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授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
容赦なくペンをしまうガチャガチャが響いて、教師の声が掻き消されてゆく。
ほっとした。
(やっと帰れる。)
粘つく左手でノートを閉じ、荷物をまとめて、帰る支度をする。
誰かに気付かれる前に、帰らなければ……
そんな僕を、窓にもたれたドーイがニヤニヤしながら見ていた。
「おいトカゲ、お前がジョーを殺ったんだって? 可哀想に。なぁ、みんな?」
ドーイのとりまきがクスクスと笑う。
(馬鹿にしにきた。)
生憎僕には、彼らの相手をする余裕がない。
なぜって左手が限界だからだ。
もう、いつ火が吹き出てもおかしくない感じがしていた。
やつらには構わず、机の中のものを取り出し、鞄に詰め込む。
鞄のなかみは、どれもこれも僕が触ったものは全部、左手からあふれ出る液体がついてべとべとだ。
(家に帰って拭かないと…)
そう思って、最後の一冊、美術のテクストを乱暴に引き抜いた途端、
机の中からぴょろん、と一匹の蜥蜴が飛び出した。
体をくねらせながらザラザラと机の上を這い回ったかと思ったら、ぴょろんと机の中へ入って、
と思ったら、またぴょろんと中から飛び出て、ビタリと床へ落下した。
とつぜんのことに目を白黒させる。
でも、途中からドーイたちの笑い声が聞こえはじめ、その意味を理解した。
かっと苛立ちがこみあげる。
「…なんだよ、これは!」
「いいだろ、それ。お前にやるぜ? はははははっ」
ドーイが高笑い。嫌な声だ。
悪趣味にもほどがある。
「いらない。トカゲなんて…バカにするな」
掌を握って小さく呟いた。
ねちゃっという感触が左うで全体に伝わる。
左手のうるおいが、さっきより多くなっているような気がする。
…やばい。
止まらなくなっている。
「仲間だろ、仲良くしてやれよ」
ドーイが近付いて、耳元でささやく。
オレンジガムのにおいの息が首にかかる。
胃がムカつくような匂い。
「くちゃくちゃ」と噛む不快な音。
ぱっと鳥肌が立った。
「仲間じゃ、ない…」
そう答えるのが精一杯だった。
手の震えがとまらない。今にも左手から何かが出そうだ。
「そうか? じゃあ…」
ドーイが不敵に笑った。
その歪んだ笑みにハッとする。
まさか…
「やめろっ!」
遅かった。
次の瞬間、床でにょろにょろと動いていたトカゲは、ドーイの汚い靴に踏みつぶされてしまったのだ。
容赦なく床に擦りつけ踏むドーイ。
まわりのやつらが「ひゅー」と無責任な歓声をあげてはやし立てる。
「おまえ、なにして…やめろよっ」
ぐちゃぐちゃとドーイの足許から粘着質な音が聞こえてくる。
耳を塞ぎたくなるような音。
ドーイは冷めた目で床を見ながら
「蜥蜴ちゃん、お仕置きだよ?」
と唇の端を上げて笑った。
その表情にぞっとする。
(「た…助けて…サラマンダー…」)
どこからともなく聞こえた声。
悲痛なその声の主は、踏まれている蜥蜴…?
(「痛いよぉ、助けてぇ…」)
よわ弱しいその声は、僕に助けを求めていた。
やっぱり足の下の蜥蜴の声に違いない。
「やめてっ…」
思わず耳を塞ぐ。
(僕はっ、僕はドーイの足をどかしてあげられないっ…!)
左耳の中で「ねちゃ」という水音が響く。
手からは信じられない量の液が溢れ出てきていた。
腕をつたってシャツの袖の中へ染み込んでいく。
(「サラマンダー、お願いだ……その手で…その手でこの足を焼いて!」)
僕には右耳を塞ぐ腕がない。
だから掠れた声が、右耳から頭の奥まで響いてくる。
「どうしたトカゲ。真っ青だぜ?」
ドーイが笑う。
このままじゃ液が出つくして、火がふき出す。
いつドーイが僕の左手の異変に気付くかわからない。
動揺すると、左手がじくじくと痛んだ。
い、いけない。
ここで火を撒き散らしたら…
火を出すことを知られたら…
「もう、い、い、たくさん、だ。そいつは、僕がもらぅょ…」
体を震わせ、ドーイの目を見る。
左手を耳にあてたまま許しを請う。
屈辱だった。
「ぺっ。とんだ根性なしだな」
屈服した僕の表情に満足したのか、ドーイが足をどかす。
尾と頭が胴体から切れて、くちゃくちゃになった蜥蜴の死骸が、そこにあった。
「ぷっ」
ドーイと仲間たちが吹き出す。
「あ〜ぁ、トカゲ。また殺しちまったな、オ・ト・モ・ダ・チ。はっ、はははは、可哀想によぉ」
ドーイは大声で言うと「いくぜ?」とまわりのやつらに目配せし、
さっさと教室から出て行った。
(終わった…)
と思ったのもつかの間、
入れ替わるようにして今度は学級長のミカエルがやってきた。
つかつかと僕に歩み寄り、めちゃくちゃに怒鳴り始める。
「君! 教室でこんな不道徳なことをして、一体どういうつもりなんだい?
ときに君、ジョー君を焼き殺したそうじゃないか、え? これは先生方に報告させてもらうよ?
さぁ、この汚物(と言ってミカエルは蜥蜴の死骸を指差した)を始末したまえ。
そして床をキレイに清掃するんだ!さぁ、はやく!」
一通り言い終え、ミカエルは「ふんっ」と鼻を鳴らして教室を出て行った。
たぶん、指導教室へ行くんだろう。
あいつは先生達の憩う指導教室が大好きなんだ。
そして風紀を乱すクラス成員――その筆頭は僕だけど――を排除しないと気のすまない、融通の利かないやつ。
しだいにミカエルの足音が消えていった。
それにあわせて僕の胸のざわつきも、だんだんと落ち着いていく。
ややあって教室に誰もいなくなった。
ふううと大息をついて、そっと床に膝をつく。
掌を見ると、もう液は出ていない。
カラカラだ。
さっきはドーイに挑発されて、垂れ流してしまったのだろう。
本当にあと少しで火を噴くところだった。危なかった。
でも、今はもう、大丈夫。
無惨な蜥蜴の死骸に乾いた手をかざし、僕は目を閉じる。
そして
(『善なる火を燃やし…、』)
そう念じると、蜥蜴の死骸からしゅるしゅると煙が昇って、一瞬でぼっと火がともった。
小さく微笑んで
「ごめんよ、僕のせいだね?」
炎がすっと僕の手の中に入って、火が消える。
燃えた蜥蜴の亡骸の前で、そっと十字に左手を切った。
その後は、床に残った灰を手で集め、ハンケチに乗せて包む。
それを窓の外へ撒いた。
ざーっと灰が風に流れてゆく。
「ごめんね」
小さく言って、その風を見送った。
『サラマンダー』
僕の名前、「サラ」の由来。
綴りは「s-a-l-a」。
火の精霊サラマンダーのことだ。
僕は十歳の時、サラマンダーになった。
善なる火を燃やすこと、そして悪なる火を消し去ること。
できるのはたったその二つ、それだけ。
それは右腕を持って生まれてこなかった僕に神様が与えてくれた、ささやかな力、らしい。
風に乗って流れていった灰が見えなくなった。
僕は荷物をかかえて、よろよろと放課後の教室を後にした。
†
それからまた一週間たって、ひょいとジョーが帰ってきた。
「ただいま」
ジョーはそう笑って、僕の肩をぽんとたたいた。
まるで何もなかったかのようにジョーは復学した。
学校は「生徒様の復学」について、一切何も報告はしなかった。
みんな自主休学には大賛成だったらしく、ジョーにねぎらいの言葉をかけたりしていた。
クラスメイトにねぎらわれているジョーの後姿を、不思議な気持ちで僕は眺めていた。