真実の代言者 5
(前ページより)
*
コルドは執務机に座り直し、事務を再開した。
執務机に積まれた書類の上で手を動かしながら、壁寄りに呆然としている自分に話しかける。
「ま、時間も遅いし、今日はここに泊まるといい。明日の朝に、我々が責任を持って君をお家に送るよ。なぁに、たとえ“奴”が生きてたとしても、ここに来るなんて可能性はないさ。建物内には何人もの優秀な警備兵を配置してるし、特にこの部屋は頑丈にできているからね。もう怖がることはないよ。心配しなくていい」
コルドの独り言にも似た提案を聞いても、返事をするような気が起こらなかった。
返答しなかったために会話はそれきり途絶え、室内に沈黙が満たしていく。
執務に没頭するコルドの、パソコンを操作したりボールペンを走らせたり紙が擦れたりする音がやけによく聞こえる。両側に直立不動でいる男二人は相変わらず、呼吸しているのかも疑わしいくらい余計な動作をせずに立っている。
私は俯いて、ただただ悲しみを増やしている。
理由は無論、“彼”のことだ。
会って確認したい気もするが、コルドから教えられたことが本当なら、嫌だ。つらい思いをするくらいなら、いっそ…誰にも会いたくない。
悲しいままでいいから、早く朝になってほしかった。日常から逸脱している今の自分の境遇がとても嫌に思えて、早くいつもの日常に帰りたかった。学校に行くために朝早く起きて、両親に朝の挨拶を言って、学校に言って、ジャスミン達と話をして、授業を受けて、帰りにまた三人とどこかへ寄り道して、家に帰って、明日はどんなことがあるのかとちょっぴり期待しながら眠りにつく。同じことの繰り返しに思える普段の生活が、今ではとても恋しい。
これ以上、傷つきたくない。
これ以上、関わりたくない。
これ以上、何もしたくない。
無意識に、かつて虐めを受けていたときに思っていたことと同じ気持ちになっていた私は、自分からは決して何かを起こさないという現実への逃避を選んでいた。
何もしないから、早くいつもの日常へ戻してくれるように、祈った。
暗い考えに囚われ、奥歯を噛んだ…その時。
遠い場所から音が聞こえた。何の音かはわからないが、低くて重い音だった。連続してはいないけど、一定の間隔で定期的に聞こえてくる。巨人が歩いたときにこんな音が出るんじゃないかと思っていたら、音と一緒に地鳴りも響いてきた。まさか本当に歩いているんじゃないだろうか。
コルドもその音に気づいたらしく、どこか中に視線を泳がせている。傍で待機していたボディガードの二人も、懐に隠してある武器を確認している。
非常識な想像を抱いていると、轟く衝撃音と共に部屋全体が大きく揺れた。今までのとは明らかに異なり、すぐ傍で大鉄球を落とされたような物凄い衝撃だった。
突然の事態に全員が困惑している間に、この部屋唯一の扉が破裂音と共に、縦長方形二枚の形に変わって内側に吹っ飛んできた。急な出来事に全員が身を竦ませている間に、吹っ飛んでいた扉二枚は突然軌道を変えて、ある方向に一直線で飛んでいく。いち早く我に返って戦闘態勢に入ろうとしたスーツ姿のボディガードの二人は、突然軌道を変えてきた厚さ何ミリもある頑丈な扉それぞれに衝突され、背後の壁まで一緒に吹き飛んで押し潰された。
床に落下したあとでも、分厚い扉が遮っていて、ボディガードの二人がどんな状態なのか分からない。ただ、潰されたあとも全く動かないことは無事でないことを物語っていた。
何が、起きたのか。
目の前で起きたことに、頭がついていけない。コルドを見ると、彼も同様に呆然としていた。
非常時に作動する機械が反応し、警戒音とともに執務机のすぐ前で隔離する、分厚く透明な防護ガラスを瞬時に下ろされようとした。その寸前に、コルドの後ろの壁に横一文字の大きな傷が彫られた。
ガラスが完全に下ろされ、その後に壁の欠片がばらばらと床に落ちる音が響く。
警戒音で我に返ったコルドが、一連の異常を引き起こした犯人へと叫んだ。
「…ッ!? 誰だ!?」
「貴様を長年追跡している者だ」
埃が立ち込める扉の奥から問いへの答えが返ってきた。向こう側との間には分厚い隔離壁があるが、会話するのに差し支えてはいなかった。たぶん、どこかに換声管のようなものが設置されているのだろう。
ゆっくりとした歩調で部屋に入ってくる間に、その姿が明確になっていく。
汚れた黒い靴。あちこち擦り切れた黒い長ズボン。ベルトに挿された鞘。黒いシャツとジャケット。片手に握られた一振の刀。サングラスを掛けた有色の肌と、一つに結われた黒髪。
「今まで随分と面倒事を抱えさせてくれた」
その人は全貌が現れた所で足を止めた。
先程まで私とコルドが主題にして話していた張本人が、ここに現れた。
「片サングラスに日本刀を携えた東洋人…。そうか、お前が本人か…!」
コルドはさっきまでソミアに向けていた穏やかな雰囲気を一転して無くし、代わりに嘲るような歪んだ笑みを浮かべた。
まるで、突然の来客に歓喜を感じているようだった。
「よく来たね! 歓迎するよ、死に損ないの黄色人種!」
「戯れ言を垂れる暇があれば彼女を解放しろ、戦争好きの溝鼠」
迎えるコルドと襲う“彼”は棘だらけの挨拶を交わした。
そして、“彼”の発言によって確証された。
やっぱり…私を取り戻そうとしてる…!
「それはできないな。私の立場がなくなってしまう。それに、本人も望んではいないようだ」
「どういう意味だ?」
そう訊いて、“彼”が私のほうを見た。その表情が異様な雰囲気を宿していて、とても怖く感じた。
記憶の中の彼は、あんな雰囲気をしていなかった。無表情であることは変わっていない。でも、表情の奥に秘めている雰囲気のようなものが全然違った。記憶の中の彼は、無表情のためか何の風波も立っていなかった。いい言い方をすれば穏やかだった。でも、今の彼は穏やかさなんてこれっぽっちもない。目の前の目標に邁進し、楯突くならば構わず切り伏せてきそうな威圧感がある。
記憶の中では無表情で通していた“彼”との違いに、私は本能的に確信していた。“彼”は私を取り戻そうとしていると。本性を偽りの記憶に隠してまで、私という人質を欲していると。
「いや…来ないで…!」
体が恐怖で震えた。“彼”の元に戻ったら、また同じように騙されて、都合のいいように利用されてしまう。そう思うと、コルドに保護されることを切望した。
「…」
「嫌だってさ。というか、最初からお前に彼女を渡す気はないんだ。痛い目に遭う前に帰ったほうが身のためだよ。…ま、逃がす気はないけどね」
コルドは警察の一人で、ここは警察関連の機関だ。犯罪者の“彼”を逃がす理由はない。応援を呼べばすぐに逮捕されるのだ。だから、コルドの側に付いていたほうが確実に安全なのだ。
「…ややこしくなる事を」
空気が静まって、やや沈黙が流れた後、硝子の向こうの“彼”が言った。
「しかしまぁ、よくここがわかったね。どうやって探し当てたんだい?」
コルドの質問で、私は一つ気が付いた。
ここはどこなんだろう。
コルドは、組織の本部だと答え、確かに部屋の形をしている。だがそれだけで、詳細な地名は教えられていない。
「貴様らの最大の失敗は、その娘を拉致した事だ」
突然、視点が自分に移り、ドキッと鼓動が高鳴った。
「公園で休憩していた時には、何者かに尾行されている事態に気付いていた。確認の為に町中へ移動し、今後に危険だと判断した俺は、彼女に一つの予備装置を施した。…遠目で見ていれば気付く筈は無い」
商店街で、“彼”からされたこと。
それは、話を聞いて貰ったことと、もう一つ。
「イヤリング…?」
私が小さな声で言い、“彼”が答える。
「丁度装身具を買いたいと要求があったから、利用させてもらった。俺は会計を済ませると同時に、イヤリングに発信能力を施した。俺にしか捉えられない所在通達機能だ。…人質のつもりなのか用途は推測し難いが、俺の狙いにうまうまと捕まってくれた」
聞き終えた私の胸に、覚悟していたつもりの痛みが走り始めていた。
利用された…。
イヤリングが欲しいという我が儘な追加注文を快諾してくれたのは、やっぱり親切じゃなかった。
また、ここを突き止めるためだけではないような気がした。私がイヤリングを身に付けていれば、“彼”はいつでも私の場所を知ることができるし、取り戻すこともできる。
ただ自分の都合を良くさせるために、仕方なく買ったんだ。
コルドから聞いた話と、否定したかった自分の予想が的中し、胸が痛くなった。特別な人にしか見せない信頼をずたずたに引き裂かれた、そんな気がした。
「それはそれは、随分と無駄な苦労をしたねぇ。善良な一般市民を君の勝手な事情に利用するとは、酷いじゃないか」
「彼女の協力でここを突き止められたのは事実だ」
そこで一度台詞を切り、苦労話を聞かせるように言い直した。
「誰がコインランドリーの地下に施設があると推理できる」
この建物は地下にある。
どうりでこの部屋には窓が無いはずだ。
まだ痛む胸の痛みに耐えながら、脳裏に過ぎった疑問を思考にとどめさせた。ここはなぜ地下に建設されたのだろう。いくら隠密活動組織だからと言っても、公務機関の本部を公から隠す必要はないと思う。地上に場所が無くて地下に建設する例はあるけど、それは地下に置いても支障がないか、あるいは表に出すと外観にマイナスが付加するかだ。地上に立てるより地下に立てるほうが建設費や時間もかかる上、との地域の知事と道路交通の管轄に許可を申請する必要があるため、相当な理由がないと地下建設はできない。
「見つからないように建てたんだから、当然だよ。しかしまぁ、君みたいな不審人物をどうして警備員は止めなかったんだろ? セキュリティや腕のある警備員を配置してたはずなんだけどな」
「警備員は四肢の骨を砕いた。作業員は解放を望んだ者だけ見逃した」
なんていうひどいことを…と考えたが、別のところに違和感を持った。
作業員?
ソミアの頭に、その単語が留まった。
警察機構に作業員?
この建物内で従事する職員のことを総じて指しているのか。いや、警察機構なら証拠分析やデスクワークのほか、捜査員だっているんじゃないだろうか。捜査員のことを作業員だなんて、普通の感覚で呼ぶだろうか。どう考えても違和感が消えない。
また、そんな人がどうしてここにいるのだろうか。事件現場に発見された証拠品の鑑識をするためだろうか。わざわざここへ運ばれてくるほど充実した機関なのかもしれないし、地下へ隠してまで調べる必要がある専門の場所なのかもしれない。でも、これらは私の勝手な推測だ。実際に期間内を見て回ったわけでもない。地下に建てる必要があるのだから、よほど外に出したくない理由があるはずだ。監察医による検査や事件関係者の保護施設なのだろうか。保護されている人たちを狙って“彼”は襲撃してきたのか。いや、正当な公務を行う人がどうして避難ではなく“解放”を望むのだろうか。
「おやおや…また人に暴行を加えたか。存在がない者が現世を生きる尊い生き様を邪魔したか。これで君はさらに罪を重ねたってわけだね」
「苦にも思わない」
「よく言うよ。君は今までに、幾つの犯罪を犯しているんだ? …殺人、暴行、器物損壊、密入出国、詐欺欺瞞、個人情報を含む極秘情報の無断閲覧、エトセトラ。これだけやって、まだ足りないっていうのか? 君らはもう、どの国でも死刑が確定されているほどの救いようのない大犯罪者なんだよ」
「貴様の所業と比較すれば大したことではない」
今、“彼”は否定しなかった。ということは、ここに“彼”が訪れた理由はその類に決まっている。
そして、コルドから聞かされたことは…。
「本当なんだ…」
“彼”とコルドが自分のほうを見て、自分が思っていたことを口に出していたことを知った。ただ、詫びる気持ちは起きず、むしろその勢いで言葉を繋ぎたかった。
「あなたは、本当に…人を殺したり…?」
猜疑と追求と避難の視線で、独り言に近い音量と口調で、“彼”に言った。
「誑かされたか」
“彼”の発言にコルドが答える。
「いいや、真実を知っただけさ。そして、自分で考えた結果、本当の敵に気づいたのさ」
「貴様も奴らに唆された一人に過ぎない」
「口の減らない野郎だね。だから世界政府から『無情の一閃』だの『抹消の旋律』だのと馬鹿げた異名が付けられるんだよ」
重い衝撃音が響いた。
“彼”が衝撃波を全方向に発して、防壁の向こうにあった物は吹き飛んだ。こちら側にも振動が伝わり、部屋全体が揺れた。
「…二度とその名で呼ぶな」
“彼”は重々しい声で言い、気迫で圧殺しそうな眼でコルドを睨んだ。
「器物損壊罪だ。裁判に掛けられた時はこれも追加させてもらうよ」
「残念ながら、貴様にその機会は無い」
“彼”は掌を前に出し、三本の指を立てた。
「貴様は三つの大罪を犯した」
まず人差し指だけを立たせた。
「一つ、度重なる戦争誘発行為」
次に中指を立てる。
「二つ、『鐵』への利害関係による協力援助」
最後に薬指を立てる。
「三つ、少女の拉致及び暴行と誹謗による心身への弊害。以上の三つの罪により、貴様をこの場で死刑に処する」
“彼”が宣告すると、コルドは高らかに大笑いし始めた。
「私を殺すだって? 面白いことを言ってくれるじゃないか! だけどね、そりゃ永久に実現できないよ。なぜなら…」
コルドが手元のスイッチを押した。すると、突然“彼”の足下から金属製の輪っかが射出され、それらがそれぞれ“彼”の手首に巻き付いた。すると、腕輪から発生した強力な磁力によって両腕が左右に引き離され、まるで空中に磔にされたような態勢になった。
同時に、防護ガラスで隔離された、“彼”がいる側の壁や床から黒光りする重火器が大量に出てきた。それらは狂いなく“彼”に銃口を向けている。
さらに床から濁った黄色い煙が噴出し、“彼”を包み込む。おそらく毒ガスだ。
「てめぇはここで死ぬんだからなあ!!」
“彼”に向けてられていた全ての銃から、ガトリングガン並みの速度で一斉に銃弾が発射された。喚声管を切っていても銃声は劈く。びりびりと振動が伝わってくる。意識しない間にも数え切れないほどの銃弾が黄色い煙の中に吸い込まれていく。発射し始めて数秒後に、黄色い煙が爆発した。可燃性ガスだったらしく、銃弾の熱と摩擦で着火されたのだ。空気が破裂し鼓膜を刺激している間も、銃撃は続いている。
感覚的にはしばらく経過して、やっと銃撃が止んだ。ガラスの向こうは硝煙と爆発の煙で曇っていてよく見えない。
いつもの“彼”なら難なく凌げるだろうが、今回は違う。
撃たれる前、爆発する前、“彼”は両腕の自由を奪われていた。
記憶の中の”彼”は両手を叩くことで能力を発揮していたが、目の前の“彼”も同様なのだろう。コルドは最初に彼の両手を拘束していたけど、あれは動きを封じるためだけじゃなくて、”彼”が両手を叩くのを封じるのも狙っていたんだ。動きを抑制する方法なんて他にあるのにその方法を取ったのだから、記憶との違いはない。
その部分の記憶は間違っていなかった。
”彼”は目の前で両手を縛られていた。
それでは手を叩くことができない。
能力が使えないのなら、防ぐ術が、ない。
「…」
“彼”はまともに攻撃を受けたのである。