骨肉論
このエッセイには、作者の思い込み、偏見、その他諸々の独自研究・考察がこめられています。人によっては不快な点もございますでしょうが、気楽に見てやってください。
十二星座によって、司る身体の部位が決まっているといわれている。やぎ座生まれの私の場合は、皮膚・骨・膝だった。
この三つは勿論生きるには欠かせない。しかし私はこの中では、否身体全体の中では、骨に最も強く魅かれている。
骨こそ人間を形作る上で最も大切な部位と言うべきなのではないかと考えた事もある程だ。
そもそも骨の主な役割は、身体を守ることだ。骨は内側から我々を支え、これがなければ立つ事すら出来ない。
これに加えてカルシウムつまり「無機物」である事もその美しさを引き立てる上で欠かせない。不可解な形に曲げられた白く硬い無機物が、肉の中に埋め込まれていると思うと、果てしない生命の神秘を感じるのである。まるで宝石が皮膚という布で包まれているようではないか。
勿論プレゼントが入った袋と違い、骨はそう簡単に取り出す事はできない。だからこそ肉の付き具合から、隠された骨の形を想像するのもまた一興であろう。
これは私だけかもしれないが、あばらの薄く浮き出た腹、痩せこけた頬に形容しがたい異形的な魅力を感じる時がある。例えば包帯を解かれあられもない姿になったミイラや、絵画や恐怖映画に描かれる幽霊に、どこか似た雰囲気が漂っているのだ。
肉がすっかり朽ちて消えた骨そのものも好きだ。複雑に作られた骨格や頭蓋骨の姿は、どこか幽霊を想起させるところがある。
その一方で、ぶよぶよとした臓物や幼虫の、なんと気味の悪く思えることか。軟らかくしっかりとした支えの無い、いわゆる肉塊は昔からあまり好きではなかった。
骨どころかまともな生物の面影すら残らない程に肥太る事の、なんと恐ろしいことだろう。見た目の悪さのみならず、健康面でのリスクも決して低くはない。
過剰に飾り立てられたプレゼントボックスは、ただ面倒なだけではなく、大量のゴミにも繋がりかねないのだ。
つまるところ、骨とは魂である。我々動物の身体を支えるにも拘らず、自身は直接見られない場所にある、肉とはまた別の物質。その性質に、「魂」を仮託できるのである。
骸骨に、幽霊に、ミイラ。これらは全てこの世に蘇った死者だが、ゾンビ等とは違いどこか物憂げに見える。命が生死の境で儚げにうつろう様が、痩せこけた身体を通して見えるのが彼等を美しくするのだ。
そしてその現象が現世に生きる人間の肉体でなされようとする時、その身に隠された生への情熱が最も差し迫って見えるのである。
〈おわる〉