僕には可能性があった
僕には可能性があった。
もしかしたら、と言う、万に一つかもしれないけれど、確かな一つに変わりない可能性が。
その可能性にかけてみるのは無駄ではなかった。
リスクはほとんどないと言えるのだから。
餌のついていない、単なる釣り針を括り付けた糸を垂らしておくだけ。
後は、もしかしたらその釣り針にかかるのを待てばいい。
でも、ただ釣り針を垂らしておくだけではまだ足りないかもしれない。
そう思った人は、何か違うことをしてみる。
例えば、釣り針を揺らしてみる。
例えば、違った釣り針を仕掛けてみる。
例えば、糸の長さを変えてみる。
もっと他にもやりようはある。しかし皆一様にしないことも、ある。
それは、釣り針に餌を付けない、と言うことだ。
何故かは、分かる。
それはきっと、もったいないからだろう。どうせかかるわけもない、そんなものに払う代償の意味を、見いだせないのだ。
「あ、日比彦君おはよう」
「おはよう」
「おはよう~」
「おはよう」
僕は教室に入って、自分の席に着くまでに何人かと挨拶を交わした。いつもそうだった。
「よう、日比彦」
園城君がやってきて僕の前の席に座る。
「おはよう」
僕が挨拶をすると、園城君は辺りをきょろきょろと見渡した。それから体を前のめりにし、口を手で隠し、声を潜めて話し始めた。
「知ってるか? もしかしたら今日のホームルーム中に抜き打ちテストがあるらしいぞ」
「本当? 聞いてないけど」
「おい、その話俺にも聞かせろよ」
そう言ったのは隣の席の永公君だった。ちょうど登校してきたところで、鞄を机に置いて席に座ると、体をこちらに近づけてきた。
「おう、聞いとけ聞いとけ。いやな、うちの顧問って隣のクラスの担任だろ? その顧問が昨日の部活終わりにぽろっとこぼしたんだよ。『お前ら、明日はしっかりやれよ』って。別にこっそり教えようとしたわけじゃないのな。それは断言できる……けど、まあそれはいいか。俺たちは最初何の話だ?と思ったわけよ。でな、一人な、そういう時だけ頭の回転が速い奴がいるわけよ。そいつが――」
「何してるの? こそこそ話? ……分かった、下ネタだ」
園城君の話を遮って登場したのは旗谷さんだった。
「馬鹿! ちげーよ!」
「日比彦君。おはよう」
旗谷さんが挨拶をしてくれた。旗谷さんは同じ文芸部に所属していて、僕に良くしてくれる数少ない人だった。
「おはよう」
「旗谷、知ってたか? 園城の話」
永公君は旗谷さんの突然の登場にも動揺することなく、いたって冷静だった。
「噂ではね」
「なんだ、知ってんのか……って、ちゃっかり聞いてんじゃねえか」
「ははは、気にしなさんな」
旗谷さんは快活に笑うと、園城君の肩を叩いた。
「さて、私は日比彦君に用があるんで、ちょっと借りてもいいかな?」
「しょうがねーな」
園城君がしぶしぶと言った様子で席を空けた。
「ありがと」
そう言ってその席に旗谷さんが座った。永公君は鞄から音楽プレイヤーを取り出して、イヤホンを耳につけてしまった。
「日比彦君。今日の部活、どうする? 行く?」
文芸部は決まった日以外の参加が自由になっていた。ほとんどの人はめったに顔を出さなかった。僕もあまり出る方ではなかった。
「どうだろう。旗谷さんは?」
「私? 私は……」
僕に尋ねられた旗谷さんは少しの間逡巡して、それからうんと頷いた。
「私は、日比彦君が出るなら出るよ」
そう答えたのは、彼女の茶目っ気によるものだ。それが分かっていても、嬉しかった。でも、せっかくだけど僕は今日は出る気はなかった。もう少しで、今書いている小説が終わりそうだったからだ。
部室ではどうにも落ち着かないので、僕はいつも家で小説を書いていた。
「今日はやめておくよ」
「そかそか。じゃあ私もやめておこ。家に読みかけの本があるんだ」
そう言って旗谷さんは立ち上がった。その場を去ろうとしたその時、こちらに振り返って言った。
「そういえば、さ。先生はどう?」
先生、とは古郡の事だ。旗谷さんは古郡のことを先生と呼んでいた。
「いつも通りだよ」
「あ、いや、それは何より。……もう、新作とか書いてるの?」
「たぶんね。自分の作品に関しては僕にも何も教えてくれないからさ」
「そかそか、そうだよねそうだった。いやあ日比彦君も大変だね」
そう言って、旗谷さんは僕の肩を叩いた。僕は、自分の顔がにやけているのが分かっていた。
「そういや日比彦君も小説書いてるよね? 今度見せてよ~」
「あ、うん、是非見てよ」
そう言って、旗谷さんは自分の席に戻って行った。
僕は自分の小説を枢木さんと古郡以外に見せたことがなかった。そもそも、僕が小説を書いていることを人に言うことがなかったから。
ちょうどいい、と僕は思った。今書いている作品を見てもらおうと。
その日、僕はちょっとだけ急いで家に帰って、それからいつもより遅くまで小説を書いた。その甲斐あって、小説は書き終わった。
次の日、僕は教室に入ると旗谷さんを探した。旗谷さんは席に座って文庫本を読んでいた。
「旗谷さん」
「お、日比彦君。おはよ」
旗谷さんが文庫本から顔を上げて笑った。
僕は自分のカバンから印刷した原稿を取り出した。
「あの、これ」
僕はちょっと照れていた。
「旗谷さんに読んでもらおうと思って」
旗谷さんは僕の手が掴んでいる原稿を見ると、まず固まった。目は大きく開き、異様に輝いていて、口は呆けた人のように空いていた。
それから息をのんで、手で口を覆い隠した。それでも、手で覆い隠した奥の口からくぐもった悲鳴が聞こえた。
僕には、なんだか分からなかった。
それからいきなり立ち上がったと思ったら、すぐに座って、それからまた固まった。
しばらくして、ようやく口を覆っていた手をどけると、旗谷さんは言った。
「……い、いの?」
その声は震えていた。目は、怖いくらいに大きく開いたままだった。
「私が読んで、い、いいの?」
「え?」
僕には、その質問の意図が分からなかった。
「私が……私が……」
旗谷さんの発言は支離滅裂だった。僕にはそのほとんどを理解することはできなかった。
ただの一言を除いて。
「先生の」
ようやく、僕は理解した。そして、謝った。
「ごめん、これ、僕が書いた小説なんだ」
「は?」
旗谷さんはすっとんきょな声をあげた。それから、ようやく僕の発言を理解したようで、しぼんでいった。
少なくとも、僕にははっきり見えた。しぼんでいく旗谷さんが。
「あ……そう、だよね。……あは、はははー」
旗谷さんは笑い声をあげた。笑うのを忘れたまま。
僕はどうしていいか分からなかった。
「あ、うん。ありがとー。読ませて読ませて」
そう言いながら、旗谷さんは手を伸ばした。
反射的に、僕は後ずさりをした。
「ごめん、まだちゃんと確認してなかったや。また今度で良い?」
僕は、自然と言葉を発していた。
「あ、はい」
戸惑う旗谷さんをそのままに、僕は席に戻ろうとした。
その時、床に置いているものが目に入った。さっきまで旗谷さんが読んでいた文庫本。
古郡の書いた小説だ。
その日の夜。僕は完成させた小説を一枚一枚丁寧に読んだ。読んだページは、そのままシュレッダーにかけた。
僕が悪かったのだ。
あの後、旗谷さんは泣きだした。
願ってやまなかった一つを、手にしたかと思ったのだから。
なのに、それは違った。くだらない、九千九百九十九だったのだ。
旗谷さんの友達にはたかれたほほが痛み、浴びせられた言葉が耳に響く。反論が出ないように口をつぐみ、文章を読んだ。
読んで、刻んでいく。流れ星に願いを謳った少年の物語。
そういえば、僕には可能性があった。
二つの可能性が。
それを僕は知っていなければならなかった。