後日談 1
後日談
六日も眠っていたなんてびっくりした。
私の目が覚めて一番最初に見たのは、いつも見ている自室の天井だった。記憶に新しい物事が、夢だったような感覚になった。
ベッドから起き上がると、すぐ隣にいた母が驚愕し、そして涙を流しながら私を抱き締めた。母は私を離すと、凄い勢いで退室した。どうしたのだろうと疑問に思いながら少し待っていると、母は父を連れて戻ってきた。食器の片付けをしていたそうだ。父は満面に嬉し泣きを浮かべながら、私をぎゅっと抱擁した。
母は、私が眠っている間ずっと看病してくれた上に、私が覚醒するのを今か今かと待ってくれていたそうだ。
父は、仕事に集中できなくなるくらい私を心配してくれていたみたい。私が眠っていた最初の三日間は、仕事を休んで傍にいてくれたと聞かされた。
それらを聞いて、私は両親に抱きついた。両親に隠し事をしているけれど、それでも私は愛されているんだとわかった。それに対しての、稚拙だけれど純粋な感謝の意思表示だった。
両親の気が落ち着いてから、私は自分が憶えている最後の日からの経緯を尋ねた。
ソミアから帰りが遅くなると連絡があったが、翌日になっても帰って来ず、とうとうその日のうちに娘が帰ってくることはなかった。そのまた翌日、痺れを切らした両親は警察に捜索願を提出するために家を出ようとした時、一人の少年が訪問してきた。その見ず知らずの少年はなぜか愛娘を抱えていた。少年によると、しばらくは起きないが健康面では問題はないと言った。娘が送り届けられた日から数えて六日後の夜、つまり今日にやっとソミアが目を覚ましたんだそうだ。
両親の口からから少年という単語が出てきて、思わず慌ててその少年の人相を訪ねてみると、
「そうねぇ…。黒髪で、焦げ茶色の眼をしてる東洋系の、変わった格好の男の子よ。全身真っ黒の服を着てて、変なサングラスをかけてたわ」
「ちょっと表情を出さない子だったね。ずっとムスッとしていて、声も普通すぎるくらい落ち着いてたよ。ああ、でも英語は上手だったな」
私の予想していた人の印象が返ってきた。自分が知らないところで世話になっていたのを聞いて、少し恥ずかしくなったり、感謝したりした。
目が覚めた日は軽い物を食べた。経管栄養を手配してもらっていたので昏睡している間の体の健康面はなんとかなっていたけど、何も口にしていなかったのは違わないので、ご飯はおいしく食べられた。
食事が終わると、なんだかどっと疲れが湧いてきた。一週間近くもベッドで横になっていたから、体の筋力が多少落ちていたみたいだった。まだ目を覚ましたばかりだったこともあり、体も疲れてしまったのかもしれない。この日は食事を済まして早々に体を休めた。
次の日、午前中のうちに病院に行って検査してもらったが、幸いにも何の問題もなかった。どうやら身体的および精神的な過労が原因だったらしい。
家を出たのが早い時間ではなかったせいか、帰宅した頃には正午へ差し掛かる時刻になっていた。
検査結果に安心した母が朝食を作ってくれている間、暇潰しのつもりでダイニングに据えられてあるテレビの電源を入れた。いつもはクイズ番組やトーク番組を観ているけど、普段見るはずもないこの時間では自分の知らない番組ばかりが映されていた。仕方がないので、今まで眠っていた分のニュースを身につけておこうと思って、ニュースを報道しているチャンネルに回した。
テレビに映った物に、私は愕然とした。
町の様子を生中継で映しているようだが、そこに映っているのは廃墟のように崩壊した建物だった。もともと中心都市としても機能していそうなくらい大きな建造物を抱えていた街が、今では瓦礫に埋もれそうになっている。私はこんなひどい光景が今現在存在すると思うと、やりきれない思いに駆られてしまう。
一体どこの街なのかと思って、画面の端に載っていそうな街の名前を探して、それを見つけた。
街の名前を呼んだ直後、目を疑った。
幸いにも街の名前が書いてあったが、それは自分が通っている学校がある街の名前と一緒だった。
画面にリポーターが現れ、見た目の雰囲気を悲惨そうに説明したり、現地の人にインタビューをして生の声を聞いていたりしている。耳を傾けていると、水道こそ無事なもののまだ電気が断裂している地区も多く、復旧の目処が立っていないこと、現地の人は懸命に復興作業を続けており、他の地域からも医療や配給のボランティアなどの援助が来ているが、いずれも芳しくない状態だということを必死で伝えていた。
“あの人”が止めようとしてくれていたけど、こうなってしまったのだろうか。
でも、と考えを改める。街をこんなにしてしまうほどの驚異へ“あの人”は一人立ち向かっていったのだ。結果はどうあれ、その姿勢は讃えるべきだろう。
テレビ画面に映し出された光景に釘付けだった視線から一人の人物のことを考えていると、母に「そういえば」と声をかけられた。
「友達には電話した?やっと目を覚ましたんだから、連絡してあげなさいな。きっと待ってるわよ」
言われてから、私ははっとした。みんなには悪いけど、すっかり忘れていた。自分の感覚では一日しか経っていないのだが、本当は一週間も時間が流れていたのだ。また、普段は昼間に電話することも時々だし、するとしても自分から電話することはほとんどなかったから、自分から電話するという感覚が今一つなかった。
すぐに電話しようと即決して自室に行こうとして、すぐに足を止めた。
これも忘れていたが、私はあの日、放火魔に襲われそうになった時、鞄も携帯端末も剥ぎ取られていた。友達に連絡したくても、連絡手段が今の手元にはない。
その旨を、大事の所は省いて、紛失したことだけを母に伝えると、首を傾げられた。
何かおかしいことを言ったのかと疑問に思い、その視線を返すと、母はさらに首を傾げた。
「ソミアが嘘なんかつかないとは思うんだけど、じゃあなんでなくした鞄が部屋にあるのかしら、って思って…」
母の返事を聞いた私は、一度止めた足を勢いよく再始動させた。
どうして、と心の中で何度も疑問を反芻した。
あの日の夜、私は確かに紛失したはずだった。
喪失感を味わった。信頼していたものをなくした悲しさを味わった。
喪失感を抱えた時、“あの人”が紛失したのと同じ物を買い揃えようとしてくれた。
全部、嘘なんかじゃないのに、どうして。
私は自らへかけた問いに答えをあてがうため、自室を空けた。
本の多い、見慣れた雰囲気。毎日見ているであろう自分の分身とも呼べる空間を、私は注意深く視線を配った。
そして、私の机の上にあるそれを発見した。
取っ手の付いた、手提げの鞄。
あの日、あの人に助けられた引き替えに紛失してしまった自分の鞄が、そこにあった。
中身は何一つ変わらず、剥ぎ取られた携帯端末も一緒に入っていた。改めて買い直した新品ではなく、自分が使い古した状態のままでもあった。
どうやって見つけたのかは分からないが、届けてくれた人に感謝した。…いや、おそらく“あの人”なんだろうけど。
まだ現実を受け入れられないのか、何となくおっかなびっくり端末を開いてみると、十数件の受信メールが保存されていた。日付は端末を紛失した日の翌日が中心で、両親は勿論、ジャスミン、ローレンス、アナリアの三人からも届いていた。
メールの文面を読んで、三人ともそれぞれなりに心配してくれていた。私は感謝の気持ちも込めて、自分が起きたことと体調も大丈夫なことをメールで知らせた。まだ昼間だし、忙しかったら悪いし。
すると、すぐに電話がかかってきた。今は授業中なはずなんだけど…と思いながら通話させると、電話口からジャスミンの声が聞こえてきた。親友の声を聞いただけで、とても安心してしまった。
多少の時間差がありつつもローレンスとアナリアからも電話がかかってきたので、ミーティングモードで複数通話状態にして全員の声が聞こえるようにした。三人から心配してくれている言葉をもらい、私は大丈夫なことと、しかし今日は学校は休むことを伝えた。両親から今日くらいは学校を休むように言われたからだ。
私の病欠を伝えると、受話部分から三人分のくすくすという笑い声が聞こえてきた。おかしいんだけど本当は笑っちゃいけない、みたいな笑い方かな?
聞いてみると、どうやら学校が大破して授業どころじゃないらしく、崩壊の心配がないくらい修復するまで臨時休校の形を取っているらしかった。どれくらい壊されているのかは、昼のニュースを見ていた自分にはすぐに推測できた。確かに、学校がやってないのに欠席することを伝えてもおかしいだけだ。
三人からおちょくられたあと、ジャスミンは外出できるかどうかを尋ねてきた。私はダイニングに降りて、昼食の盛りつけをしていた母に友達と遊びに行ってもいいか訊いた。母はちょっと驚いた表情をしたが、私がそんなに真剣に頼んでいたせいか、困りながらも了承してくれた。ただし、夜遅くまでいないことと、そんなに遠くまで行かないことを条件に出された。
母親が驚いた顔をしたのは、たぶん、知っていたからだと思う。
少し前までの私に友達がいなかったことを。
自分に身近で、寄り添ってくれる同年代の人間がいなかったということを。
だから、友達を大切にしたいという私の気持ちを悟って、外出を許してくれたんだと思う。
条件付きで外出してもいいことをジャスミン達に教えると、今日の放課後の時間に、また商店街へ行こうと提案してくれた。私の復活祝いだそうだ。商店街の様子を思い出しながら、飲食店が経営されているのかどうか心配になって聞くと、最近になってようやく修復を終えた店がちらほらあるらしい。復興の邪魔になってしまうんじゃないかと心配を隠しきれない返事をしてみたら、経済発展への貢献とか若さという名の活気の散布とかいうよくわからない難しいことを言われて、なんだか心配する気がなくなってしまった。
友達に会えると決まり、私はちょっと声が弾んでしまうのを隠しながら、夕方に商店街への入り口で待ち合わせをした。
母が作ってくれた昼食を食べ終えてから、私は外出の支度を始めた。
待ち合わせの時間はまだまだ先だ。今から行っても待つ時間が長くなるだけだろう。
だけど、私は早くあの街に行きたかった。
何かをするわけじゃない。復興の手伝いをしようにも、瓦礫がまだ散乱しているという現場に非力な自分は力不足だろう。
復興の手伝いをするつもりじゃないから変な理由だけど、どうしても今から行きたかった。
赴きたいのは、あの街の凶状を知ったからかもしれない。たくさんの建物が崩壊し、街の機能が激減した光景に胸を打たれたせいの衝動かもしれない。
そんな状況を知って、関係ないことだとは思えなかった。私だってあの街にはたくさんお世話になっていて、思い出もある。なのに、こんな時だけ家で遠目に見ているのが申し訳なく思えた。
また、街をそんなふうにしてしまった人、そんなふうになるのを防ごうとした人、両方の立場の人を知っている自分にとって、街の光景が無関係なもののように思えなかった。
行っても何もできないと思う。でも、なぜか行ったほうがいいような気がしたのだ。そう決めて、今準備をしている。
動きやすい服装を選び、でも帰りは日没かそれを過ぎた頃になるだろうから防寒対策もして、自宅を後にした。
いつも学校に通うように電車を使って目的地まで向かった。さすがに地下を通るだけあって、電車はちゃんと機能しているようだった。線路はすべて地下を通っているから影響を受けなかったようだ。
いつもの駅のホームに降り立つと、そこは予想よりも駅舎への破損の痕跡は少なかった。被害の中心地より離れているからだろうか。…いや、細部までよく見れば、所々に亀裂が走っていた。ガラスも取り替えたらしい、不自然に真新しい物が填められている。一箇所に気付くと、全体的にも亀裂が走っていることにも気付いた。
駅を出て、商店街までバスを利用しようと考えていた。町の様子をじっくり見ていきたいところだけど、それだと徒歩では幾ばくか遠い。ターミナルで待っていると、大型の車両が到着した。しかし、いつも見ているバスとは色も形も異なっている。なんだか、こう、ちょっと言い方が悪いけど安そうなものに変わっていた。同じバスに乗ろうとしていた人に訊いてみると、前まで使っていたバスはこの間街と一緒に壊れてしまったんだそうだ。同情をかけるように話すその人の様子を見て、私は今回の被害の大きさを改めて意識した。
商店街の入り口に降り立つと、被害の度合いが酷くなっていた。建物の窓ガラスは砕けていて、張り直されている所は多くなかった。まだ物が散乱しているし、足下の舗装も罅が入っていたり剥がれていたりしていた。中には半壊、あるいは全壊している建物もあり、瓦礫の撤去作業が大変そうだった。
街の人たちの殆どは、どこかしらを怪我していた。火傷している人もいれば骨折している人もいた。刺し傷や切り傷で済んだ人もいれば、下半身が麻痺してしまった人もいた。
でも、みんなの顔に絶望感はなかった。
どうしてこんな状況で晴れ晴れとした顔でいられるのだろう。
誰も彼も、今までないような歓喜を抱いているように感じた。
それが疑問となり、しばらく当てもなく歩いた。
政府が改革でもしたのだろうか。それとも、この街からノーベル賞受賞者が生まれたのだろうか。
歩きながらずっと考えているが、理由が思いつかなかった。
首を捻りたくなる気分でいると、目の前に瓦礫の山が道を塞いでいた。すぐ横に見える建物の、瓦礫の山らしい。これでは前に進めない。周囲を見回すと、他の人たちも目の前の小山に迷惑しているようだった。一週間もすれば除去隊が派遣されて道を空けていそうなのだが、ここにはまだ行き届いていないらしかった。
仕方ないので、来た道を戻ろうと踵を返そうとした。
瓦礫の向こう側からタンクトップの男の人が現れて、すぐに離れるように大声で言ってきた。どうやらリーダーのような人だったらしく、撤去作業をしていた人達はその指示に素直に従い、全員が距離を取った。
急に人垣ができて見えなくなってしまった私は、近くに積み重ねられていた瓦礫の山によじ登って人垣の向こうの光景を眺めた。
次の瞬間、瓦礫の山が融解し始めた。鼠色の表面は赤く染まり湯気を上げて液状になった瓦礫は表面張力で地面と接する面積を広げることなく、その場でそれ同士を結合させていく。一分も経たないうちに赤く熱せられていた外見は元の鼠色に戻り、湯気も引いていた。気付けば、山積みになっていた無数の瓦礫は一つの巨大な塊になった。
それだけでも仰天なのに、今度はその塊が轟音を立てながら地面から離れ始めた。密着していた真下のコンクリートを一緒に引きちぎりながら、その巨体が上がっていく。誰もが口をぽかんと空けている間に、巨大な塊はまるで投擲でもするかのような低い軌道を描いて宙を飛び、私からさらに向こう側にある交差点のほぼ中心へ落下した。
これで道が通れるようになった。
通れるようになったが、誰も動こうとしなかった。
いや、動けなかった。その光景を目の当たりにしていた人達全員が目を丸くしていた。
私は、口が半開きになってしまったのは抑えられなかったけど、他の人とは違うところがあった。
こんなことをした人物に、心当たりがあった。
こんなことができるのは、きっと彼しかいないはずだった。
そう思った直後に、辺り一面から歓声が上がった。
「やったあ! これで通れるようになったぞ!」
「すげぇ…! あの瓦礫の山が、一瞬で…!」
「やるねぇ、あんた! 助かったよ!」
人垣の反対側に、いつの間にか人の輪ができていた。誰かを囲んでいるようだ。
遠くからではよく見えなかったので、人の輪を裂いて中心に入っていった。…つもりだったのだが、人の壁の厚みが厚すぎて中心に行くことができず、いつの間にか輪の外へ弾き出されていた。
きっと、この人垣の向こうに彼がいるんだと思う。でも、どうしてか繋がりそうもないように思えた。
できればもう一度会いたいのは本当だ。でも、輪の中と外が別々で、決して交わらないように思えた。
方や、人の中心に位置して多くの感謝を受け取っている人。
方や、人の中心にいる人を遠目に眺めている自分。
たぶん、あの日を最後に彼とは会えないのだと思った。私と彼は生きている世界が違うのだから。
私は人垣から離れて、そこから両手を組んで向こうにいるであろう“あの人”に祈った。
どうか、お元気で、と。
そう思って、諦めようとした時だった。
人垣を割って、中心にいた人が這い出てきた。
そして、偶然にも私のほうに歩を進めていた。
その人は、黒髪で、黄色の肌で、黒い服装で、片方だけのサングラスを掛けていて、腰に一振の刀を提げていた。
願いが届いたような気がして、嬉しかった。
もう一度、この人に遇えたから。
「オルパニルっ!」