魔術師の湯
ダンジョンを抜けるとそこは銭湯だった。
その日も、ワグナードは溜息を吐いていた。
数体の木偶人形が持ってきた報告によって憂鬱な気分にさせられていたのだ。
「いや別にお前さん方に落ち度があるわけではない。寧ろ非常に良くやってくれていると思っているぞい」
落胆した主人の様子を見て、立ったままうなだれた姿勢になってしまった木偶人形たちに一応フォローを入れる。
ただの木彫り人形に間接球と魔力を与えただけの彼らだったが、犬よりも賢く、非常に働き者だ。
こちらの愚痴を、嫌な顔ひとつせず(顔自体ないのだが)聞いてくれもする。
人嫌いが高じ、孤独な隠遁生活を送るワグナードにとって彼らは欠かせない存在だ。
「……」
問題は足前に転がっている数体の死体である。
どれもこれも石焼き釜に入れたまま放置した後のように黒焦げになっており、人相すら分からない。
恐らくは地下十七階の火蜥蜴にでもやられたのだろう。警告文も用意していたので同情の余地はない。
彼らは不法侵入者だ。
冒険者を名乗り、ワグナードの研究成果や命を奪いにきた不敬の輩なのだ。
このところこのようなならず者が増えてきており、ほとほと手を焼いていた。
「今回は地下十八階の倉庫が荒らされたそうだな。あそこには毛生え薬の製法についての資料を蓄えられていた。一から研究をやり直せねばと思うと、非常に遺憾だぞい」
ワグナードが革張りの椅子に深々と腰掛け、気を紛らわそうとパイプの吸い口を噛んだ。
火をつけようとしたが禁煙していたのを思い出し止める。以前に火事になり大切な木偶人形が焼けそうになった事があったのだ。
ふと顔を上げるとその時の被害者である頭部の一部が黒墨になった木偶人形が前に進み出てくる。彼は何か言いたげに一枚の羊皮紙を差し出してくる。
見ると人相書きがあった。
侵入者が持っていたものだろう。
そこには頭頂部にのみ白髪を残した老人が描かれている。非常に凶悪そうな顔つきをしていたがそれがワグナード自身なのだと分かった。
「また懸賞金が上がりおったのか……!?」
『生死は問わず』という決まり文句の下には、何かの冗談のような桁が記されている。それは近隣諸国の住民が一族郎党末代に至るまで遊んで暮らせるだけの額だった。
これでまた侵入者が増えるのだろう。
そのせいでワグナードはつまらない雑用に時間を割かれ、趣味である魔術研究に没頭できる時間が減らされる事になる。
警備体制を維持するだけでも一苦労なのだ。罠には工事と整備点検の手間がかかるし、魔物を配置するのにもまず召還で体力を消耗し、次に躾に手を焼く事になる。
迷宮管理は結構大変である。
自分は犯罪者ではない。誰にも迷惑をかけた覚えがない。ただこの地下迷宮で静かにひっそりと暮らしていたいだけなのに、何故放っておいてくれないのだろう。
頭を抱えうなだれていると何かが零れた。
古びた木札だ。
角が削れ丸みを帯びた、それには焼き印で、この世界ならざる文字が刻まれている。
『松の湯♨』
それを見たワグナードは「かぽーん」という、タイルに桶が当たる音がを聞いた気がした。
無言で木札を拾い上げると、カーディガンのポケットにそっと戻した。
それから木偶人形たちに声をかける。
巡回警備の強化に百体、死体の後片づけに五体、荒らされた倉庫の資料回収と片付けに二十体を配置させる。代わりに魔物たちの餌やり係を減らす。連中は適度に飢えさせなければ役に立たないからだ。
その他の者たちはいつもどおり日次業務を命じる。
これで午前中いっぱいは運営に支障がないだろうという状態にすると、ワグナードは執務室のドアノブに『留守』の札を下げた。
「すまんが後を任せるぞい」
◆
ワグナードには息抜きが必要だった。
この堆積する面倒事に立ち向かうには今のままでは無理だ。
まずは身も心もさっぱりしなければいけない。、
その手段には何よりも風呂が打ってつけだろう。勿論、地下迷宮の窮屈な浴槽は却下だ。もっと広々とした湯船にゆったりと浸かりたい。
『旅人の間』を訪れ、転移魔法陣に踏み込むと、周囲の景色があっという間に変わり、暗がりの通路に出る。
ここはあちらとこちらを繋ぐ連絡路だ。
一見さんか許可証を持っているものしか通ることの許されない魔の小道。
かつて大魔術師と呼ばれていたワグナードでさえも断片的にしか伺い知ることのできない超絶的魔術によって生み出された空間である。
だが今そんなことはどうでも良い。
ワグナードは歩きながら胸元から懐中時計を取り出し確認する。
まだ午前中。
松の湯は恐らく営業を始めたばかりの頃合いだ。今ならばまだ客は少ないはず。
期待を込めて紺色の暖簾をくぐり抜け、あちら側にある公衆浴場の受付に辿り着くと、まっすぐ番頭台へと向かった。
あくびを噛み殺した金髪の女の子がいる。
彼女は丁稚奉公の子供のようにしか見えなかったが、この銭湯の実質的な権力者だ。
彼女はこちらに気づいて、冷たい目つきをぎろりと向けてきた。
ワグナードはこの番頭さんが得意ではない。
彼女は、怒らせたら物凄く怖いのだとか、なかには『出禁』にさせられた者もいるのだとか色々な噂を聞いていたせいだ。
だからいつものように頑張ってぎこちなくではあるが笑いかける。
「や、やっとるかの?」
「やってるよ」
「で。では魔術師ひとりだぞい」
「あいよ。七十ゲルンだね」
番頭さんから手拭いとタオルを受け取ると、ワグナードはそそくさとその場を離れ、男湯へと向かった。
心のなかには期待が浮かんでいた。
もしかしたらあの広い湯船を独り占めできるかもしれない。誰にも邪魔されずゆっくり湯につかれるかもしれない。そしたらこっそり泳いじゃうかも。やっほう。いや、だがそれはいかんぞ。礼節に欠ける行動は慎まなければならん。いやしかし。
そんな事を考えながら、いそいそと衣服を脱ぎ、丁寧に畳んでからロッカーにしまい、手拭いだけをもって浴室へと踏み込んだ。
◆
「ようワグさん、奇遇だなあ。また会っちまったか」
結論から言うとワグナードは一番風呂には入ることができなかった。
残念ながらすでに常連がいたからだ。
ゲンである。手拭いを捻り鉢巻きにする初老の男で、日焼けした肌と、がっしりした体つきの持ち主だ。
「……ぞい」
ワグナードがしょんぼりしながら湯船に入ると、ゲンがかっかっかと笑いながら近くまでやってくる。
できれば独り静かに湯に浸っていたかったワグナードは愛想笑いを浮かべながら少し距離をとった。世話焼きで気さくな男だったがそもそも自分は人間嫌いなのだ。
「どうだね最近の調子は?」
「ま、まあまあじゃぞい」
「でも御近所さんとうまくいってないんだろ? この前、敷地を荒らされて困ってるとか言ってたじゃないか」
「……まあの」
ワグナードは溜息を吐いた。
御近所さんというのは近隣諸国の事だ。
こう見えてワグナードは不老長寿の研究成果によって人よりも遙かに長く生きながらえている存在である。
周辺がまだ広大な森林に囲まれていた昔から地下迷宮に居続けているいわば先住者なのだ。
にもかかわらず後からやってきた人々が断りもなく木々を拓き、周りに国を興し始めた。それだけならまだ大目に見ても良かったが、彼らはワグナードの存在に気づくと余計なちょっかいばかり仕掛けてくるようになったのだ。
まず始まりは木馬の国の初代国王だ。
ワグナードを宮廷魔術師として召し抱えようとしてきたので、嫌だと断ると『悪しき魔術師』という汚名を着せ、刺客を放ってくるようになったのである。
続く災難は土竜の国だ。
あそこは激しい親族争いと、疫病のせいで滅亡したのだが、その原因をいつの間にか押しつけられてしまった。『悪しき魔術師』の謀略と、魔術によって滅びたのだという歌を、吟遊詩人が今も広めて回っていた。
そして極めつけは風見鶏の国の冒険者組合だ。
彼らがこれらの件に便乗。
『悪しき魔術師』の討伐という名目を得て、ワグナードの懸賞金や財産、果ては研究成果までもを狙って毎日のように侵入者たちが訪れるようになった。
「おまけに変なあだ名までつけられてしまう始末だぞい」
覚えている限りでは『狂乱の大魔導師』、『傾国の傀儡師』、それから『恐怖の大魔王』だ。
どれも大仰で厨ニ臭するので物凄く恥ずかしい上、非常に世間体が宜しくないものばかりだった。
どこかでそう呼ばれているかと思うと、身を捩って紐のようになって死にたくなる気分だった。
「だがよう」とゲンが口を開いてくる。
「必ずしもそいつらだけが悪いとは言えないかもな」
「な、何故じゃぞい?」
思わぬ言葉にぎょっとする。
ワグナードはそう言われ、心当たりもないのに、自分が何か悪いことをしていたかもしれない、という気分にさせられる。
「だってワグさんて無愛想だもん」
「ぶ……」
「陰険そうだしさ」
「い……」
「あだ名の件もあれじゃねえかな。そいつらなりにあんたと距離を縮めたくてつけた愛称なんじゃないのかい?」
「絶対に違うぞい!」
「まあ嘆いたって相手がどっか行ってくれるわけでもないだろ。人間こみゅにけーしょんちゅうのが肝心なんだぜ。一度腹割って話し合ったらどうだい?」
「……」
「大抵の奴は酒飲んで話せば仲良くなれるもんだぜ」とゲンが杯を口元に運ぶ仕草をしながら言ってくる。
恐らくゲンは親切心で言ってくれているに違いない。
実際に彼はそうして、多くの人々と仲の良い関係性を気付いてきたのかもしれない。
だがそれは彼の考え方であり、生き方だ。
それを押しつけられる言われはない。
ワグナードにはワグナードの生き方がある。
他人に迷惑をかけているわけでもないのにそれを改めるつもりなない。
何より事情もろくに知らないで、好き勝手言われるのは堪らなく不愉快だった。
「わし、そういうのが苦手じゃから隠遁しとるんじゃもん」
ワグナードは立ち上がり、そう言い捨てると湯船から出る。
まだ身体は温まっていなかったが、今日はもうこの場には居たくはないという思いから、浴室を後にする事にした。
◆
ろくに水滴を拭いもせずにとぼとぼと脱衣所に戻ると、ロッカーから取り出したタオルで力なく身体を拭いて、股引を履いた。
人が嫌いだった。
ずがずかと人様の領域に土足で踏み込んでこようとするデリカシーのない連中が嫌いだった。
放っておいて欲しい。自分は独りになりたいのだと大声で叫びたかった。
それからいつもの場所へと向かう。
脱衣所の隅にはいつものように赤い椅子が置いてある。革張りで背中部分には小さな滑車が左右に並び突き出ている絡繰仕様。
按摩椅子。
それこそがワグナードに残された最後の安息の地だった。
「今日も宜しく頼むぞい」
そう声をかけいつものように深々と腰掛けると、蝦蟇口財布から銀色の硬貨を二枚取り出して、椅子の脇に付属している鉄箱の穴に投入した。
こうするだけでワグナードを至福の時間へと誘ってくれるはずだった。
だがおかしい。
どれだけ待っても滑車が動き出す気配が一向になく、それどころか内部の歯車が作動している音すら聞こえてこない。
使い方は間違っていないはずだ。
仕方なくもう一度、料金の投入を試みる事にした。
だが蝦蟇口を開けると、汚い茶色の硬貨しか見つからない。こいつは『じゅうえん』。銀色の十分の一の価値しかないやつだった。
更に運の悪いことに手元が滑り、床に中身をばらまいてしまう。
情けない気持ちになりながら床に膝をついて一枚一枚した。
だがどれだけ数えても汚い茶色は十九枚しかない。
これでは足りない。両替をしても按摩椅子を使用することができない。おまけに今日はゲルン硬貨も持ってきていなかった。
「うぐ……」
ワグナードは蝦蟇口を握りしめふるふると震えながら、泣き出しそうになってきた。
だが涙を堪える。
脱衣所に他に人がいることに気づいたからだ。
番頭さんだ。
彼女が番頭台から頬をつきながら、いつもの無表情でこちらを見ている。どうやら一部始終を見られてしまったようだ。
ワグナードは情けない姿を晒したことへの羞恥心から、狼狽える。
「……」
番頭さんが無言で番頭台から降りてきた。
相変わらず目つきが怖かった。
どういうつもりなのかは分からないが、こちらに向かって歩いてくるようだ。
もしかしたら彼女は怒っているのだろうか。
いや、きっとそうだ。按摩椅子が動かなかったのでワグナードが壊したのだと早とちりしたに違いない。
地下迷宮にこもって向こう、言いがかりをつけられ、濡れ衣を着せられ、酷い目に遭ってばかりの人生なのだ。
弁償させられるだろうか。
いやそれならばまだいい。最悪は『出禁』だ。二度とこの銭湯に来れなくなってしまうに違いない。
それは嫌だ。弁解をしなければいけない。
だが口がうまく回らない。「あわあわ」という言葉にならない言葉しか出てこないのだ。
番頭さんはそのままワグナードの脇を通り過ぎていく。
そして按摩椅子の前に立つと、暫く腕組みをして眺めた後、何を思ったのか料金箱に向けて「てい」と手刀を放った。
かしゃんという音がした。
按摩椅子が動き始める。何事もなかったかのように背もたれの滑車がゆっくりと上下していた。
「こいつは旧式なんだわ。昭和生まれだから二十回に一回くらいは動かなくなる」
「そ、そうなのかぞい」
「ほら、飲まれたの見てたから座っていいよ」
「よ、よいのかぞい?」
「まあ爺さんと一緒でおんぼろの銭湯だけどさ、楽しんでってよ」
それから彼女はにかっと八重歯を見せて笑顔を向けると、番頭台へと戻っていく。
一言多い気もするが悪い娘ではないらしい。
ワグナードはそろそろと按摩椅子に腰掛けると、背中を背もたれにつける。
湯船に浸かるのも好きだが、この椅子に座ることが何よりの楽しみだった。残念ながらこと指圧に関しては、木偶人形たちではこうはいかないのだ。微妙な力加減を知らない彼らには何度か殺されそうになった事があった。
どんな技師の発明かは知らなかったがこれはどんな魔術の奥義をも凌ぐ天才の仕事だった。
「ああ生き返るぞい」
滑車が固くなった背中を撫でつけるように滑っていく。筋肉が刺激され、凝りが解れていくのを感じていた。
そして、それと同時に自分のなかでわだかまっていた何もかもが解放されていくのを感じていく。
もう魔王と呼びたければ呼べばいい。
どうぞ自由に迷宮に入ってくればいい。
その代わり地下迷宮をもっと複雑にして、もっともっと恐ろしい魔物と罠でいっぱいにしてやる。
そして一度入ったら二度と出て来られないような魔宮にしてやろう。
「くっくっく……こうなったら誰一人生きては返さんからな」
こうしてワグナードは不敵な笑いを漏らしながら、按摩椅子のガタガタという心地良い振動を楽しむのだった。
松の湯豆知識その②
按摩椅子は『松の湯』にある昭和の遺物その1です。
高度成長第二期に設置されたままで現役というのは寧ろ凄い事と思います。
番頭さんも閉店後の清掃が終わると、ビール片手にこれに座るそうです。