選ばれた臆病者 5
私が彫像のように固まっていると、少年は腰を屈めて、私の足下にある何かを拾い上げた。
「これ、落としていた」
少年はそれだけを無機質に言った。
少年が拾ったのは、手提げの鞄だった。どこかで見覚えがあると思ったら、それは自分の物だった。身体が硬直した時に手から滑り落ちてしまっていたらしい。
「あ…りが、とう、ございます…」
私はぎこちない口調でお礼を言って、鞄を受け取った。
面と面を向き合わせても、少年はそれ以上何も言おうとはしないようだった。
互いの顔は、すでに認識できる距離にいる。見えないなんてことは起きない。
でも、少年は私を見ても、ただ見ただけで何の表情も変えなかった。普通なら、つい昨日見た顔に再び会ったことで、思い出したり驚いたりするだろう。現に私は非常にびっくりしているのだ。
対して、少年は何も表情を浮かべていない。私の顔を見ても、私とはこれが初めて会うかのように何も反応していない。
私の顔を知っているはずなのに、どうして何も思っていないような顔をしているのだろうか。
気づいていないのだろうか? つい昨日にあんなことがあったのに。自分の感覚では少々針小棒大に捉えてしまっているかもしれないが、覚えていないのだろうか。
それとも、私の顔を思い出せていないのだろうか。確かに、昨日の私は話す時も俯いてばかりだったと思うから顔を憶えられてなくても仕方がないけれど。
それとも、視力が悪いのだろうか。よく見えないから、わからないだけだろうか。
少年は用が済んだと言わんばかりに退去へと動きかけた。
少年が行ってしまわないうちに、私としては訊いておきたかった。
それは、人見知りする性格にしては珍しい行動だった。
何を話そうかとかは頭になく、なんで話しかける必要があるのかとかなんで話しかけようとするのかとかは自分にも分からなかった。
ただ、あの時は場所が静かな図書館だったし、友人達に見られながらの会話だったので、ゆっくり話せる状態ではなかった。
もう少し落ち着いて話したい。
そう思っていた。
私は思い切って、少年に話しかけることにした。
「あ、あの…」
「…」
少年は何も答えなかった。
反応はないが、私は続けた。
「あの…私のこと、憶えていらっしゃいませんか? …き、昨日、あの図書館で…その、話しかけた者なんですが…」
「…」
少年は記憶を遡らせているのか、茜色がかった空を少し仰いだ。
どうか思い出してもらえるよう祈りながら、静かに返事を待った。
もしここで「忘れた」なんて言われたら赤っ恥である。
それは避けたい。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ああ、昨日の」
なんとか思い出してくれたようだ。
よかった。赤っ恥をかく必要はないようだ。セーフ。
私は胸を撫で下ろして、話を再開した。
「あの…その…昨日は、本当にご迷惑をおかけしてすみませんでした」
私はとりあえず謝った。自分でもよく分からないが、この台詞が一番最初に思い浮かんだのだ。
すると少年は、
「いや、突然謝罪されても俺が困る。また、そのような上級敬語を駆使しなくて良い。使うに相応な人間でもない。基礎的な言葉遣いで構わない」
無表情で無愛想に答えた。今までで一番長い台詞だったが、それでも口調が真っ平らだった。
こんなに事務的で箇条的な言い方をされたのは初めてだ。
悪気があるのかどうかは知らないけど、この人は少し難しい性格だと思った。
少年と改めて対面してみると、気づいたことが二つあった。
少年は、思ったより身長が高くなかった。私はそこまで背が高いほうではないけど、それより拳一個分高い程度の身長だ。
そして、図書館で着座していた時には見えなかったが、右腰に一振の剣が納められていた。西洋の剣にしては見たことのない形をしている。刀身はわずかに湾曲しており、反り返っている向きからして、たぶん刃を上に向けて差されてある。黒い漆の鞘に、楕円の鍔と立派な装飾を施してある柄があり、どちらの装飾もさり気ないが精巧な造りをされていた。
たぶん本物ではないだろうから、アクセサリーのように身に付けているのだと思う。本物だったら、凶器を所持している容疑ですでに逮捕されているだろう。
私は言葉遣いに気をつけて、できるだけ親密的に聞こえるように話した。
「は、はい…。えと…さ、さっき、何をしてたん…た、の…?」
やはり言いづらい。途切れ途切れになってしまった。
少年はこっちの気持ちを理解しているのか、それとも気にしていないのか、特に怪訝な顔もせずに答えた。
「ニュース番組を観賞していた。今、最新のニュースを報道している模様だった」
少年はテレビのほうを向いた。私もそれに倣う。
テレビではアナウンサーを放映していて、ニュースを伝えている。距離が遠いのと街の喧噪が音声を掻き消してしまっていてよく聞こえないが、おそらくまたあのニュースだと思った。
政治の状況、今日行われたライヴコンサートの様子、一日に一度は起こる盗難事件、無差別に襲う放火、最近頻発している行方不明者の報道、ある家庭で起こった珍事件、そして、今現在の軍事情勢の状況。
私はよくニュースを見ているので、最近の注目すべきニュースは把握していた。
「そういえば…今、かなり緊迫した状態なんでし…なんだってね」
「ああ」
現在、この国イギリスは隣国のアイルランドと対立していた。
最大の要因は領土の問題だった。相手国は一九二一年に締結されたイギリス・アイルランド条約によって取り決められた国の境界線に異存を訴えたのだ。アイルランド島全体のうち、北の端の土地はソミアの住む国側の領土となっている。訴訟の内容は、その土地を隣国に譲渡することだ。島の名称が隣国の名を取っていることもあり、隣国に明け渡すよう起訴してきたのだ。
また、少なからず宗教も絡んでいる。どちらも同じキリスト教だが、ソミア側はプロテスタント、相手国はカトリックだ。起源そのものの因果の他、わずかながら思想にも相違がある。
ついでにいくつか他の適当な理由まで蛇足して事態を大きくしてしまった。隣国は退く気は全くないらしく、だとするとこちらも油断することはできない。まだ衝突はしていないが、いつぶつかるか予測が不可能だった。一触即発とはこのことである。
ぼんやりテレビのほうを向いていると、
「あの時よりは恐怖感が緩和したように見える」
なんの前触れもなく少年から話しかけられた。少年は私のほうを向いている。少年から話しかけられたのは初めてだったので、不意打ちをかけられた気分だった。
「へ? なんです…なに? いきなり」
「図書館での会話はかなり緊張していた様だから。あの時と比較すると随分安着していると見られる」
「そ、そ…う?」
あまり自覚がない。
確かにあの時より場面的にも緊張する要素が少ないから気が楽ではあるが、完全に恐怖感が抜けたわけではない。その証拠に、まだ自分をへりくだって敬語を使いそうになってしまっているのだ。
少年は少し間をあけたあとに、また言った。
「ああ、大分に。話し掛ける前から“怖い”や“どうしよう”や“相手が悪い”と思っていた割には」
「!!」
なんで分かったの!?
口に出してもいないのに!!
表情や態度には出してたかもしれないけど、正確すぎる!
だいたいこんなこと思ってるんだろうな、くらいなら分かるけど、勘でここまで当たるわけない! …しかも三つも!
私は背中に冷や汗が流れるのが分かった。そして、昨日とは違った恐怖が再び沸き上がってきた。
自分の気持ちを盗み見られている。
内心は他者に知られないからこそ安心できていたのに、決めつけていた不可侵の特徴を簡単に打ち破られた。
知らないうちに、自分が許さない範囲に踏み込まれている。
この人から、離れたい。
恐怖からの発想はそれに尽きた。
私は、一歩、後退った。
少年はそんな私の様子を確認したのか、突然背中を向けて立ち去りだした。
やがて少年は人混みに埋もれて見えなくなったが、私は自分の気持ちが落ち着くまで、しばらく佇むしかなかった。