1・始まりの病院
その女ムラサキが突然入院することとなったのは、文化祭も間近に迫った、よく晴れた秋の土曜日のことだった。
その頃当然何も知らなかった俺は、初秋の愁哀に誘われるまま、極めて慎ましげに罪のない午睡を貪っていたわけだ。故に、いきなり振動とともに机の上をはいずり始めた携帯に、意味がないと解っていながら抗議の視線を浴びせることとなったのも当たり前のことである。それにあんま寝つきも寝起きも良いほうじゃないんだよ、俺は。
ともあれおっくうに体を起こしつつほぼ機械的動作でメールを確認。文面が出てくる。
フゥ君へ。
ご無沙汰――はしてないね。今日も学校で会ったし。
えー、上手く言えないので単刀直入に言うけど、
突然ですが私、入院することになりました。
早くも手術の日時も決まって一安心――なのは大人だけ。
私はとっても不安です。
とまあそんなわけなのでよろしくね。
お見舞いに来てくれたら嬉しいな。
じゃ、今はこのくらいで。
P・S
このメールはお母さんにメモ渡して病院外で打ってもらったものだから、
フゥ君余計な心配しなくて大丈夫だよ。
いくら私でも(こう思ってるのフゥ君だけじゃない?)病院の中では常識
に準ずるもの。
驚いた。
ムラサキがこんな殊勝なメールを送ってきたことにもだが。
俺はしばし唖然とした後、鞄を掴み上着を一気に引っ掛けて、まだ夏が残る空の下へと踏み出していった――
――のだが、なんだかんだで俺も動揺していたらしい。
病名病室などはともかく入院先が一体どこなのかさっぱり解らんと気付いたのは自転車にまたがり走り出そうとする正にその時だった。
そこからいざケータイを駆使して突き止めんと試みるも高一程度のしょぼくれた人脈ではカケラも役に立たずして、最終的にはムラサキ宅にまでお邪魔することになった自分が我ながら恨めしい。
相変わらずのでかさを誇る邸宅の前でムラサキの両親に笑われまくり、赤面することしきりだったが、こーゆーのも年取ったらいい思い出になるんだろうな。たぶん。
さらにまた、俺には強くはないが霊感がある。故に無防備な状態で病院などには突っ込みたくはない。死ぬ。
幸いこの町には雪那神宮という、亡くなった祖母曰く『本物の神域』があるため、俺はいつもの様に、そこでかるく禊祓いをしてもらったりもしていた。
そんなこんなで無駄に時間を食ったため、目指す病院に着いたのは面会開始時間を多少過ぎた午後三時二十分くらいになっていた。
受付で面会者プレートをもらい、ムラサキのいる301号室へと向かう。
エレベーターを経由して、見舞い品に花ってポピュラーだけどなんか恥ずかしいなとか思いながらてくたく歩いて奴の病室前に着くと、なん、とま……あ、いかにも豪華な個室じゃないか、ここ。ノックするのがはばかられるな――なんてことはないな、やっぱ。
コンコンと扉を叩くとすぐに「はぁい」と舌足らずぎみの返事。中に入る。
「わ、フゥ君だ、来てくれたんだー!」
明るい声が病室に響く。
そこには、心底嬉しそうな様子で屈託のない笑顔をくれる白面の少女、ムラサキがいた。
理知的な光を携えた、澄んだ優しい目、こぼれるような笑みを湛える淡い唇、肩の辺りに踊るクセッ毛の混ざったこげ茶色の髪――相変わらずの美少女っぷりを発揮している女である。
いつにも増して華奢に見えるのはやはり病気のせいなのだろうが、それがまた薄幸のお嬢様っぽさを加えることになっているのはムラサキクオリティといったところか。ちなみにハツラツとしたいつもの様子とギャップがあるのも俺的にはナイスだ。この上なく。
ムラサキなんて妙なあだ名を持ち合わせてはいるものの、いやまったくここまでの人間だと誰しも見とれたり嫉妬したりをとーりこして諦観の域に落ち着きかねないのであり、今の俺が正にそうである。
いやー、俺がムラサキと肩を並べられるのは、フゥなどという妙な名前を持ち合わせているという点のみだよな。それ以外は家柄といい容姿といい成績といい、まったくもって俺とは比べ物にならんし。ま、昔はともかく今はそんなことは気にはならんさ。はっはっは。
しかし当然、そんな繰り言めいてきた俺の脳内インフォメーションなど感知し得ないムラサキは、
「すごく嬉しいよ、もうお見舞いに来てくれるなんてー。
でさ、そのお花って私へ? ……わ、ホント? ふふ、気ー使ってもらっちゃった。ね、そこに花瓶あるから生けといてもらえる?」
などとコロコロとしている。とかく可愛いクラスメイトである。
俺はそんなムラサキを横目で見ながら、
「いきなりあんなメールよこすからびっくりしたよ」
と、ベッドの横に鞄を置き、棚の上に鎮座していたやけに重厚な花瓶に手を伸ばしつつ、ムラサキに話しかけた。
「しかも入院なんてさ」
「うん、私もびっくりした」
「だろうな。――洗面台は?」
「カーテンの向こうだよ」
「はいよ」
俺は薄い仕切りの向こうの洗面台でかるく花瓶の中を洗い流し、持ってきた花の包み紙を剥がしにかかる。
「で、どこら辺が悪いんだ?」
ムラサキの方は見ない。そもそも見えない。そんなカーテン越しの会話。
「わかんない」
「聞かされてないのか」
「んぅ……」
「言いたくないのか」
「ぁ……」
薄い布に、すっと目を伏せるムラサキの影。やべ、地雷だったか。
「あーっと……」
自然と作業をやめた右手で頭を抱えかけた。
「わ、フゥ君、実際大丈夫だから。そんなやっちゃった感出さなくてもいいから」
見ると、薄緑のカーテンには、ムラサキがぱたぱた手を振っているシルエット。
「えーっとね、なんていうかね、訳あって言う事は出来ないんだけど、私の体に関しては、命に関わる病魔とか巣食ってる訳じゃないから。ちょっと入院してやることやればオールオッケーだから!」
ほう。
「あ」
一瞬のうちに硬直したムラサキの影。
こいつめ……やはりか。
「お前……」
「あっははは」
ムラサキの乾いた笑い声。そして、俺は溜め息をついた。
「またアレな方向の云々か」
「えらく抽象的な表現をするねー、フゥ君」
当たり前だ。んな事をみだりに口にしてられるか。最早俺がイタイ奴に見られるのはどうでもいいが、それに伴った弊害が突発したらどうしてくれる。
そんな俺の免責するような口調に、ムラサキは息をつき、
「ま、大丈夫よ。今までもそうだったし」
と、肩をすくめた。
俺にしてみると、今までの様な膠着状態が慢性的恒常的に続いてくれる保証などカケラも無く、いつどんなふうにエグイ出来事の渦中に頭から放り込まれるかも定かではない。そのため、出来る限り非日常的な出来事とは無縁でいたいのだ。なのにこいつときたら、まったく。
「しょうがないじゃない! だって必要な事なの!」
確かにそうなんだろうし、そもそもお前も、俺の言ったことなぞ一から十まで承知の上だろう。
でもな、
「お前の体を本気で案じていた俺のピュアな心はどうしてくれる」
「わ」
ムラサキの声。少し弾んで。
「ホントに心配してくれてたんだ……疑わないで」
「当たり前だろうが」
花を生けた花瓶を持ってカーテンをめくりそう言った俺に、ムラサキは満面の笑みを以て返した。陽だまりのような笑みだった。
「そーだフゥ君、お見舞いの定番その一のリンゴあるけど食べる? 食べるよね。お母さんが買ってきてくれたんだ。美味しいよー。ね、剥いてあげるよ。」
その後他愛のない話に興じていると、ムラサキは思い出したようにそう言って、やにわにリンゴを手に取った。頼むから、あの時みたいにペティーナイフを振り回さないでくれな。
そして俺は、一人で勝手に何やら了解し、嬉々としてリンゴを剥きはじめたムラサキをどーしようかなとしばし見ていたものの、まあ楽しそうだからほっとこう。
然るべくしてムラサキがリンゴ剥き人形と化しているので手持無沙汰気味になった俺は、無意味に室内をうろちょろした挙句、窓枠に頬杖をつき何とはなしに外を見ていた。しかしやたら景観がいいのはどうしたことだろう。ここが一介の病室とは信じられんな。
いや、やはりここが一介の病室なんてことはあるまい。
こいつが入院する様な所だ、どうせそのために一番いい部屋をさらに改良でもして、超最高のスペースに無理矢理仕立て上げたに違いない。その証拠に、なんだ、この豪奢な調度品達は。絨毯しかり、戸棚しかり、壁に掛けてある時計しかり……。一体いくらだ。
誰がどう見たって最高スペックな品々を横目にぼんやりしている俺の後ろから、興に乗ってきたらしい、やにわにリンゴの唄が聞こえてきた。もちろん歌っているのはムラサキだが、バツグンの歌唱力はいいとして、どうしてそのチョイスなんだ。
振り返り、よく歌えるなそんなのとベッドの横の丸椅子に座る、と――やんぬるかな、すでにリンゴ五個が全裸と剥かれており、ウサギもそこかしこに散乱している。
「すごいでしょ」
量がな。
そう言うと、ムラサキは形のいい眉をすぐさま吊り上げて猛然と抗議してきた。
「何言ってるのよ、ウサギは可愛いし、リンゴの皮だって途中で切らずに剥くことが出来たんだから褒めてくれてもいいじゃない! それにそんな一言でバッサリ切り落とすのはリンゴがかわいそうじゃないの! リンゴは何にも言わないけれど、リンゴの気持ちはよく解るんだからねっ!」
はなはだ時代錯誤に近しいことを言い出したムラサキは、ぷりぷりしてはいるものの、可愛いのには変わりはないな……じゃなくて、
「なんて言おうと剥きすぎには変わりないだろ」
「食べられるよ、このくらいなら。」
事も無げに言い切るムラサキである。
「いやさ……にしてもやりすぎだろう……」
「しょーがないじゃない!」
いきなりずいぃっと目の前に持ってこられたムラサキの顔に対してドギマギする間もない。あと三センチで俺の理性はトブだろうからなと邪な覚悟を半ば決めかけたところで、ムラサキの口が開いた。
「だってベッドで寝ながらお話するだけなんて、退屈なんだもの!」
うわ。
蒙昧な思考が相対性理論に後足で砂を掛けまくるような速度で以てブラックホールの彼方に消え去っていくのを脳内で認識しつつ、俺は幕末の動乱の中、薩摩の情けを受けるか否かで喘いでいた長州の気持ちそのままの返答を送った。
「理解は出来るが納得は出来ん」薩摩に受けた屈辱はそれほど深いのだ。関係ないが。
「えーーーっ!」
うるさい。乗り出すな。大声上げるな。
「何でよー」
「誰が退屈しのぎに人の腹を壊させるような案に乗っかるか」
「何でよー」
何でも何もないだろうさ。
「えー……でも剥いちゃったよー?」
ほらほらぁ、とリンゴを指さすムラサキ。なんて嬉しそうなんだ。
「仕方ない、腹に入れられるだけ入れて、無理な分は冷蔵庫にでも……」
ベットの横の、備え付けの冷蔵庫に視線を転じる。結構デカく美しく、気品すら感じられる。
「ここにあるのはもういっぱい」
ウソつけ……。覗き込む。ウソじゃなかった。どこのドナタであらせられるのでしょうか、こんなに見舞い品持ってきやがったお方は。
「ね」
うわ、ムラサキいい笑顔……。
「じゃあ何とかして持って帰るか……」
「ならもっと剥く」
何故だ。
「だから退屈なの、私は」
いや、だからって俺でしのごうとするのはよそうぜ……。
「じゃあ何かいい退屈しのぎはない?」
「無い」
と、俺がたった一文節を言い終わる前に、もうムラサキは溜め息をついていた。
そして俺は、自分を見返す視線からどうにか身を隠せはしないかと体全体をくねらせつつ様々な努力をしたが、まあ無駄なのは解っている。しかし、無駄だと解ってはいても行動に移してしまうのは人の性なんだろうね。
「フゥ君、私が前から興味がある、何とかしたいって言ってたこと、知ってるでしょ?」
や め て く れ。
「言ってみてよ」
また一瞬戸惑ったが、事ここに至ってまだ逡巡してるのまったく優柔不断なのは男らしくないわよねそれでも大和魂を孕んだ日本男児として世界に羽ばたけるのかしらといったムラサキの態度に、やむなく俺は口を開いた。せめてもの抵抗と、ぶっきらぼうに棒読みで、
「国や人を支配する方法。またそれをしている超国家権力の存在。そして今現在世界が陥っているそうした状況――つまり総括すると、世界支配について」と一息に言い切る。
我ながら言っていてアホらしくなってくる。つーかそんな悪の組織が世界をうんぬんのRPGめいた陰謀論なんぞを口にする前に考える必要性すら感じないのだが、と言っておく。身のためにも。
しかしムラサキは、早くも目を活動期に入った太陽のコロナの様に爛々と輝かせ始めた。
「そう、正にそれよ!」
そうか。
「今の世界は民主主義だの平和を求めようだの自由平等だの言っときながら、実は全然そんなことないただの泥沼の世だもの! 人々は洗脳され結局奴隷化するし、しかもそれこそこの世で幸せになることだと思わされてるし――性質悪いわ」
お前の考えのが性質悪いわ。俺自身の命にも直結する性質の悪さだ。こっちのいかにも流してやろう的態度にもノータッチで話進めるしな。それにそいつは耳タコだ。
「それでね、前々から思ってるわけ、そんな世の中を根こそぎ引っくり返してやろうってね! ま、これもフゥ君は知ってるだろうけど。
あ、そうそう、だからまず学校を私の管轄に入れようと思って、生徒会に手をまわしておいたわ。こないだ」
そいつは初耳だ……。
それにしても私の管轄とは何なんだろう。ムラサキ軍団を作ったなんつう噂は聞いちゃいないんだが。いやどーせムラサキの脳内にのみ揺蕩っている団体なんだろう――と、信じたい。
「で、そんな訳なんだけど、やっぱり支配というものを土台からしっかりはっきりすっぱり考えないとだめだと思うのね、根本的に。
私もある程度は解ってるつもりだけど、体系的に捉えなおすにはいい機会だし、退屈しのぎにもなるし……」
ムラサキは顔の筋肉を動員し、ニンマリと笑った。いや実にいい笑みだ。
「それに、味方は一人でもいたほうがいいし」
その方が効率もいいし、と付け足し真っ直ぐに俺を見た。味方って何だ。
「んなこと今やる必要があるのかよ……」
「必要が有る無しじゃなくて、私がやりたいの」
相変わらず心底楽しそうな様子のムラサキ。
おいおい……。
その、目に染みるほど満開の笑顔から紡ぎ出される言葉が病室に広がる。そして俺は、それに抗う術など、出会ってから高一になった今の今まで持ち合わせていないでいる。
「ね、フゥ君、お願い――」
ムラサキの、愛らしく、真剣な懇願の態度。
俺はぞんざいに両手を挙げた。最後の言葉が聞こえる前に――
「――協力してくれない?」
いや、ウインクは反則だろう……。