3・葵学園にての日常
一夜明け、相変わらず能天気な秋の日和の中をチンタラ歩く月曜日の朝は日光が目に痛い。
それにしても、常ならず月曜病を発症することなしに登校出来ている今日だというのに、気分が優れないのはどういうことだろう。解りたくもない理由は不本意ながら解りすぎるほど解っているのだが、やっぱり理解はともかく納得はしたくない気持ちでいっぱいな俺である。ムラサキの笑顔を思い浮かべて鬱らしくなるのは初めての経験だな。
いや辛い。
そしてそれに拍車をかけちまったのが昨日の俺の行動であり、それはまた自業自得と言えなくもないのだが起点となっている業はムラサキから発症しているわけで、俺はそいつにうっかりあてられてしまっただけなためにてそれからすると俺の責任は極めて間接的なところに留まるのである。
まったく誰に似たのか知ったこっちゃないが極めて律儀かつ無垢であった俺は、雪那神宮からの帰り道、ムラサキの言葉にほいほい従って、情報収集のために本屋に寄って世界支配関連の本を探すという真正直に起因する愛すべき愚行に着手してしまった。
そして、いやはや、ひたすらうっさんくさいコーナーで意外と数多くの文献を見つけてしまいしまったと思ったまではまだ良かったのだが、そのままジト目とも言う半眼を保ちつつ朧月夜の月光の様な面持ちでその中身を吟味すればするほど、立ち読みという一手段では到底俺の脳細胞は灰色にならぬということを理解せざるを得なくなったため、しょうがない、溜め息交じりに解り易そうなのを一冊買って、悲しく財布を軽くしたのが、いまだ胸中に憂う昨日の午後の出来事である。
でもって帰宅したのち、就寝前に本を開いた俺は、やはり本来ならこの本は決して手に取ることがなかったであろう代物であったと改めて確信を強めただけに留まらず、伏せるムラサキの願いを叶えるためとはいえ、こんないい値段のするもんをほいさっさと買ってしまった自分に愛想が尽きかけ微妙に悶えるという酷く非建設的な時間を過ごすことになったのを『とりあえず運命だったんだな……』と割り切ることをせめてものナグサメとするしかないムナシサを大いに味わいつつ枕に頭を沈めることとなった。
最終的には虚心坦懐とはいかなるものかを悟るまでに至った俺を誰か褒めてくれ。
ちなみに、修飾修飾かつ文節の嵐で長ったらしい語り口になっているっぽいのは、結局昨日は目が冴えてろくに眠れなかったため、今現在の俺の頭が睡魔に飲み込まれ気味となっているせいであり、最早言うまでもなくなっているがそもそもの原因はムラサキに起因するのであって決して俺のせいではないことを再度強調しておく。
しかしていつにも増して元気減退模様な俺は、今日もダルダルに通学の真っ最中だ。
起伏も何もなくただただ平坦な通学路がこんな時にはかえってうっとおしく、さらに、恐らく我が愛すべきと言うべき私立葵学園高等学校を囲んでいる黄金色の田んぼが目に付き始めると、ことさら気落ちすること夥しい。誰か助けてくれ。
俺目線でのみ泥をまいた様なねっちょり通学路に歩くブレザー制服はまばらであり、しかもそれは今の時間が遅いという訳ではなく、とかく早いせいなのである。
何故人はこんな時に限って、かえって早くに目が覚めることがあるんだろうな。
無論もっかい寝たくはあったが、そうしてしまうといつもの時間に起きる自信などさらさらなく、結果として朝飯抜きは俺には辛い。
……寝なくても食べなくてもいいようになんないかな……。
そんなことを真剣に考えてしまうのは、睡魔のせいだと信じたい。
鈍痛交じりの目を押さえつつ校門に辿り着いた俺は、何とはなしに足を止め、空を仰ぎ見た。
あー、また今日が始まるのか……
体の底から湧き出て来るそこはかとない気持ちに準拠したまま目を細めつつ、校門の隅っこにぽつねんと咲いている曼珠沙華に何かしら通じるものを感じていると、
「あら、フゥ君?」
後ろからかけられた、聞きなれた声に振り向くと、そこには咲き誇る野ばらの様な笑顔。
腰まである長い黒髪をなびかせながら立っていたのはこの学校を代表する麗しの生徒会長、雪那雪那先輩だった。名前で見る通り雪那神宮の一人娘である。そしてまた、ムラサキの幼馴染でもある。そうなのである。まあ、例の方向に関わりがあるかないかは知らないが――と言うか断じて聞きたくない。なので、俺と彼女とは普通の付き合いに留まっているのである。正に平和だ。心が浮き立つね。
しかし毎度思うが、このプロポーション具合は本当に高二なのだろうか。
「ん、おはよ。今日は早いわね、何かあったの?」
美しいという言葉は正にこの人のために存在するのであろう表情を形作り話しかけてくれた慈愛溢れる先輩だが、あいにくとゲリラ睡魔に強襲されて笑顔の一つも出来ない俺を許してくださいね。
「ふふ、許すも許さないもないけど――って、うわ、すっごいクマが出来ているわよ? どうしちゃったの?」
ここで『そんなに勉強していたの?』とか聞かれないことが俺の日常を物語っているな。
「いや、遅くまで本を読んでいたんですよ。あいにくと勉強関係ではありませんが」
昇降口までの短い距離だが、二人連れ立って歩き出す。
「へえ、フゥ君がねぇ……」
いかにも珍しげといった様子で首をかしげる。様になりすぎている。
「ん、興味あるなぁ。どんな本なの?」
「変な本です」
いやまったくこれはもう即答かつ断言出来る。あー腹立たしい。
「変なって……ちょっと、ねえフゥ君?」
え? ……あ。
俺の失言に対し柳眉を逆立てる先輩。はい美しい。
じゃなくて。
「いや、すいません他意は無いんです。変は変なんですが変態じみては――いないので」
「ん、その間は何?」
「睡魔による思考回路の突発的寸断症状が原因です」
「へぇ……」
「…………」
「本当?」
「本当ですって……」
信じてくださいと口にする寸前で昇降口に到着。なんてタイミングの悪い。
「えー、っと……」
呻吟し始めた俺に対し、先輩は透明な笑みを投げかけた。
「とりあえず、フゥ君も健全な男の子ってことでいい?」
普段の俺であるのならしぶしぶながらも首肯させて頂くがしかし、今この場合では全力で否定させて頂きたい。だがそれはそれとしても支配やら謀略やらの陰謀論じみた本など、下手すりゃ何より非健全的であると思うのだが……。
「あの、いずれ弁解させてください」
しょうがない。余計なことは言わぬが吉と判断し、こう言うに留めておく。
すると会長は、何かしら、蠱惑的とでも言うべきなのかなという微笑を放ち、
「ん、楽しみにしてるね」
と、カチューシャを陽光にきらめかせ、やたらいい姿勢で歩いて行った。
一瞬精神の貞操の危機が感じられたが、気にしないようにしよう。それがいい。
俺もさっさと上履きに履き替え、教室に向かう。
そーいやムラサキが生徒会抱き込んだうんぬん言ってたの忘れてたな。せっかくだから聞いとけばよかった――とは思わないな……。
まあ俺は俺で自爆して出た破片どもの後始末をしなけりゃならんし、たった今思い出したが今日提出の数学のプリントもあった。学校に来てまでムラサキに縛られる訳にはいかないんだよな。
ま、せいぜい朝イチ登校で出来た、怪我の功名ぎみな時間を利用させてもらうとしよう。
俺は大きく伸びをしながら、まだ誰も居ない一年B組の戸を引いた。