが、神は両家の御縁を良しとしないのか、虫のすだく小さな音さえも発しないのであった。夫婦の行く末に不穏なものを感じ取った神主は、今一度縁談を考え直してみてはどうかと愛娘に交渉したが、
「またとない御縁を占術ひとつで御破算なさるおつもりですか。すでに結納の儀式も済み、夫婦の縁を結んだ以上は、この契りを変えることはできないのです。ことに聖太郎さまのご一族は、先祖代々続く由緒正しいお家柄で、厳格な家風の家だと聞き及んでおります。今さらお断りすれば決して良い顔をなさらないでしょう」
新婦の決断は揺るぎないものであった。もともと、徳子は今度婿になる人が世に稀なる美男子である一方、周囲も呆れるほどの遊蕩児であることを以前より小耳に挟んでいた。それでもなお、生涯を通して聖太郎に尽くすと腹を固めたのなら、あとはその勇断を周囲が見守るしかないであろう――神主の知人友人は口をそろえるのであった。こうして、両家の親類縁者は一堂に会して、新夫婦の末永い幸せを祝ったのである。
夫婦となった二人は、しばらくの間は周囲も羨むほどの仲睦まじい生活を送っていた。徳子は元来非常な甲斐性者で、嫁ぎ先ではまめまめしく夫に仕え、家業にもそれは精を出して奉公した。聖太郎の親族は徳子の献身さと貞節さにたいそう感心し、聖太郎本人も新妻への愛おしさを感じずにはいられなかった。
ところが悲しいかな、人間の性はそう簡単には変わるものではない。しばらくは鳴りを潜めていた生来の浮気性が再発し、いつの頃からか聖太郎は夕子という水商売の女と深い仲になった。そしてついには身請けしたのち、実家から少し離れた人目につかないところに二人だけの愛の巣を設けたのである。妻の待つもとからは次第に足が遠のき、とうとう全く寄り付かなくなる始末であった。
未来を誓いあった夫の裏切りに、徳子がひどく嘆き悲しんだのは指摘するまでもない。のみならず、それを見かねた舅がどら息子を実家へ引きずり戻して、それは厳しく叱責してから地下室に閉じ込めてしまった。周囲は半監禁状態の聖太郎に対して、自業自得だと冷めた反応をするだけ。跡取り息子がそのような醜態であるから、家業の和菓子屋が徐々に傾きはじめたのは当然と云えよう。妻の徳子は以前にもまして、聖太郎一家に挺身するようになった。
ある日のこと。聖太郎はほかの家人が留守である瞬間を見計らって、妻を地下室へと呼び出した。曰く、
「徳子の涙ぐましい働きぶりを見て、私は自身の愚行を恥じる毎日だ。そこで私は、夕子との関係を一切清算し、金輪際関係を復活させることのないよう彼女を遠い地へ送ろうと決意した。ただ、今の夕子は親族のない天涯孤独の身であり、このままではもとの水商売の世界へ戻るしかない。憐れな彼女のため、せめて心ばかりの生活費を宛がって生まれ故郷へ帰してやりたいのだ。しかしながら、私はこのように身動きが取れない状態だから、私の代わりに夕子へ手切れ金を渡してやってはくれないだろうか。浅はかな頼みであることは百も承知であるが、後生の願いである。正式に夕子と別れたのちは、今までの罪滅ぼしとして家業にも身を入れるし、もちろん妻である徳子にもめいいっぱいの愛情を注ぎたい」
甘い声で嘆願する聖太郎に、人を疑うことを知らぬ徳子は激しく心動かされた。頼まれたとおりに金を工面し、夫の情人へ手渡しに行ったのである。聖太郎が徳子や家人の目を盗んで地下牢を脱け出し、のちに夕子と合流しはるか遠い地へ駆け落ちすることは容易に予想できたであろうに。
徳子の知らぬ地で、聖太郎は内縁の妻となった夕子と新たな生活を送っていた。色街で生きてきた夕子は、貞淑な徳子にはない危うい魅力を放っていて、そんなところに聖太郎は惹かれたのである。よくできた妻がありながら娼婦と蜜月の関係になるとは、まさに恩を仇で返す仕打ちであったが、己の欲に抗うことなど生粋の色事師には到底不可能なのであった。
しかしながら、その戯れも長くは続かなかった。あるとき夕子が雨に濡れ風邪を拗らせたのだが、そこからあっという間に病状が深刻化し、ついには床から起き上がれぬほどにまで悪化。聖太郎の必死の看病も虚しく、発症から七日後には不帰の客となってしまったのである。
夕子のあまりに早い最期を、聖太郎は呆然として見送った。もしや、かつて自分が捨てた妻の徳子が生霊となって夕子を呪い殺したのではなかろうか――聖太郎は、祓い屋を生業とする本庄という男にふと洩らしたが、「六条御息所ではあるまいし、生霊などそう滅多に存在しないさ」と一笑に付されてしまう。それよりも今は亡き夕子を静かに慰霊してやりなさいと諫められたので、短いながら愛を捧げた情婦のために小ぢんまりとした墓を築いて、懇ろにその菩提を弔った。
それからは毎日のように夕子の墓参りを欠かさなかった聖太郎だが、あるときその墓の隣に建てられた真新しい墓石を目にする。しばらく観察するうちに、その墓にはうら若い女性が鎮魂に訪れていることが判った。頃合いを見計らい、聖太郎は女に声をかけてみた。
「もし。あなたも、愛する人を最近亡くされたのですか」
「いいえ。私はさる屋敷の家政婦をしております。そこの旦那様が、つい十日ほど前にご病気で他界されたのです。奥様はすっかりやつれて床に臥せってしまわれたので、私が代わりに花を手向けに訪ねているのでございます。両人ともまだお若く、見目麗しいご夫婦でありましたのに、なんとお可哀そうなのでしょう」
こう云って、家政婦はさめざめと涙を流した。その未亡人の話を聞き、聖太郎はなんとなく口を開いた。
「私も、つい先日愛する妻を亡くした身であります。そのご婦人とは、共通の悲しみを分かちあい互いに心を慰めあえるかもしれません」
家政婦はすっと顔を上げ、手拭いで目元を押さえながら小さく頷く。
「奥様は、拠り所を失いすっかり意気消沈されてございます。ぜひ話し相手になってやってくださいまし。きっと傷心も少しは癒えることでございましょう」
家政婦に案内され、聖太郎は林の奥深くに建つ古びた館に辿り着いた。庭は広大な広さを誇っているが、雑草が好き放題に生えすっかり荒れ果ててしまっている。中に案内されると、天井には蜘蛛の巣が張り床にも埃が積もっていた。館は家政婦たった一人で管理しているらしく、掃除も整備も充分に行き届いているとは云えなかった。
家政婦は足音も立てず階段を昇り、角に面する部屋へと聖太郎を誘導した。
「奥様は、こちらの寝室でお休みになっておられます」
ぼんやりと暗い部屋には、天蓋つきの寝具が置かれていた。薄汚れた布幕の向こうで、人型の影がゆらりと蠢く。聖太郎はおそるおそる声をかけた。
「ご主人に先立たれ、傷心の模様とお見受けします。私も先日愛妻を亡くしたばかりでございます。どうでしょう、互いに悲しみを分かち合うことであなたさまの心の傷も少しは癒えないものでしょうか」
女主人の影は幕を少しだけ引くと、
「ありがたいお言葉でございます。主人の裏切りに遭い、私の心は醜い嫉妬にすっかり蝕まれてしまったのです。たとえ高名なお医者さまや名湯でも、惚れた病は治癒しないとも云われます。私のこの病も、愛する者を取り戻さぬ限りは決して治ることのないよう思われるのでございます」
垂れ幕から覗いた顔を見て、聖太郎は驚愕した。女主人は、自分が実家に置き去りにしてきた妻の徳子であった。顔は青白く変色し、落ち窪んだ眼孔からぎょろりとした両目が聖太郎を睨んでいる。骨と皮ばかりにやせ細った手が幕を引きちぎった。
「長いあいだ、どちらへお隠れになっていたのです。方々を探し回りましたのよ」
聖太郎は悲鳴を上げると、その場に倒れ込み意識を失った。
聖太郎が目を覚ますと、館は煙のごとく消失し閑散とした荒れ野だけが横たわっていた。大慌てでその場を去った聖太郎は、祓い屋の本庄のもとへと転がり込むと一切の事情を説明し助けを乞うた。
「頼むよ、このままでは私は徳子の怨霊に呪い殺されてしまう。夕子も、徳子が道連れにしたに違いないのだ」
本庄は難しい顔で話を聞いていたが、やがて次のような助言を施した。
「たしか、徳子の実家は神社だったね。あそこはその土地でも特に名の知れたところと聞いている。明日から四十二日間、そこの本殿の中に籠り謹慎しなさい。本殿には御札を貼り付けておこう。徳子の霊が侵入しないようにするのだ。四十二日をそこで過ごすことができなければ、徳子の怨霊から逃れることはできないであろう」
聖太郎は本庄に云われるがまま、徳子の実家を訪れた。なぜか神主である徳子の父親の姿はなかったが、今さら顔を合わせるのも気が引けるので聖太郎としては都合が良かった。こっそりと本殿に入りこみ夜を待つ。月が夜空高くに昇った頃、聖太郎は戸をガタガタと揺らすような音で目が覚めた。風の仕業かと思われたが、音は次第に強まりついには地震のような激しい揺れが本殿を襲った。聖太郎が柱にしがみついていると、建物の外から低く呻くような声がした。
『聖太郎さま。どこに隠れていらっしゃるの。聖太郎さま』
聞き違うはずもない、徳子の声である。聖太郎は両の耳を手のひらで覆い、「帰れ、帰れ」とぶつぶつ呟いた。
『ああ、憎らしい。ここに御札が貼られているわ――ここにも。ここにも。ひどいではありませんか、聖太郎さま。どこに隠れてしまわれたのです。聖太郎さま、これでは幼児の好きなかくれんぼの遊びではありませんか。私、子どもの時分よりかくれんぼは不得意でしたのよ。私はいつも鬼ばかりで、日が暮れるまでみんなを見つけきることができませんでしたの。でも、ああ聖太郎さま。きっとあなたさまは見つけてさしあげますわ』
恨めしい声は、小一時間ほど夫の名を呼び続けたのち風に流されるようにして消え失せた。たった一晩が、ひどく長い時間に思われた。こんな夜を四十二回も繰り返すのかと、聖太郎は半ば絶望しかけていた。だが、徳子の霊に命を奪われるくらいなら耐えるほかないと心に決めた。
どんなに周りが忠告しても色事に耽るのを止められなかった男が、四十日以上ものあいだ埃臭い神殿に閉じ籠ることができたとは、聖太郎を知る誰に語っても信じてはもらえぬだろう。だが、彼はついに四十二日目の夜を迎えた。白々とした月光が神社一帯を照らし、神秘的な風情が漂う晩であった。
「いよいよだ。今夜を乗り切ることができれば、徳子の怨霊から解放されるのだ。あと一晩、あと一晩の辛抱だ」
頭髪は縮れ頬もすっかりこけ、かつての美貌はどこかへ置き忘れたかのよう。それでも、聖太郎は生への執着を手放してはいなかった。刻一刻と、夜明けの時は近づきつつあった。
いつの間にか気を失っていた聖太郎が、ふと目を開くと建物の中に細い光の筋が差し込んでいた。はっと飛び起き、戸口に駆け寄る。格子から見える外の光景はうっすら白く染まり、鳥の泣き声は夜明けを知らせる合図であった。
「朝だ! とうとう四十二日目の夜が明けたのだ。これで私は自由の身だ」
格子の隙間に手を入れて、戸口の鍵を自ら解除する。両開きの戸を思い切り開け放った聖太郎は、だがそこに信じられない景色を目の当たりにした。あたりは暗幕を垂れたように真っ暗で、空に燦然と輝く月が唯一の光源だ。鳥のさえずりはふくろうの声であり、夜明けでないことは一目瞭然であった。
聖太郎が愕然と立ちすくんでいると、ザク、ザク――と枯葉を踏む音がする。
『み、い、つ、け、た』
男の絶叫が夜闇を切り裂き、神社の外で待機していた本庄のもとへ伝わった。
本庄が駆けつけると、本殿の戸は開け放たれていた。階段のところには人間の亡骸が転がっているが、それには頭部が欠けていた。鎌のようなもので切り落とされたのか、生々しい肉の断面が月明かりを受けてぎらぎらしている。血痕のようなものが、階段から砂利道にかけて軌跡のように点々と残されていた。
「ちゃんと見つけられたみたいだね」
祓い屋は独り言ちると、用意した大きな袋に首のない遺体を投げ込んだ。ずしりと重いそれを大儀そうに背負い、
「これはしっかり隠さないとな。警察とのかくれんぼでは絶対に見つからないように」
口笛を吹きながら、砂利道を引き返す。ほの白い月に薄雲が差し、祓い屋の姿は闇に覆われた。魔物を呼び寄せるような怪しい旋律と砂利を踏む軽快な音だけが、夜の帳に鳴り響いていた。
聖太郎が行方不明になったその日、妻の徳子もまた忽然と姿を消した。二人の行方は杳として知れないままだが、風の噂によれば夫婦は和睦し遥か遠い外国へ旅立ったのではないかと囁かれている。