真実の代言者 6
「あ…」
私の胸に不思議な痛みが広がった。
悲しいはずはない。恐怖の原因が、自分の目の前で…そう、目の前で、いなくなったのだ。
なのに、何だろう、この喪失感は。記憶のせいだろうか、持つはずのない感情が湧き上がってくる。偽りの記憶でも、彼といた時間が、彼といたことで生まれた気持ちが、とても、かけがえのないもののような気がして。それらを、一気に、なくしてしまったような…。
膝に何かがこぼれた。何かと思って見たら、自分の涙だった。
さっきまで泣いてはいたけど、どうして今も涙が出るの?
なんで涙が出てくるの?
私は何を悲しんでるの?
なんで…。
「ハハハハハハ! 無様だな! 弱いな! 威勢を張ってきて、結局はこの様かぁ!」
コルドは歓喜を抑えきれず、一人で大笑いしていた。さっきの穏やかな雰囲気がまるで嘘のようだ。
「今まで何度も俺を捕まえようとした奴は何人もいたさ。だがどいつもこいつも失敗した。なぜだと思う? ―――てめえみたいに死んでいったからなんだよ! ハハハハ!」
今まで狙っていた人が自分の手によって葬ることができた悦びというのは、高笑いしたくなるほど嬉しいらしい。彼を見ていれば誰が見ても分かる。達成感に満ちたその表情は不幸の影も見られない。
でも。
コルドはどうしてそんなことを言えるのか。どうしてこんなことができるのか。どうして人の死を嘲笑うことができるのか。
コルドの話が本当だとして、“彼”がとても危険な存在だとしても、人が死んだのにそれを喜ぶコルドの精神が理解できなかった。
私は目の前で人が死んだことに悲しみを、目の前で人を殺したことに憎しみを抱いた。
「…ひどい」
口から思いが零れた。
「ここまでする必要なんかないじゃないですか! ただ捕まえるだけでいいはずなのに、なんで殺したんですか! 私達のイエス様はこんなことを望んでなんかいません! 罪人であろうと、死をもって報いるなんて許されないことです! あなたがやったことは、イエス様が唱える人道主義に逆らっているじゃないですか! 最低です!」
一気に罵倒する。今の私には怒りに満ちている。怒りに載って、罵詈雑言が溢れてくる。
どうしてこんなに起こりたいのか、どうしてこんなに悲しくなるのか、私自身にも分からない。理由なんて分からないけど、コルドに反抗したい気持ちでいっぱいだった。コルドを否定しなければならない気がした。そうじゃないと自分自身を止められなかった。この気持ち悪い不快感を抑えるなんて自信がない。この言いようのないやるせなさを無視するなんてできない。
もしかしたら、植えつけられた記憶せいかもしれない。記憶の中の“彼”を失って悲しいだけなのかもしれない。偽りの記憶なのに、私はその中で“彼”を恩人に思っていたから、喪失感を感じているのかもしれない。恩人だと思っていた“彼”を目の前で殺されたから、だからコルドに怒りを感じているだけかもしれない。
コルドも、“彼”も、どうしてこんなひどいことをするのか理解できなかった。
もう、自分の感情に支配されるしかなかった。
「なんだと、クソガキ…!」
コルドは手元のリモコンを押すと、私の手首と足首がそれら同士で引きつけ合い始めた。今気づけば、“彼”の両腕に巻き付いた物と自分のそれとは相違ない代物だ。磁力によって同士を引きつけ合うという同じ効果を持っていた。
コルドは私に歩み寄り、いきなり平手で殴ってきた。乾いた音が部屋に響く。急な出来事と激痛に呆然としかけている私に構わず、今度は胸ぐらを掴んできた。
「誰に向かって言ってやがる? てめぇなんざ、すぐにでも殺せるんだぜ。知らねぇか忘れてんだろうが、ここはアイルランドだ。俺はカトリックで、てめぇはプロテスタント。消えたって俺が困るこたぁねえ」
コルドは大きく息を吸うと、息と一緒に吐き捨てた。
「てめぇのようなヤツらはいつもいつも邪魔なんだよ! 生きていようがいまいが何の意味もねぇくせに、偉そうに批判や美辞麗句をダラダラと並べやがって! 口先だけが立派な無駄の塊だろうが! 一人じゃ何一つ充分にできやしねぇムシケラの分際が、いい気になってんじゃねぇ!!」
「っ!」
私は言葉を失った。失ってしまった。
生きていても、生きていなくても、同じ。
いても、何の役にも立っていない。
いなくても、変わらない。
残酷な一言が、自分の頭の中で何度も何度も反芻されていた。何度も何度も突き刺さってきた。
心理的にも不安定な年代の人間にとっては拷問と変わらない言葉だった。
「うっ…うくっ…」
事実を明確にされた悲しさや言い返せない悔しさが込み上げてきて、涙となって溢れた。
自分は子供であり、何か重要な立場にあるわけじゃない。成績が良くても、それだけのことで、尊重されるような実質でもない。今の私はなんの変哲もない、ただの子供だ。社会に役目を貰っているわけでも、役立っているわけでもない、一人の人間。両親や、友達や、先生や、その他の色々な人に迷惑を掛けてばかりで、そのくせ何もしていない、ちっぽけな存在。
そうか、だからなんだ。
いなくてもいい人間だから、コルドも、“彼”も、私にひどいことができるんだ。
ひどいことをしても何の影響も出さないから、私っていう存在を無視できるんだ。
私なんか、いなくたっていいんだ…。
「誰がそんな事を決めた?」
私の否定思考を否定するような、そんな男性の声がどこかから聞こえた。
コルドのものかと振り向いたが、彼も急に出た声に驚いていた。この部屋には、彼の他に男性は見当たらない。
「生きている意味が無いなどと、誰が決めた? 存在が矮小だと、誰が断った? 自分一人で生きられない者は弱者であり邪魔な存在だと、誰が定めた?」
まさか…。
まだ煙幕の漂う隔離壁の向こうを見やった。そんなことない。そうであってほしい。冷静な現実視と小さな希望を持ちながら、凝視していた。
「それは、単なる傲慢な弱肉強食主義だ」
言葉が終わった直後、煙が充満していた、隔離壁の向こう側の空間に、旋風が吹き荒れた。時間が経つと共に、煙も薄らいでいく。煙が出入り口の向こうに流されていった分、部屋全体がよく見えるようになっていく。
「「!?」」
私も、コルドまでも、驚愕した。
そこには、本当に目を疑いたくなるような、奇妙な光景があった。
銃弾が止まっている。
“彼”を覆い隠しているほどの銃弾が、止まっている。
“彼”は両腕を封じられた状態のままだ。その“彼”の、数十センチ前で、“彼”の体を貫くでもなく、外しているでもなく、何百何千という数の銃弾が“彼”を取り囲むように止まっている。
「これからの未来を創世する若人は、とても大切な存在だ」
磁力によって磔にされ、弾雨に包囲されている“彼”は、諭すように声を響かせた。
「それを…」
“彼”の能力を受けたのか、停止していた銃弾が機関銃のほうに向かって飛んだ。本来持っていた、秒速九百八十四メートルの速度のままで、それぞれが来た道を戻るように飛ぶ。空気を裂き、銃身へ戻り、薬室へ戻り、その場所を叩く。銃身が砕けようと銃弾は止まらず、金属が砕ける音が鳴り響く。
「“虫螻”と切り捨ててくれるな!」
“彼”の腕に巻き付いていた腕輪が、乾いた音を立てて外れた。拘束する機能を失った腕輪は両側の壁に引き付けられ、勢いでぶつかって壁にめり込んだ。
コルドを見る“彼”は、今までの無表情さからは想像もできないほどに激怒していた。
「そんな、バカな…」
さっきまで歓喜に歪んでいたコルドの表情は、目前で起きたことが信じられないと言いそうなほど青ざめていた。
身動きを封じる物が無くなった“彼”は、隔離壁へ前進する。
「てめぇは…情報じゃ、両手を封じられたら力を使えねぇはずだろ…」
コルドが呟いている間に、“彼”は隔離壁の前に到着した。携える刀を真横に固定し、握っている左手を引き、右手を刀身に添え、態勢を低くして構えた。【突き】の構えだ。
そこまで“彼”が動いたのを見て、コルドがはっと気を取り戻した。
「な、何をやったって無駄だ! 厚さ六十センチのポリカーボネート積層だ! そんなナマクラでこの壁は破れねぇっ!」
“彼”は聞かずに、気を集中させ、一気に刀を突き出した。
繰り出された刀は隔離壁を、貫けなかった。切っ先の数ミリだけが突き刺さっている。
「…へっ」
結果を見たコルドは、またも余裕に歪んだ侮蔑の表情を見せた。
「だから言ったろうがよっ! てめぇにその壁は壊せねぇ! お前の侵入に気付いた俺の部下がもうすぐ応援にここへ到着する! その時がてめぇの最期だっ!」
未来の予言を聞かされた“彼”は、それでも全く動じていなかった。
突き出した刀身を、空いていた右手で滑らすようになぞった。
「―――拉げ」
“彼”が唱えるように一言漏らした直後、乾いた音を立てて、隔離壁全体に蜘蛛の巣状に亀裂が走った。そしてその壁をじっくり観察する時間も与えられぬまま、隔離壁は粉々に崩れ落ちた。ガラスの欠片に室内灯の光が反射して、キラキラと輝いていた。光の粒が降り注いでいるようなその光景は、元の原料からは想像し難いくらいに美しくもあった。
崩れる音が止んだ時には、部屋の真ん中を横切る、ガラスでできた小さな山脈ができあがっていた。
透明度の高い物質が砕けた山は、表面のなめらかさや凹凸に対応して光を取り込んだり乱反射したりしている。輝くそれは宝石の山のようにも見えた。
“彼”はその山に対して何の感情も向けず、ただ踏みつけて突破した。
「動くなぁ!!」
いつの間にか、座らせられている私を盾に、コルドが立っていた。
「動くな! 動くんじゃねぇぞ! 動いたらこのガキの頭を吹っ飛ばすっ!!」
コルドは恐怖と焦燥が混じらせながら吼えた。手に握られた拳銃は私の頭を狙っていた。空いている反対の手は私の髪を鷲掴みにしている。
髪を引っ張られる痛みに耐えながら、頭に突きつけられた拳銃に私は震えた。コルドが指を少し動かすだけで私は死んでしまう。私は、ここで命を終わらせてしまう。
「てめぇの目的は俺の処刑と、こいつの救助だろう! なら話は簡単だ! こいつを死なせたくねぇのなら言うことを聞きやがれ!」
コルドは半分発狂しているらしく、顔も真っ赤だった。数十分前までの沈着さは欠片もない。
一方的な要求を突きつけられた“彼”は、それでも落ち着いていた。
「人質に頼り、また逃げるか。…みっともない」
「黙れっ! 逃げ回ってんのはてめぇも同じだろうが! その上、世界の情勢には直接関与しねぇくせに、世界平和っつー大義名分を盾に大罪を犯しまくってんじゃねぇか! 本当の危険因子はてめぇらのほうだ!」
コルドは彼の素行に対して反論するが、“彼”はそれに対して反論する。
「死刑以外に更正手段が無い虫螻がほざくな」
私に突きつけられている銃口が、より強く押しつけられた。
「てめえ…いい加減にしねえと、本気でこいつを撃つぞ!」
人質を取られた“彼”は、
「Go ahead, make my day.」
まったく動じていなかった。
要求にはソミアの命も懸かっているというのに、これじゃあ売り言葉に買い言葉だった。
それもそのはずだ。“彼”は絶対的な自信を持っているのだから。
「動くなと言うのなら、」
コルドの唯一の失敗は、
「ここから貴様を殺す!」
“彼”をまだ人間扱いしていることだった。
コルドは“彼”と目が合い、妙な眩しさを感じて瞬きをした。
「…!?」
次に目を開けた時には、別の光景が広がっていた。
一面に広がっているのは、黒。部屋にあったものは何一つ無く、“奴”も、すぐ目の前にいた小娘もいない。自分の姿は辛うじて見えて、拳銃の重みは手に感じるが、僅かな明暗も区別が無く、壁と床の境目ですら見えない。
そもそも、壁と床という物があるのかも判らない。
自分の部屋はどこだ? 俺はどうしてこんな所にいる? 奴はどこだ? 出口はどこだ? 俺はどうやってここに来たんだ? ここはどこなんだ?
問いに答えは見つからず、考えれば考えるほど混乱していく。訳が判らなくなり、次第に自分がここにいることですら疑問に思えてきた。まだ感覚が残っていれば、まずは安心できそうだ。
そう思って安堵しかけた瞬間、目の前の黒が動いた…気がした。
我が目を疑って目を凝らしてみるが、いくら経っても変化はない。錯覚だろう。自分で思っている以上に疲れているのだ。作戦も終盤に差し掛かっていたし、失敗は許されないような緊張を強いられる作業が続いていた。そのせいだろう。
コルドは無理矢理に理由を付けて、頭を振って馬鹿な想像を払った。そして改めて目の前へ向き直すと、また動いた。今度はさっきよりもはっきりと、大きく動いた。
徐々に立体感を持ち始め、黒の中に巨大な目が二つ現れた。くすんだ黄色をしているが、黒い空間内ではそれだけで充分よく見える。目はどこか猫科の動物のそれに似ている。
その双眸が徐々に高さを上げていく。コルドの身長の倍以上の高さになったところで、やっと止まった。
(な…なんだよ、なんなんだよコイツは!)
コルドは気付かないうちに大量の冷や汗をかいていた。
殺気立つ双眸が微かに引っ込んだかと思うと、双眸の後ろから別の黒がうねり、コルドに直撃した。コルドは踏み止まれずに吹っ飛ばされ、数メートル横の壁のような物にぶつかった。何かと思って仰いでみると、コルドの頭上に同じような金色の双眸が浮いていた。
コルドは今、二匹の物の怪に追い詰められていた。
突然の現象にますます混乱し、痛みを感じる余裕もない。
狼狽えている間に、目の前の双眸が近付いてきた。コルドを侮蔑するように見下ろすと、頭上から別の黒を振り下ろした。それはあまりに早くて、コルドは防衛反応も起こせないでいた。
腕に痛みが走った。やけに肩が軽くなったと思い、拳銃を握っているはずの手と逆の手で触診してみようとして、ようやく気付いた。
両腕が、無い。
何故か出血はなく、しかし確かに腕がある感覚が無くなっていた。
黒が双眸の裏に引っ込んでいく。
「う」
遂に、コルドは精神の限界を超えた。
「うああああああああああぁぁぁぁぁ!!」
コルドは悲鳴の叫び声を上げた。
「えっ、なにっ?」
その様子を一部始終見ていた私は、コルドが急に激情したことに恐怖心を抱いた。
私は“彼”によってコルドと引き離されていた。コルドが立ち尽くすようになってから、“彼”によって素早く体を引っ張られ、今では距離を取った場所にいた。
(なんだろ…。コルドがこの人と目を合わせて、そしたら急に彼の眼が虚ろになって、妙に挙動不審になっちゃって、それで急に青ざめたと思ったら今度はあの人がコルドを蹴り飛ばして、それでもコルドは反撃をしようともしないで、抵抗しないコルドの腕をあの人が剣から出した光で斬って…。一体どうしたの? 何が起きてるの?)
目の前の奇妙な光景に、私は不気味さと不思議さを覚えた。“彼”に訊けば教えてくれるかもしれないが、“彼”も今集中していた。
“彼”と、コルドと。対峙している男性達の行動一つ一つに目を奪われる。
「貴様に逃げる道はもう無い」
コルドの頭上にある双眸が動いた《“彼”は歩きながら言う》。
「貴様に赦しを請う猶予はもう無い」
双眸が嘲笑うかのように歪むと《同情も容赦も躊躇もなく》、そのすぐ下から赤黒い口が開いた《ただ淡々と歩いて近づいていく》。
口内よりも赤い牙が鈍く光り《やがてコルドの目と鼻の先まで近づくと》、ちらつく舌からは涎が滴っている《コルドと決着をつける最後の言葉を放った》。
「俺達が、幾万人を救うことを望むが故に、貴様を阻止する」
邪悪に開かれた口が降下して《“彼”は右手を伸ばして》、
「ぅ、うあああああああ!!」
コルドを丸飲みするかのように食らいついた《コルドの頭を鷲掴みにした》。
コルドは雷に打たれたように一瞬仰け反ると、糸が切れた操り人形のように前のめりに倒れた。
音を出す物がなくなり、違和感があるほどの静けさが漂った。
おもむろに“彼”が振り返り、ソミアのほうへ向きを変えた。
それだけのことなのに、自分を助けてくれたと思っているのに、一瞬だけ脳裏に過ぎった推測が離れなかった。
“彼”がここへ到着した時点で考えられる推測が、今更ながらも私の思考を支配した。
“彼”が向きを変えて、自分のほうへ歩き出した瞬間、ソミアの鼓動は跳ね上がった。
考えから同伴してきた恐怖が募ってきた。違う、そんなはずはない、どれだけ自分に言い聞かせても、その考えのほうが勝り、振り払えなかった。真っ黒な両足が交互に動いている様をぼんやりと見ていた。黒いそれが近付いてくるだけでも、恐怖の推測を煽った。
彼が目の前で立ち止まり、何の声もかけてこない時点で、私は確信した。
次は自分が殺される、と。
Go ahead, make my day.
「やれるものならやってみろ」
終盤の表現(コルドへのトドメ)はルビで重ねて表現したかったのですが、仕様でこんな形に。
限られた範囲で表現するって難しいです。