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salamander  作者: 柳岸カモ
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そして今。

僕は一三階への唯一の入り口――天井についた扉――へと手を伸ばしている。


「あと、あと、す、こし…」


中指か、人差し指か、かすかに天井に触れそうな感じ。

(この扉のむこうへ、行くんだ。)


トカゲ男からママを救いたい。

ママを、取り返したい。

いつもいつも、幼いころ(と言ってもまだ僕は9歳だけど)からずっと思っていたこと。


ぐっと足先に力を込めて、背筋を伸ばす。

腕から首から、全ての神経が伸びに伸びた。


(届けっ…)


そんな必死の願いが通じたのか、

それとも一瞬にして僕の身長が伸びたのか、

次の瞬間扉に手が触れた。


(「やった!」)

と、叫んだ途端、

体を支えていたイスががたっと音を立て床に転がり、僕は足場を失う。

あっ

と言う間もなく僕はイスから転げ落ちた。


と思った。

でも神は僕を見捨てなかった! 

僕の伸ばしに伸ばした左手は、天井についた扉の取っ手をしっかりと握っていたのだ。


(よ、よかった…)


今までの苦労が水の泡にならないで済んだこと、

イスから転げ落ちて痛い目に合わずに済んだこと、

あといろいろ、いろんな意味で僕は神に感謝した。


なにより、

このまま取っ手を引けば、おのずと十三階へ行ける!


幸いにして体を支える左手はまだまだ元気で、

体全体を支えているとは思えないほど、痛みも重みも感じなかった。

扉を開けるのはたやすい。

このまま引けば大丈夫。いける。


…って、アレ?


もしかしなくてもこれ、押すタイプの扉?


僕がぶら下がってて開かないってことは、

押さなきゃ開かないってことか?


しまった……この状態じゃあ、絶対に押せない。

不可能だ。


残念ながら僕は、ルパンじゃない。

ましてやあのトカゲ男みたいに魔法が使えるわけじゃない。


…ちくしょう、このままどうしたらいいんだっ


イスの脚が高かった分、降りるに降りられないはずだ。

下をちらっと見る。



予想通り、高い。


はっ

よく見ると、床にはあいつが残していったのか、ねらねらと光る粘液がかすかに見えた。

(だからイスが揺れたのか!?)

やつの周到なまでの嫌がらせに呆然としながらも、高さにおののく。

…こ、こわい。


そう思った途端、左手に痛みが走った。

ずしんと体中の重みがかかった左手は、取っ手を握ったまま硬直してしまった。

なんてことだ。

背中を一すじの汗が流れる。


キーホルダーのように天井からぶらさがった僕。

体は完全に硬直し、床に転がったイスだけがカタカタと不安気な音を立てた。

粘膜の上に転がったせいだろうか、小刻みに揺れ続けている。


と、いうことは…? 


また、はっとした。


ということは、今僕が床に落下したら、粘膜で滑るのではないだろうか?

今まで軽やかにかわしてきた

「粘膜ですってんころりん」

を、まさに体験することになるのではないだろうか…?


(そんなの、カッコ悪すぎる!)


と、威勢よく思ったのは一瞬で、

次の一瞬で、もう何もかもどうでも良くなっていくような、諦めにも似た気持ちが溢れてきた。


トカゲ男に、僕は叶わない……


全身が痺れてきた。

もう、ダメだ。

僕はなんで、こんなことをしてるんだ?

ママを救う?

 何のために?

   あいつが憎い?

いや、

今までだってずっと、こんな調子だったじゃないか。

あの男の横暴さも、卑劣さも。

わかりきったことじゃないか。 


ぎりぎりと左手が悲鳴をあげる。


(あいつなら、こんな不様なかっこうにはならないんだろうな、きっと)


痛みが度を越して、笑いがこみあげてくる。


「ふ、ふ。あははは……」


目をかたく閉じる。

このまま待ったってどうにもならない。

…落ちる覚悟を決めよう。


この時僕は、浅はな自分の思い付きを呪った。

最近、「急に身長が伸びた」とママが言ってくれたのをいいことに、

前々から目をつけていた花台の椅子をわざわざ6階から運んできて、

あいつのいる一三階へ忍び込もうなんて。


そしてこれだ、この不様な恰好。


こんな姿あの男に見られたら、鼻で笑わるに決まってる。

ママだって、僕を情けなく思うだろう。

でも、でも僕は今日、ママを救わなくちゃならないと思ったんだ。

理由なんてわからない。

衝動的にあの男からママを奪いたくなった。

あいつのツンとした鼻をへし折って、

今度は僕が、ママをさらうんだ、と。


まぁ、今さら何を思っても始まらない。

この状況から目的を達成するのは、もう不可能だ。


諦めの気持ちが、心を支配していく。

僕は人の子で、トカゲ男になんてかなうはずがなかったんだ。

そう思う。

でも、なにかもやもやとしたこの感情が、

僕の左手を、ドアの取っ手に繋ぎとめている。





(「いいかい坊や?」)

ふっと、昔の記憶が走馬燈のように甦った。


(「善なる火を燃やし、悪なる火を消し去る」)

あいつの言葉。


僕の耳元でささやく、甘い言葉だ。


(「それがキミの力。いいかい?」)


僕がまだママのおなかにいたころの、幻。


(「困った時は、この言葉を唱えるんだよ、坊や」)


ぼんやりと浮かんだ光景。


ママがゆり椅子に腰掛けている。


その横でママの手を握り、あの男がささやいている。


ママのおなかはぽっこりとふくらんでいるようだ。


おなかのふくらみは、僕?


(「いいかい、僕の坊や。」)


違う。僕は…




「…ぜんなるひ、を、もやし…あくなるひを…あぁっ」


左手が限界だ。ぶるぶる震えてしまう。


(坊や、いいかい? 困った時は唱えるんだよ。)


ママのおなかにいるときから聞かされた言葉か。

ノドが震えて、自然にその言葉が出る。

「けっ…しさる…」


トカゲ。火の精霊。


でもまだ僕は、9歳。


僕は、トカゲと人の間にいるんだ。


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