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salamander  作者: 柳岸カモ
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8


沈黙、数秒。

 

ちくしょう…何にもならない…


困ったとき唱えたっていうのに!


涎がだらりと顎を伝う。

息が苦しい。


転がり落ちたら、地獄。

このままぶらさがったままでも、地獄。


もういっそ落ちてしまったほうが楽に違いない。

でも、でも、あいつの粘膜で滑るのはゴメンだし、

でも、でも、でも、もう、もう左手がちぎれる。


もうダメだっ…ぁ…お、ち、る…



と、思った瞬間。

ぐいっ上に引き上げられる感覚と共に

「坊や、何してる」と、あいつの声。


一三階の床から扉が開き、やつが俺の左手を取ったのだった。


一瞥いちべつ、まさにトカゲの微笑み。


僕は引き抜かれたにんじんのように高々とヤツに持ち上げられ、

美しい顔とばっちり向かい合う。


「こんなによだれを垂らして。坊や、何してた?」


そっと顎をつかまれ、息も絶え絶えの顔を覗き込まれる。


「一ちょう前にサラマンダー気取りか?」


ヤツはそうささやいて、

僕のだらしなく開いた唇を自分のそれで塞いだ。


「んっ」


ぞくっとしたのは一瞬で、

その後はただただされるがままだった。


嫌悪感? 

いや、それはない。

冷めた視線に、ひんやりとした粘膜、冷酷な態度。

それとは相容れない、暖かな唇。


「まさか、この扉に張り付くのがはじめてとはね」

ゆっくりと唇が離れ、見たこともない穏やかな瞳でやつが微笑む。


「ちがう、張り付いてなんて…」

ん?

と聞き返したヤツは妙に笑顔だった。

「…僕は、お前とは違う」

おや、と不思議そうな顔を一瞬見せたヤツが、また不敵に笑う。

「坊や、手がネバついているのに気付いていない?」


(手?)


くいっとヤツに左手をとられ、

自分の掌を目の前に差し出される。

「あ…」

眼前の僕の掌から、とめどなく液体が溢れて出ていた。

てらてらと光るそれは、間違いなくこいつの出す粘液と同じものだった。


「ね?」

「これ……」


予感がなかったわけではない。


最近どうもおかしいと感じてはいた。


異常なほどのママへの執着心。


加えてこいつへの嫉妬心。


誰かに仕組まれているのかと思うほど、

自分の感情を制御できなくなっていた。


今までずっとコイツのことが嫌いだったのは、確かだ。


でも今日は…今の僕は…


ママを取り返したいという気持ちにカコ付けて、

コイツを越えたいっていう気持ちがあった…


それは間違いのないことで。


「今、ママが眠ったところだ。静かに眠れるんだったら、ベッドへ行きなさい。」


やつが顎で示すベッドを見た。

長い髪をまとって、ママがやすらかに眠っている。


「でも、ここは、入っちゃいけないって…」


…戦意、喪失。


完全に僕の負けだ。


「坊や。君はわかっていて扉をあけようとしたのだろう?」


やれやれという風にやつが髪を掻きあげる。


「…ご、めんなさい」


「なぜ謝る?」


「え」


「なぜ、入ろうとした? そしてなぜ、謝るんだい? 危ないとわかっていたろうに」


やつが試すように僕を見下す。


「…マ、ママが、好きだから」


もごもごと答える。


「それはパパもだ。理由にならないさ」


立ちふさがるヤツの目は穏やかだ。

いつもの見下す目とは少し違う。


……本心を言う必要が、あるのだろうか。


「…僕は、お前に負けない」


ためらいがちに言うと、やつは「ふっ」と笑って

「お前とは?」

と、また試すように問うてくる。


そんなのわかりきってる。「お、お前だよ、おま」

「え」と言いかけて言葉が途切れ、ヤツに抱きすくめられた。

長い腕が僕の背で交差し、温かさがじかに伝わる。

ヤツのとろけるような髪がふんわりと顔にかかって、

そこから放たれる甘い香が鼻の奥をついた。


ママの香り? 

いや、こいつの香りだ。

ママを誘う時と同じように膝をついて、

僕の肩をぎゅっと抱くトカゲ男。


僕はあらがえないまま、抱きしめられていた。


「それでこそだ、坊や…愛してる」


あいつがそっと耳元でささやく。

息が耳にかかって、

全身が粘膜につつまれているような感覚になる。


「よくできました。…さ、ママが待ってる」


そう言って僕を解放したやつは、

やはり穏やかな目で僕を見おろしている。


目がそらせずにじっとしていると、ヤツが僕の髪を撫でる。


「歩けないか?」

「う…」


こくっと頷いた僕をさっと抱きかかえ、

トカゲ男はベッドへ向かった。


ママの眠るベッドは今まで見たこともないような大きさの代物で、

蒼白い光を持っていた。


ふわっとケットをまくってヤツが、

「さ、坊や」と僕に入るよう促す。


もぞもぞ中へもぐると、

ママの髪がビロードのように広がっていた。


「さ、ママを起こさないように、寝てしまおう」


ママの隣に、僕。

僕の隣に、トカゲ男。


ヤツはベッドからはみ出しそうになりながら入っている。


「坊や、いいかい?」

小声でささやくヤツの方へ顔をむけると、また抱きすくめられた。

「キミはサラマンダー」

「サラマ…」

「情熱をつかさどる、おちびさんさ」

ドキリとした。

それは、あまりに悲しい声だったから。


「いや、だ…」

「パパのように、なりたくはない?」


やつの燕尾のジャケツの胸元が、蒼白い光の中で輝いて見える。


「なりたく…ない」

「でも、明日から坊やも、天井を這いずり回りたくてしょうがなくなる」


がばっと起き上がって「うそだ!」と叫ぼうとする僕を、

なだめるようにヤツがベッドへ押し戻す。


「しっ、ママが寝てる」

人差し指を僕の唇にあて、ちらっとママへ目を配る。

また僕へ目を戻すと

「坊や、愛してる」

とささやく。また甘い声だった。

「う、るさい…」

なぜだろう、涙がこぼれた。

それを見咎められ、長い指で目尻をぬぐわれる。

「大丈夫、坊やは坊や。何も変わりはしない」

あやすように言うやつの声が、少し震えているように聞こえた。

泣いている?


「僕は、人だ…」

「そう。そして、トカゲでもある」

「いやだ!」

「こら、静かに、な」


またヤツが、僕をベッドに押し戻す。

「ママはサラマンダーのパパを愛してくれた。

 坊やも、愛してくれる人が、きっといるさ。

 それにパパもママも、坊やを愛してる。」

「…そんなこと、言わないで」

「今日は坊やがサラマンダーになった日。おめでたいことなんだよ?」

「…もう、言わないで、お願いだから…」


涙が止まらなかった。


こうなる日が来るのはわかっていた。


いつか、僕の体からネバネバしたやつが出てくるようになること。


僕がコイツと同じように壁や天井を這いずり回る日が来ること。


でも僕は今まで、目をそらしてきた。


こいつと同じになるのがいやで。

ママに嫌わるのが恐くて。


「坊や、恐いんだね」


抱きしめているヤツの腕にしがみついて、嗚咽を殺した。

「僕は、くっ…トカゲじゃない…」


ふううと長い溜息がヤツの口から漏れ、僕の前髪を揺らす。


「坊や、夜は誰でも感傷的になるものさ。

 さ、眠ってしまおう。

 今夜はパパが、抱きしめててあげるから」


チュっと僕の額に口付けをして、やつは黙った。

そのまま眠りについたのか、

しばらくすると、すやすやと規則正しい寝息が聞こえはじめた。


僕はその寝息をききながら、眠りに落ちていった。







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