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願う者 3


 まだ出勤時間に至っていないために建物内の電気が入っていなかった。エレベーターかエスカレーターを使えればより早く、より体力を浪費せずに上の階へ移動できただろうか、二人は仕方なく階段を利用することにした。

 オルパニルは一刻も早急に目的の場所まで移動したかったが、ソミアと共に移動しているために勝手な速度で進行することを控えていた。身体強化もせず、極力常人レベルの運動能力に引き下げるように努めていた。一方ソミアは、運動に慣れたオルパニルの階段の登り方に付いていけず、すでに息を上げていた。階段での足の運び方、呼吸の整え方、体のバランスの取り方など、細かいがオルパニルにとっては訂正させたい箇所がいくつも観察できるほどソミアの走り方は効率が悪かった。

 息を切らせながら必死で走るソミアは、普段から思っている自分の運動神経の鈍さを再度呪った。運動はお世辞にも得意といえる方ではなく、むしろ運動音痴だ。しかし、日常で交通機関も整備された今では、スポーツ選手や運送業などの体力が要求される職業に就くでもない限り大きな体力が必要にならない。体力が必要なもの、作業が単純なものは、作業用ロボットに依存しているのが現代だ。運動ができなくても大丈夫だと証言する周囲の人間にもいたことから、自分が運動音痴でも大して困ることはないだろうと高を括っていた。そう油断していた考え方が、ここで表立った。そう油断していた自分が腹正しかった。

 時間の節約、と表現すればいいのだろうか。目的の場所まで迅速に移動すること、ソミアが万一転倒でもして外傷を負い、余計な時間を費やさなければならないようなことがないように未然に防止すること、それらを両立するために、オルパニルは決行した。

 視界も霞むほど必死で足を動かしていたソミアは、階段の踊り場で自分を待っているオルパニルの姿を確認した。猛スピードで走る彼を見たことがあるからきっと手加減してくれていたんだろうけど、それでも速いことには変わりない。せめて少しでも足を引っ張ることはないようにと頑張っていたが、ようやくゴールだと安心して、残り少ない体力を振り絞って彼のもとまで走っていった。

 オルパニルの待つ踊り場まで到着する頃には、ソミアの体は体力的に限界に至っていた。膝に手をついて、肩で息をする。体中が酸素を求めて、横隔膜が活動を繰り返す。火照りすぎた体を冷やそうと、全身から汗が噴き出ている。呼吸のしすぎで喉が渇く。胸が痛い。眩暈がする。肩の上下が止まらない。そんな状態になっても、彼に追いつくことはできた。努力は実ったんだと思った。

 まだ姿勢を正せないソミアの肩に、オルパニルの手が載った。「よく頑張ったな」という言葉を期待して彼の顔を見ようとしたら、むりやりな力で後ろに仰け反らされた。バランスを取ろうとしても音痴な運動神経では体がいうことを訊かず、このまま倒れるしかないのだと諦めた時、足下が掬われた。

 両足が宙に浮き、もはや体のどこも地面に接していない。正面を向けば天井が見える。しかし体は地面に落ちていない。こんな状態って一体どういう状態なんだろうと自分で自分が分からなくなった。

「済まない。急ぎたい」

 オルパニルの声が正面やや右側から聞こえて、朦朧とした視線を向ければ彼の顔があった。

 意外に近づいた彼の顔と、背中と膝裏に回された彼の腕の感触が伝わってきて、ソミアは自分がいわゆるお姫様だっこの体勢で抱えられているということを自覚した。

 まだ息も整わず、呼吸も乱れっぱなし、心臓の鼓動の速さも収まらないままだったが、ソミアは伝えるだけ伝えた。

「す、すみ…ません。邪魔…して…ばっかりで………」

 切れ切れの呼吸で謝罪するのは失礼だと思うから、きっと彼は怒っているだろう。

「いや、良く頑張った」

 言うや否や、オルパニルは猛烈な速さで階段を上り始めた。最初に強く揺れたので、ソミアは拙い反射で彼の胸のあたりを掴んだ。オルパニルもその点に配慮し、歩数および跳躍する前と後との高低差を可能な限り少なくした。それ以降はさほど揺れることはなく、ソミアも安心して体力回復に専念することができた。

 まだ荒く息をしているソミアは、自分がいつの間にか彼の服を掴んでいることに気づいた。いつからそうしているのかは自覚がないが、この手を離すのはなんだか不安があった。コルドの仕事部屋でのことじゃないけど、離せばどこかへ行ってしまう、触れていればずっと傍にいてくれる、そんな錯覚があった。

 だから、ちょっといけないとは思いながらも、ソミアは掴む手の力を強めた。


 長い階段を上り、オルパニルはある階で足を止めた。だいぶ回復したソミアを降ろし、そのオフィスの中にためらいなく足を踏み入れる。

 オルパニルに続いて足を踏み入れたソミアは、オフィス内の様子を見ることができた。部屋中には机が整頓されて置かれてはいるが、紙類は散在し、誰かの飲みかけのコーヒーが入ったコップまである。細かく観察すれば、必要な情報と思しき媒体が整頓されてあったり、所によっては雑に保管されていた。普段は忙しそうな雰囲気が滲み出ているが、ここは何かの企業の物件らしい。営業専門かコンサルタント専門かだろうか。

「誰もいませんね…」

「早朝では居る訳が無い」

「えっ…今って、そんな時間なんですか?」

 朝の時間帯だとは思っていたが、それよりも早いとは思わなかった。

「平野で日の出を見なかったのか?」

「その時は、それどころじゃなかったですもん…」

「気温は?」

「このあたりの地域じゃ、朝が寒いのは当たり前ですから…」

「髭の伸びは?」

「私、女です…」

「女でも顎髭が伸びる者は居る」

「非該当です…」

 故意なのか過失なのか、オルパニルは冗談を真面目に言った。

「ところで、どうしてこの街に来たんですか? “一騒動”って言ってましたけど」

 ソミアが訊くと、オルパニルは要点だけを纏めて答えた。

「この街に、イギリス軍の工作部隊が侵入した。戦争を有利に進める為だ。イギリス軍は北アイルランド方面とアイルランド島南部の両極から攻撃するつもりでいる。その作戦を打破するべく、部隊と抗戦するのがこの街に来た目的だ」

 そう言って、オルパニルはその階の壁際まで歩いていった。

「…それは、さっきみたいに一組ずつ戦っていくんですか?」

「そんな細々とした事はしないし、やりたくもない。何より、面倒臭い。だからこうする」

 言うやいなや、オルパニルは右の拳で壁を殴った。すると、殴った箇所から壁が外側へ砕け散った。やがて損壊が周りの壁全体に及び、この階の壁だけが骨組みのみ残った開放的な場所となった。

 オルパニルは壁際(だった部屋の端)から離れると、部屋の中心で止まった。

「こっちへ来い」

 オルパニルがいきなり命令してきた。ソミアはその理由がよく分からないまま、言われた通り彼の傍に近寄った。

「暫くの間は余計に徘徊するな」

 オルパニルがそう言うと、刀を縦に構えた。さっきも見た、能力で移動する直前の構えだ。ソミアはそんな彼を見て、どこかへ移動するのかと思ったが、そうではなかった。

 オルパニルが能力を発揮すると、刀から霧が拡散し始めた。発生源から触れるほどの距離にいたオルパニルとソミアはたちまちその霧に身を隠された。とても濃厚な霧だった。手を動かして顔に近づけてみるが、目前にあるはずの自分の掌すらも見えない濃霧だった。

 とめどなく発生する濃霧はオルパニルによって突破された壁から溢れ、遂に街を包み始めた。容赦なく拡散してゆく濃霧は、住民も、兵士も、車も、兵器も、高層ビルでさえも飲み込んだ。窓を開けている部屋には霧が室内に侵入し、濃霧が満たされていった。

(目標範囲は半径三キロ)

 オルパニルは胸中で呟いた。

(人間は視覚を奪われると、手に入る情報が極端に激減し、周囲の状況が把握できなくなり、恐怖と不安に駆られ、その場に立ち竦む)

 街中は突然の事態に困惑し、より一層奇声が増えた。

(助けを求め、知人の名を叫ぶ者もいれば、半ば発狂状態に陥り、闇雲に動き回る。時間の経過に比例し、恐怖感は募る)

「オ、オルパニルっ! どこにいるの!?」

 ソミアが彼を呼んだ。予想通り、不安になったのだろう。

「先の場所から移動していなければ、同じ場所に居る。ソミアの左前だ」

 数分後、オルパニルの目標だった半径三キロ全域が彼の濃霧に満たされた。

 この霧は、ただ視覚を奪う為に発生させたのではない。通信手段を例外なく断絶させる機能も持つ。

 そして、これが最大の理由だが、この街に侵入した兵士を確実に全滅させるための下敷きでもあった。

 オルパニルは自分の右後ろにいるはずの、ソミアのほうへ手を伸ばした。腕一杯に伸ばした手をやや左右に振り、ようやくソミア本人を掴んで、そのまま引き寄せた。

「わっ、わっ?」

 ソミアは背中から強く引かれ、オルパニルの胸(だと思う場所)に密着した。自分の顔や身体で感じる彼の体温といい、背中から左腕にかけて感じる彼の感触といい、今の自分はオルパニルに抱き締められている態勢だということをソミアは実感した。

「オル、パニル…? むぐっ」

 彼の名を呼んだら、さらに引き寄せられた。ひえー…。

「俺の服を使って押さえ込んでも構わないから、呼吸を可能な限り殺せ。そして絶対に身動きを取るな」

 ソミアはオルパニルの注意の意味が全く分からなかった。彼の行動に付属する助言に対して疑問を持つが、一々「何故?」と尋ねている暇などなかった。

 自分から抱きつきに行くなんて途轍もなく恥ずかしいのだが、四の五の言って躊躇わずに、何とか羞恥心を隠して抱きついた。彼の言った通りに、彼の胸に自分の顔を埋めて、呼吸をできるだけ小さくする。オルパニルはさらにジャケットを脱いでソミアの頭に掛け、息が外に漏れないようにした。彼自身もジャケットの襟の部分で口を覆う。

「構えろ」

「…!」

 ソミアはオルパニルの胴に腕を回し、オルパニルは抱き締める腕の力を強めた。そして、オルパニルは刀を逆手に持ち直してから、床に突き刺して固定した。


     ※   ※   ※


 街に侵入した工作員達は、突然の奇妙な濃霧に立ち往生していた。その中の、工作員チームの指揮官を担っている隊長は、後ろにいるはずの仲間に声をかけた。

「おい! 何か変化はあったか!?」

 すると、向いていた後方から返事があった。

「駄目です! 通信手段は全て繋がりませんし、レーダーも機能するどころか、それを確認することも困難です!」

 本来なら、上官への報告は面と面で向き合って伝えなければならないのだが、見えない時に動くと色々と混乱するので、今は遠方からの大声による報告を許可していた。

「どうしましょう? これでは遂行予定時間を越えてしまいますが」

「そうだな…。確かに目が使えないっていうのは不便だが、俺たちにとってはそんなに障害にはならないさ」

「…と、言いますと?」

「考えてみろ。俺達の最終目標は、“この街の占領事実を明確にすること”だ。あとから続いてくる味方軍の道を空けておくっていうのが最優先任務だが、それだけじゃ足りないのさ。万一ことあと失敗するようなことが起きても、この地域の占領事実さえ作っておけば、今後この地域は俺たちイギリス軍のものってわけだ。敵を屈服させるには根拠がいるからな。俺達はその材料集めをしてるんだよ」

「あ、それはつまり…」

「そうだな。どんな方法であれ、この街を陥落させればいいだけの話なんだ。だから、見えないのなら、俺達なりの手段を使うまでさ」

「分かりました。では、すぐに準備に移ります」

「…って、戦車の中は見えるのか?」

「いいえ、かろうじて見えるだけです。ですが、もう何年も乗っていますから、どこに何があるのかぐらいなら、勘と手探りで分かります」

「それは凄いな」

「ありがとうございます!」

 その言葉で、会話は終わった。さっきの部下が戦車の中に戻り、仲間に指示を出しているのが聞こえた。

「…無意味に思える訓練も、こんな時に役に立ってしまうんだな」

 隊長は誰にも聞こえない音量でぽつりと独り言を漏らした。

 やがて、戦車チームから報告が来た。

「隊長! 砲撃の準備、全て完了いたしました!」

「分かった、ご苦労。センサーに頼らないで、手動でいけるか?」

「狙い撃ちは無理ですが、遠くを撃つだけなら可能です!」

「よし。―――全員その場を動かずに、衝撃に備えろっ!」

 砲撃手が砲身を操作し、方向と傾きを決める。

「調整完了!」

 砲撃手が発射のトリガーに指をかけた。


     ※   ※   ※


「―――滞れ」


     ※   ※   ※


「よーし、撃てぇ!」

 隊長の命令に従い、砲撃手はトリガーを押した。空気中のあらゆる粒子に荷電して一点に集束させ、電磁気の反発力で弾くことで発射する『集束粒子砲』を放った。『阻格者(チェッカー)』の主砲の小型版なのだが、兵士達はその兵器の存在を知らない。

 空気を裂き、照準先に向かって一直線に進み、着弾した物を粉々に粉砕する、驚異の殺人兵器。その砲弾は、視界の利かない濃霧の中を突き進み、どこかへ行ってしまった。

 隊長は、十秒ほど経過しても何の爆発音も起きないことに疑問を持った。

「なんだっ! どうした!?」

 部下に尋ねると、耳を疑いたくなるような返事が返ってきた。

「分かりません! 急に消滅したみたいて…原因不明です!」

「そんな…!」

 隊長は自分にとっての前方を眺めた。一点の曇りも見当たらない純白の濃霧は微塵も揺れ動くことがない。だが、よく目を凝らすと、顔の前を何かが掠っている。見えはしないが、霧が動いていた。

「何があったんだ…? 何が、いるんだ…?」

 予想外どころか、粒子砲弾が消滅するという前代未聞の事態に、不安が過ぎった。

 この作戦の途中は問題など無かった。島に上陸する時は兵器の密輸ルートを使って問題なかったし、街に侵入する際は上層部から指示された通りに従事して無事に国境を越えたし、本番になって街を奇襲し始めても住民は突然の武力に為す術もなく逃げ惑うばかりで、抵抗の反撃など恐れることもなかった。

 だが、今になってこれは何だ。

 先刻、兵士数名と連絡が取れなくなっただけでなく、ロボット兵も一体が撃退されている。そして今はこの状況だ。奇妙な点が多すぎる。

(それに、何だ、この…顔を掠っている物は?)

 先程からずっとこの不気味な現象が目と鼻の先で続いている。

 虫でもいるのだろうか。

 試しに、何気なく、顔の前の空間を片手で軽く払った。

 一呼吸置いて、霧が薙いだと同時に腕の感触が無くなった。

「っっ!」

 小さな抵抗のあとに伝わる違和感。

 見なくとも、感じる。

 腕が無くなっていた。

「うあああああああああああああああああ!」

 隊長は肺に入ってある空気を全部絞り出して、大きな絶叫を上げた。

 直後、出した空気と同量の空気が無理矢理肺に戻り、隊長の歯、声帯、気管を裂き、急激に入り込んだせいで肺が破裂した。身体の内部が傷付けられ、出血し、それを異物と見なした身体が反射的にそれを体外へ押しだし、隊長は最終的に吐血する形を取らされた。内側から襲う激痛と気分の悪さに、身体を屈ませる。隊長の上半身は、粒子のような微細な物に切り裂かれ、原形すらも判別できなくなった。

「隊長! どうされましたか!?」

 動作を指令する頭部を失った隊長の下半身は、仰け反り、そして切り裂かれてバラバラになった。

 兵士が戦車のハッチを開いた時に、丁度隊長の下半身が切り裂かれる音を聞いた。

「なっ!?」

 そして、外へ出るために上へ移動してハッチを開けたその兵士は、頭上から強大な圧力を受け、上半身が下半身に向かって陥没した。その兵士は無論、即死した。

 戦車の中にいた他の戦車チームメンバーは、霞む視界の中で見えた仲間の無惨な死に様に戦慄し、そして同量の憤怒が湧き上がった。

「どこだあ! 誰がジェイクを殺したあ!?」

 兵士の一人が操縦席に座り、別の一人がターレットに座った。制止させていた戦車を発進させ、同時に街を破壊しようと砲身を動かす。






 数秒後、戦車は内装を赤黒く染めたガラクタになっていた。




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