ある精神病患者の自伝
これは、僕の幼少期の自伝である。
幼少期を振り返って第一に書いておきたいのは、「環境が変われば、その場の人間関係も変わる」ということである。僕はA小学校というところから、隣りにあるB小学校という所に転校した。隣りにあるにも関わらず、A小学校はとうもろこしなどがなる田園風景の町で、B小学校は瓦屋根の続く高級な町であった。流行っている遊びもA小学校は相撲にプロレスにドッヂボール、体が触れ合う荒々しい遊び。B小学校は六虫や缶けりなど、体の触れ合わない遊びをすることを好んだ。僕は体をぶつけあい力頼みをしないB小学校の人達を臆病だとののしったを覚えている。隣りの学校という立地条件の差で流行っているスポーツから、性格、服装まで変わってしまうのには驚いたものだ。そしてどっちに進むかでその人の人生は変わってしまう。その人の置かれている環境によって、(その人の含まれている外の世界が違うから)その人の人生は変わってしまう。僕は転校と進級を合わせて七回して、住む場所もタライ回しにされて、色んな環境を味わったから、自分にとっての外の世界によって、自分自身が影響され変わってしまうのが分かっている。いい環境に恵まれることは「有難い」ことなのだと思う。
頭がうまくまとまらない。
大した人生ではないにしても曲りなりにも二十八年間生きてきた。その人生を振り返ってまとめるという作業は大掛かりな作業である。一体どこから始めればいいのか見当がつかない。又、どこに区切りをつけていいのかも分からない。
とりあえず小学校低学年を過ごしたA小学校から小学校中学年を過ごしたB小学校のことについて語りたいと思う。で、環境の変化であるが、B小学校時代にこんなことがあった。
当時、僕は両親に進学塾に入れてもらっていた。国語に算数だったが、成績が良くて特待生として入学金免除で塾に入った。クラスメートが少ない状態から十二から十三人程度に増えた様に記憶している。
僕は当時、B小学校に友人がいなかった。いつも学校に同じ服を着ていくから汚いとか臭いとか云われていた様に思う。
しかし、B小学校で友人のできなかった僕が、成績優秀で入った塾では皆と仲良くなって、和気藹々とした雰囲気の中で時を過ごすことができた。塾のある駅の雑踏の中で鬼ごっこをしながら帰ったりした。環境によって友人が出来たり出来なかったりする。周りが変われば自分も変わる。このことが文章として認識されだしたのは中学三年生くらいの時だったろうが、B小学校時代も子ども心に住み心地の良さ悪さとして肌に実感として感じられていた筈だ。
僕は「自己を生かすも殺すも他人様次第」だと思うのだ。
僕は生まれてから誉められたということがなかった。本当は色んなところで誉め言葉や励ましの言葉があったのかもしれないが忘れている。以下は、僕が生まれて初めて人に誉められたという嬉しい思い出話の記録である。
誉めてくれたのは同級生の女の子だった。僕が後か先か分からないが彼女の習字の字を誉めた。彼女の字は彼女独特の雰囲気があり、それはどういうことかというと、僕にとって芸術的に美しく見える種類の字だったようである。それはお手本に近い字だったが、字の細部から大きな点に至るまで、自分好みだった。それは好きな女性を一人選び出すのにも似ていた様に思える。本能的な選り好みといったところだろうか。どうしようもなく宿命的にその字が好きだった。そして、だからこそ、心から素直に字が上手いねと誉められたのだ。彼女は照れて喜んだ。僕はその書いた字の半紙を貰って帰ってきた。今はその半紙がどこにいったかは分からない。
そして今度は僕が誉められたことについてである。
僕は美術の時間に絵を描いていた。画用紙手前に2本の木があり、その向こうに段々畑、民家と続く風景画だった。僕は水彩画の絵の具で色んな色をつくり、段々畑や木の幹や枝葉を染めた。
そこにその女の子がやってきて隣りに腰を下ろした。彼女の存在が身近に感じられた。確か寒い季節だったと思う。そして何て云われたか文句は覚えていないが、僕の描いた絵を誉めてくれた。僕は自尊心が満たされて喜んだ。人に誉められるのは嬉しいものだ。今でも心が温まる記憶として残っている。ありがたい。
僕は塾の友人の所に遊びに行ったことがる。記憶が確かではないが兄弟で一緒にいたように思える。そうすると双子だったのだろうか? 分からない。とりあえず便宜的に一人の男だとしよう。名前は忘れた。彼は最初自分より成績が悪かったが、最後の最後に自分に勝った。クラスで一番成績の良かった僕より上の成績を取ったのだから、彼がクラスで一番だったのだろう。
流石に成績優秀なだけあって、利発そうな表情を浮かべていた。顔が日に焼けて焦げ茶色だった。彼の家に遊びに行ったのだが、どんな間取りの部屋だかは忘れた。遊んでいたのは団地だった。僕は何らかの理由で愛想をつかし、何も言わずに家に引き上げてしまった。嫌になると逃げる(帰る)それが僕の癖だった。
僕はこの日サッカーのグラウンドか何かの隅で四葉のクローバーを探し求めた。友人たちは四葉のクローバーは滅多に見つからないのだと云った。僕は真剣に探した。結局、というか、勿論というか、四葉のクローバーは見つからなかった。でも、妙にセンチメンタルな思い出として記憶に残っている。夕焼けの団地を後にしたのが懐かしい。
子供時代というのは野蛮だ。殴り合いの喧嘩をしても平然としていた。僕も又野蛮だった。
B小学校時代のプールでの出来事である。僕にはある嫌いな奴がいた。当時僕は卑怯な奴やせこい奴、弱い者いじめをする奴が大嫌いだったから、彼もそんな部類だったのだろう。僕は腹をたてていたので、そいつをプールに頭からつけこんでやった。するとそいつが抵抗してきたから、なお強く水の中におさえつけてやった。僕は自分の力が発揮されて相手が苦しむのを「快」だと感じた。残忍な話だ。子供は悪戯半分に何でも出来てしまう。恐ろしい。
体育館にカーテンなんてあっただろうか?
あったのだろう。昼間の体育館はひどく暗かった。唐沢小学校の体育館でのことである。正確な記憶ではないので、美しく思い出せば、僕はカーテンの下ろされた暗い体育館にひとりで入っていき、二階に上がった。二階にはバーベルやダンベルがあって、体が鍛えられる様になっていた。僕はカーテンの間に沢山の虫の死骸が絡まったり落ちたりしているのを見た。光の煙の中で、それらの死骸が神秘的に見えた。全く光のせいだ。光は物を美しく見せたり不潔に見せたりする。光にうつった美しいものを見ていたい。光は死骸でさえ美しく見せるのだから。
僕はA小学校VSB小学校のドッヂボール大会を開いた。場所はB小学校の校庭。人数は十対十くらい。僕は古巣に帰りたいし、力の強いA小学校のことが好きだった。だから、僕はA小学校のチームに入ってドッヂボールをした。僕はボールをキャッチするのは下手だったかもしれないが、ボールを避けるのが上手かった。避けるのが上手かったから、最後まで中に残って、勝負の瀬戸際まで生き延びることができた。
この時、僕が憧れていた男の子がいて、彼は力が強くプロレスも一番、リレーも一番という男だった。ドッヂボール大会で試合をしていると彼が珍しく球を受け損なった。他の学校の人と対戦ということで緊張していたのだろうか? 彼は外に出た。確か場外に出ても相手チームを外から当てれば復活して、中に入ることができた。僕は彼に有利な様にプレイした。外にいる彼にパスをまわして復活を望んだのだ。
で、結果は僕らA小学校が接戦を制して二連勝したのか、とにかく、B小学校に勝った。
この後から、この時のことを思い出して、僕には人を集める才能があるのだと自惚れたこともあった。(まだ経験の少ない子ども心に)
そして、その後、僕の住んでいたマンションの敷地で二次会的にドッヂボール大会をした。熱い一日だった。
僕はB小学校で嫌われていて、僕のことを皆が白い眼で見て、遊びの輪の中に入れてくれなかった。それはカンチョーとか幼稚な遊びを自分がするからか、不潔だからか、転校生だから差別されていたのか、存在自体が気にくわなかったのか、分からない。とにかく休み時間にはひとりぼっちで校庭の隅を歩いていた。もしかして短気で喧嘩ばかりしていたから嫌われていたのかもしれない。
しかし、想いもかけなかったことがきっかけでクラスに打ち解ける機会が出来た。僕(この自分史の作者)は甲というのだが、クラスで「甲のことを考える会」とかいう学級会が開かれたのだ。すると、男たちはあんな奴どうでもいいとかぶつぶつと文句を云うのだが、女の子たちが博愛精神によるものか、甲がひとりぼっちでいるのは可哀想だと云ってくれて、僕はその日一日を境にして男友達と仲良くなれて一緒に遊ぶようになった。
しかし、それも束の間、仲良くなった途端に東京の小学校に転校になってしまった。
ここで一気に東京の小学校でのことを語りたいのだが、その前に自分の家であったことを書きたいと思う。家族のことも書いておかないと、この自分史が正確な記録にならないのが理由だ。
僕たちは埼玉県のある八階建てくらいのマンションに住んでいた。
そこで関東地方としては珍しい大雪が降ったことがある。確かお母さんが「甲君、雪よ」と云って起こしてくれたのだ。レースのカーテンが眩しく、窓から見える雪は美しかった。それから可愛い妹・乙姫を叩き起こして外に出た。僕たち兄妹は小さな子どもだったから小さな雪だるましか作れなかった。でも誰かが作って、顔まで造作が出来上がっている大きな雪だるまがあった。そして、その時の雪だったと思う。A小学校で皆で雪合戦をした。先生たちが「今日の授業は中止」という宣言と共に皆で合戦をした。僕は残酷なまでに人に雪をぶつけてひとりで悦に入っていた。爽快であった。
お母さんと乙姫の三人の思い出がある。僕は学習塾「くもん」に入っていた。「くもん」というのは、元々一〇〇点を取れるように出来ており、一〇〇点を取る度に子どもに自信が付くようになっているらしい。僕は「くもん」で点数をつけてもらったプリントをカゴの中にとっておいた。
それが貯まると乙姫とプリントを部屋中に撒き散らして遊んだ。これは僕が沢山勉強をしたことの証だ。しかし結局バラまいて捨ててしまうということは、勉強で得た知識も無常であり、そこで得た知識など必要がないと云わんがばかりだ。僕たちの時代は受験戦争のブームだったが、本当に必要なモノは何だろうと考えさせられる出来事だった。
その8階建てのマンションに従兄妹がやってきた。プラス君とマイナスちゃんだ。プラス君はマイナスちゃんにブスと云い、自分の妹・乙姫に可愛いと云った。
そして夜には小さな柵のついたベッドで秘密基地ごっこをして遊んだ。僕は敵がいてピストルを撃つという幻想に酔いしれた。そして四人の子どもの一番最後に眠りについた。僕は興奮しやすくていつも最後まで眠れないのだ。
母親の父・つまりお祖父ちゃんに自転車を買ってもらった写真がある。
僕たちは隣りの団地の広場まで出かけていって写真を撮った。補助輪のついた自転車で走り回れるのが楽しかった。何となく仮面ライダーの自転車だった様な気がするが、確かな記憶ではない。しかしお祖父ちゃんとのいい思い出である。
それから僕とお祖父ちゃんには一口エピソードが残っている。僕とお祖父ちゃんはふたりで隠れん坊をしていた。お祖父ちゃんは自分の家の敷地の中にある工場に篭って出てこず、僕にはどうしても見つけることが出来なかった。そこで、僕は、
「お祖父ちゃん、電話だよ。電話!」と叫んだ。
そして電話なら仕方ないと出てきたお祖父ちゃんを、
「見つけた!」と云って捕まえてしまったのである。
そんなお祖父ちゃんも亡くなって大分経つ。僕はお祖父ちゃんの葬式の時に、葬式の意味、死の意味、お別れの意味も分からずに、従兄妹たちと会えるのが楽しくて、ひとりではしゃいでいた。お祖父ちゃんに申し訳ない。
(この話は家族はでないが、この頃の話として)僕は悪戯好きだった。B小学校時代一番楽しかった悪戯は爆竹投げ事件である。僕はこの頃夕日というマンションの十二階に住んでいた。高速エレベーターと螺旋階段があった。エレベーターと階段を利用した鬼ごっこも面白かったが、十二階から爆竹を落として破裂させ、通行人をびっくりさせるのも楽しかった。まず十二階から通行人を見下ろすと人の姿が大変小さい。次に爆竹に火をつけ落下させる。爆竹が地面に届く。「バーン」通行人が驚いて見上げると、僕たちは隠れている。そして段々と厚かましくなり、「バーン」となって見上げる人に「バーカ」と云ったりするのが楽しかった。こんなことが楽しかった。本当に。
僕は空手を習っていた。それは夕日マンションの団地の中央にあるホールで行なわれていた。「セッ!セッ!」と掛け声をかけ、型を習ったり、サンドバックを蹴ったり、スパーリンクをしたりした。直接、力と力がぶつかるスポーツだ。僕は足腰が強かったらしい。先生が持っている腕の長さくらいのサンドバックを蹴ると、先生がこたえたような顔をしていた。
そして空手の道場から帰ると、お母さんがお風呂場に卵かけごはんとデカビタCを持って来てくれた。十二階のマンションのお風呂で少量の食事と飲み物を楽しむというのも愉快な気分だった。お母さんの優しさが身に染みた。
それからまた別の時、お母さんがネックレス(だったと思う)をなくしたことがある。僕がお風呂場の窓の下に落ちているのを見つけた。僕には紛失した物というのは眼で追っていけば必ず見つかるという信念のようなものがあった。僕がよくよく注意して排水溝とか窓の下とかを眼で追っていると実際にあった。僕の母は親から伝わる大切なアクセサリーが見つかって喜んでいた。お父さんも妹も喜んでいた。いい日だった。
僕はB小学校から、東京の小学校に転校した。僕はそれまで殆ど友達の名前を覚えていなかったが、この東京の小学校から東京の中学校までの友達の名前を徐々に覚えている。そして前に住んでいたある県の人たちは田園風景のなか伸びやかにしているのに対し、東京の人は表情が溌溂としていて校風が爽やかだった。僕には東京は躍動していて「生きている」という印象を与えた。
しかし、ここでも最初は嫌われていたように思う。最も彼らは小学校一年生から、ずっと一緒にやってきた仲で、僕は後から入った人間であり。スタートラインが違うのだから、なかなか馴染みがたかったのも仕方のないことだったのかもしれない。
ここは小さな小学校で校庭が狭かった。運動会をやる時など100メートルの線を湾曲させて書き、走らせていた。そのかわり屋上を使用して遊ぶことができた。この小学校ではサッカーが流行っていて、校庭で小さなポールの間にシュートをして、屋上ではフェンスの境目をゴールと見立てて遊んでいた。皆、器用にサッカーをしていた。最も、僕には何故足だけで器用にボールをあやつれるのかは理解しがたかったのだが・・・。
僕は最初サッカーからは仲間外れになっていたように思う。でも、やがて友達が出来て皆とサッカーが出来るようになった。仲間に誘ってくれたのは、平次という将来僕の悪友となる人物である。この平治君が僕のことを「大切な友達だ」といってくれたところから、僕の方がベタ惚れしてしまい、ひっついてまわるようになった。そして彼がサッカーをするから僕もサッカーをした。
僕が生きていた時代は受験戦争時代、学歴主義時代だった。少なくともこの世で偉業を達成する人たちには高学歴の人が多いような気がした。小説家の多くが東京大学出身だということでもわかるように……。平次君の両親は東大出だった。そして平次君自身、教養が深くて何を話していても楽しかった。下ネタとか、ハゲが面白いとかいうことは平次君や小学校の時の同級生と話していて覚えたようなものだ。平次君のことは後に触れよう。
僕の同級生の女の子にはヤマダさんというお屋敷の娘さんや端正な顔立ちをして、更に薄幸そうな何とかさんもいた。僕が好きだった岡本さんという女性は口やかましくて意地悪なのだが、このふたりの女の子は癖がなくて、女性らしい優しさを持っていた。女というと僕自身のことには全くといっていいほど無関心なものだが、果たしてこのふたりも私自身には直接関心が無かったのかもしれない。
ふたりは僕に僕の妹の話をしてきた。「最近、妹さん元気?」といった調子だ。僕の妹は僕と四歳五歳違いだったから、当時小学校一~二年生だったろう。実際、妹も「お姉さんらしい優しい言葉をかけてくれる人がいる」といっていたから彼女たちのことだろう。ふたりは妹と仲が良かったようだ。
僕は端正な顔立ちをした人に魅かれた。彼女は彼女の家の近くの公園に遊びに行った時に、サンダルをはいていて、くるぶしにアトピーの痕があるのがわかった。僕もアトピーでくるぶしに痕ができていた。かゆくて可哀想だなと思ったのを覚えている。
東京の小学校の近くにお寺だか神社だか理解できなかった場所がある。ある時、そこでお祭りをやっていた。そこで「型」という屋台が出ていた。壊れないように「型」をくりぬくと、現金と交換してくれるのだ。勿論、上手くいくわけがない。上手くいかないように出来ているのだ。(しかし、これは最近、考え方が変わってきた。博打は商売だから、運営する側が儲かるようになっていると、ずっと考えていたが、しかし、博打をうつ者が「費やした時間」というものがある。人生、何であろうと「費やした時間」が無駄になっていい訳がない。たとえ博打でも情熱を捧げて命がけで取り組めば、その報酬はいい形となって帰ってこないといけない。そうじゃなければ報われないと思った)で、僕は夢中になって友達と「型」をやった。たまに数百円(三〇〇円くらい)が当たると友達と一緒に大喜びした。博打というのは子供心にも面白いものなのだ。時を忘れてお祭りを楽しんだものだ。
またこれと同じお祭りに家族で行ったこともある。お祭りの途中で、父親に「ここで待っていろ」といわれて、妹とふたりで、三叉路の処で待たされたことがある。それから射撃のゲームをして、ジッポを落とすのに成功した。本当に落ちることがあるのだ。僕は「これが当たった。お父さんにあげる」といって、一日三箱タバコを吸うお父さんにジッポをプレゼントした。ジッポを貰ってお父さんは何となく嬉しそうだった。
平次君の家は部屋がとっ散らかっていて汚かった。一階の居間には本、書類、二階のベッドには人形や小さなオモチャなどが散乱していた。その平次君の家に仙台君という人と泊まりにいったことがある。僕は季節には無頓着な人間だが、この時の季節はよく覚えている。何故なら、僕の母がシャーベットアイスクリームを、息子を泊めてくれたお礼に持ってきたからだ。僕と平次君と仙台君はシャーベット(半分食べたところで、ふたつにぽきんと割って食べるやつ)を食べた。僕たちはシャーベットを一本食べ終えると、もう一本食べた。欲張って、全部で三本くらい食べたかもしれない。
最も、この時に何をしたのかについての記憶が無い。宮崎駿の「風の谷のナウシカ」を観たような気もする。とにかく、覚えているのは、その夜、三人で(ひとつのベッドに寝たのか?)、僕だけがふたりと逆さまに寝かせられた記憶がある。親友からも差別的に扱われるのかと思った記憶がある。
仙台君という友達は、自分が「会津」の人間だということを誇りにしていたようだ。当時、僕は会津といわれても何のことだかわからなかった。でも、彼は祖父のことについて熱く語っていたように思い出される。(ふるさとがあり、ふるさとにプライドを持てるということはいいことだろう。僕などは所属する場所がないのだ。文学を学んでいたら、ロシア文学やんフランス文学の方が浩瀚でスゴイと思ってしまうし。僕ももう一度日本史を学びなおし日本に誇りを持ちたいと思う)
その仙台君の家に遊びにいったことがある。細長い居住スペースをしたアパートだった。彼は、その二階に一部屋、自分の部屋を持っていた。彼は机の下からだか、大小様々なエアガンの箱を取り出した。その時、平次君も遊びにきていたのだが、何にでも好奇心を抱き博学な平次君はエアガンの話もマニアックに仙台君としていた。そして僕たちは窓を開けて、電線にとまったカラスを狙撃した。またある時はエアガンで合戦をしたりもしたが、間もなく危険すぎるためだろう、中止になった。
東京の小学校の図書館は小さかった。ほこりまみれでぼろぼろの本ばかりがあった。多分、この頃にモーリス・ルブランのアルセーヌ・ルパンの本を読んだ。変装の名人だったルパンが牢屋から脱出したり、豪邸に侵入したり、高額な宝石を悪者からかっさらったりするのが痛快で、且つ読んでいて楽しかった。それからマンガの「ハダシのゲン」という作品も読んだ。確か先生からの推薦図書だった。僕はこのマンガを涙しながら読んだ記憶がある。でも、今は悲しすぎるし、怖いから読み返せないと思う。
家族との食事の経験はいくつかある。まず自分が住んでいたある県の駅前通りのラーメン屋。それから歩道橋がいくつも並んでいた通りにある、遠くのぎょうざ屋さん。キタカタラーメン。サイコロステーキを出す個人経営の店。ステーキのドンという名前のステーキ屋。東京のある駅の裏手にある回転寿司屋。
東京の小学校を卒業するまでに行ったと思われる場所は以上がある。前の県のの駅前通りのラーメン屋ではメンマと辛いスパイスが入れたい放題だったと記憶している。お父さんが無料なんだから幾らでもいれなさいといい、お母さんはほどほどにしておかないと恥ずかしいわよという雰囲気だったようだ。
どこかの歩道橋ばかりある揚げぎょうざ屋にはいつも車で出かけた。暗い通り、オレンジ色の街灯の点いた通りを通り抜けていくとぎょうざ屋があり、そこでサクサクの揚げぎょうざを食べた。ぎょうざ専門店なだけあってサクサク具合が絶妙だった。具も美味しかった。そして帰りに店の隣りにあるゲームショップでファミリーコンピュータのソフトを買って帰ったのを覚えている。ボンバーマンと野球のゲームを買った記憶がある。野球のゲームは簡単にできていて馴れればコンピュータ相手に幾らでも勝てるので面白かった。
後、キタカタラーメンでは辛いラーメンを食べた。食前によく冷えたライチが出てきて、待ち時間を不思議な味覚で楽しめるように工夫されていた。
又、サイコロステーキでは何グラムの肉でお腹が一杯なるとかが家族の話題になった。個人経営の店なので、店の雰囲気、器、味などが独特だった。
ステーキのドンは大きな店だった。余りどんな感じだったのか覚えていないが、とにかく頻繁にドンには食べに行ったのを覚えている。
で最後に回転寿司だ。僕は気が小さくて大きな声を出して注文することができないから、親に頼んで寿司を注文してもらった。マグロが一皿百円だったからマグロばかり注文していたら、この子はマグロが好きな子どもだよと親に云われて狼狽した。子供心に遠慮したから高いものを頼まなかっただけで、本当は一皿三百円以上するトロやウニが食べたかったのだ。何となく書いていて切ない思い出だ。
でも、家族で食事をした思い出を持っているだけで私は幸せだろう。
最後に、東京の小学校の卒業式の話である。
僕には自分たちの卒業式よりも前年の、一個上の代の卒業式の方が印象に残っている。先輩たちの為に体育館の準備をする。掃除をし、パイプ椅子を並べ、体育館の周りに幕を張った。(最も僕はサボってばかりだったが)そして何故かお笑いのボケみたいに卒業証書を取りにいく卒業生たちが面白かった。頼もしく思ったし、自分たちよりも生気みたいなモノが感じられた。一個歳が違うと人間変わるのかもしれない。
で、僕たちの卒業式の話だが、唄を歌ったりしていると感動してきた。段の上にあがってお別れの寂しさに涙している女の子もいた。僕たちの代の子はお笑いのボケみたいにして、卒業証書を貰う人はいなかったように思う。僕自身は人のことより自分の心の動揺の方が勝ってしまい、卒業証書を貰う為に壇上にあがるのが恥ずかしかったのを覚えている。
卒業式の後、友人たちと校門で「さよなら」を言い合った。とりわけ別の学校に進学していく友との別れが寂しかった。岡本さんも卒業式の後は優しかった。いざ別れとなると人間は優しくなれるのかもしれなかった。
そういえば卒業式の日は小降りの「雨」だった。女の子たちは傘をさしていて、僕たち男子は傘もささずに一様に佇んでいた。なんだか侘しい光景だった。
(了)