僕には俺があった
僕には俺があった。
それは、僕のうちにあるはずの、中身だ。
どこにあるかは、覚えていない。
僕はもともと、自分のことを俺と呼んでいた。
自分のことを俺と呼んでいたことに特別な意味はなかった。ただ、みんなが自分のことを俺と呼んでいたから、僕も俺と呼んでいた。ただそれだけ。
それは中学校の頃までだった。
俺は、何かと戦っていた。でも、それが何とは分からなかった。
だからどうすればどうすれば勝ちになるのか、負けになるのか、そしてその戦いが終わるのかも、俺には分からなかった。
それはいつでも、どこでも、容赦なく俺を攻撃してきた。時には隠密に、時には大胆に。卑怯にも多数で向かってくることもあった。
俺は戦った。でも、いつも勝敗は決せなかった。分からなかったから、当然だ。
そんな戦いの中でいつも俺が混乱していたのは、その何かが俺を攻撃しながら、俺ではない誰かに抵抗していたことだけを、俺は知っていたからだ。
だから、俺にはその何かに勝つ方法も、負ける方法も分からなかった。
俺の敵はその何かでも、その何かの真意は俺に勝つことではなかったから。
だから、その何かは俺に対して何の感情も抱いていなかった。ひどく冷たい力で、俺を殴りつけていただけだった。
俺には、どうしてそこまでして戦いたいのか、分からなかった。ただ、知っていただけだ。
その何かはひどくおびえていた。見るからに、自他ともに分かるくらい、おびえて、牙をむき出して、抗っていた。
それを知っていた俺は、どちらが正しいのか分からなかった。
正しさを、俺は求めてしまった。揺らいではいけなかった。疑ってはいけなかった。そんな時だったのに、俺は考えてしまった。立ち止まってしまった。抗うために構えた拳を下げてしまった。
その何かに容赦はなかった。何故なら、俺が見えていないのだから。
俺がどんなことを考え、どんな感情を持ち、どんな表情を携え、どんな構えをしているかなんて、知ったことではなかったから。
俺は打ちのめされた。躊躇うことなく振るってきた力に、押しつぶされた。
一度地面に倒れたら、もう立ち上がれなかった。そんな暇を与えてくれなかった。
それでも、負けたわけではなかった。だから、いつまでもやられ続けなければならなかった。
外から来る力だけじゃなかった。俺の中に、俺を見つめる目があった。俺を問い詰める口があった。俺の答えを求めている耳があった。
もう、だめだと思った。
助けを求めた。
俺の代わりに矢面に立って、俺をかくまってくれる助けを求めた。
鉄の鎧を。
でも、そんな理想は、現実にはあり得ない。
それなら、と。俺は僕を創り出した。
理想の鉄の鎧に、近づけた現実を。
僕は、俺の鎧だ。俺を守り、匿い、隔離し、閉じ込めるためのものだ。
それを、俺は着てしまった。
その時から、俺は僕になった。
僕は強かった。理想のように堅固だった。どんな力も跳ね返すことができた。何を言われても、それは僕の事であり、俺の事ではない。何をされても、それは俺に対してではなく、僕に対してになった。
やがて、何かは戦いをやめた。いつの間にか、その何かの怯えが、僕にも向けられていた。
俺の中にいたやつも、消えてしまった。いくら僕に問いかけたところで、僕は何も答えないからだ。僕は、何も考えない鎧だから。
やっと、俺は安心した。安心して、閉じこもった。
ただ、やっぱり理想通りではない鎧は、ひどく脆くて、所々欠けている硝子の鎧だった。
それでも、俺はそれを手放せなかった。
もう、手放せなくなっていた。
「そういえば、日比彦って自分のこと僕って呼ぶわよね」
「そうだね。そういわれれば、そうかも」
「やめた方がいいわよ」
「どうして?」
「なんか、むかつくのよね」
「どういう理屈さ」
「なんて言うか、馬鹿にされてる気分よ。白々し演技で煙に巻かれているような、あまりにあからさまな仮面を付けているってのに、それでも自分が仮面をつけていることを認めない」
「そんなことしてないと思うけどな」
「ほら、そういうところよ。ホントいらいらする。気持ち悪いのよ」
「ごめんね」
「やめて、そういうのもいらないから」
「ごめん」
「日比彦がそれでいいならいいんじゃない。一人で達観気取って周りを見下していれば。でも、そんなんじゃ人から嫌われるだけだから」
そう言い残して、彼女はトンっと机の上から降りると、先に教室から出て行ってしまった。
残された僕は、誰もいない教室で、一人微笑を携えて帰り支度をした。
そう言えば、僕には俺があった。
ずいぶん前に閉じこもってから、一度も出てこようとしない。もう、どこにいるのかさえはっきりとは分からない。
きっと、そのままずっと閉じこもっていくのだ。
それでも、時々俺の存在を感じる時がある。小説を書いている時だ。
僕にある衝動は、これだけだ。
だから小説は、硝子の僕を透過して入り込んだものを、俺が必死に吐き出す行為なのではないかと、思う。
そう思うと、安心できた。まだ俺はどこかにいるのだ。
それで、十分だ。