プロローグ2 特待生の事情
『──以上、私立悠綺高等学校生徒会会長、東雲夏生』
手元には何も置かず、顔を上げて新入生の顔を見渡したままで代表挨拶を終えた夏生は、そう締め括り、一礼する。
はじめはハラハラと見守っていた教師たちも、夏生の口調に一切の淀みがないのがわかると、次第に「どうだ、うちの東雲は」とでも言いたげな表情へと変わっていた。失敗したからって叱る度胸もないくせに、なんてひねくれたことを思いながら、ステージを降りる。
途中、目が合った新入生の少女に微笑みかけると、彼女は頬を赤らめて夏生を目で追いはじめた。ステージ横に設けられた生徒会役員のための席に戻ると、それを見ていた聖が耳打ちする。
「おい、また失神者でるじゃん、やめろよ」
「なにが? 空調管理が甘いんじゃないの」
「お前のせいで頭に血が昇んだよ」
夏生がとぼけたような顔で見ると、聖も眉を吊り上げた。ふざけて目を細め合う二人に、新入生の間で囁き声が上がりはじめる。
「あの先輩、綺麗……」
「知らないの、“悠綺の王子様”ですわよ?」
「相変わらずお二人仲良し……」
「KNIGHTの聖くん、生徒会なの? 頭もいいのね……」
「あれ沖谷准乃介? かっこいー」
「Inoだ! すごい、テレビで見るより可愛い!」
「あそこに座ってる人、石蕗のお嬢様なんだって? 超美人……」
「え、石蕗って、あの“最強の女子高生”?」
耳に入る話題は全て、このあまりに有名な生徒会の話ばかりだ。
在校生がセレブならば新しく入ってくる生徒もそんな人物ばかり、有名人なんかとうに見飽きたという生徒も中にはいる。だが、そんな生徒でさえも、彼ら五人への憧憬は、他と変わらなかった。悠綺中等部から持ち上がりの生徒でさえ、一年ぶりに見る夏生や聖の姿に、ぼんやりと見入っている。
アイドルの性なのか、聖は愛想良く微笑んでみたり、小さく手を振ってみたりしていた。夏生は、「そっちこそ」と言いたげな非難の目を向ける。
彼らの一挙手一投足にいちいち上がる、悲鳴にも似た小さな歓声。それを立ち上がった准乃介が笑顔で黙らせて、口を開く。
「これで入学式を終わります。この後は、在校生によるパフォーマンスをお楽しみください」
准乃介の手振りで、一度閉じた幕に注目が集まる。ホールの照明が切り替えられ、少し暗くなった。一番手は、吹奏楽部によるマーチングメドレーだ。ドラムの音が沸き上がるように響き、勢い良く幕が開くと、再び大きな歓声が上がったのだった。
◇
やー、と変に伸びた音を発して、聖は満足げに言った。
「もぉー超よかったあー!」
だらしなく表情を緩ませて、隣にいる夏生に「ねえ、ねえ」と声をかけては、彼の柳眉を歪ませている。二人と一緒に東校舎と北校舎を繋ぐ渡り廊下を歩く恋宵は、照れ臭そうに笑った。
他の演奏がされている間に着替えたらしく、最後にステージに上がった彼女は、入学式で着ていた正規の制服姿ではなかった。普段も時々着ている、特注のロング丈のブレザーを今も羽織ったままでいる。
「それはなによりですにょろ」
「ったく……なんであんたが一番楽しんでんの」
「だって生徒会が一番近くでInoのステージ見れたんだよ? 楽しいでしょ、テンション上がるでしょ、そりゃ」
夏生の呆れ顔も全く気にならないという様子で、聖は言った。後ろでは、准乃介と紅も苦笑いを浮かべている。だが、軽音楽部をバックバンドに従え、吹奏楽部からサックス奏者、三年生からドラムの実力者をゲストに呼んだInoのステージが素晴らしかったのは、確かだ。
後ろを歩く先輩に振り返って、夏生が言った。階段の途中なので准乃介の方が三段ほど下にいるが、それでやっと夏生が少しだけ彼を見下ろす形になっている。
「佐野真琴、いましたね」
「あー、いたね」
「え、まじ? 俺見えなかったっす」
特待生だというのが事実だとしても、准乃介の情報がデマで本当は一般入学だとしても、どちらにせよかなりの大物だ。例えば噂はあくまで噂で、彼が生徒会に入るという話が嘘だという方が、生徒会としては多いに問題だった。
いくら夏生や紅が悠綺の中では圧倒的な存在だとはいえ、相手は超人気俳優であり、知名度でいえば明らかに劣る。だがここでは、そんな彼でも一介の生徒にすぎないのだ。
この学校で一生徒の知名度や人気やカリスマ性が彼らと並んでしまっては困る。悠綺高校の生徒会は、絶対でなければいけない。何者にも侵害されてはいけないのだ。
「ま、そんなことは」
誰かが呟いた。
「すぐにわかるでしょ」
◇
「よお。来たな」
薄く色のついたレンズ越しに、流し目を寄越す。深い赤のような色に染めた長めの髪は、大雑把に後ろに流されていた。薄い茶のサングラスも、指先に挟まれた煙草も、グレーのシャツに白いスラックスという着こなしも、どこからどう見てもチンピラか、もしくはガラの悪いホストにしか見えない。
扉を開けた夏生ら五人を迎えたのは、そんな男だった。
荘厳な校舎、華奢で繊細で美しい細工の調度品。そんなものには一切合切すべてが不似合いな、あまりにも浮いた男だ。
だが、一体どこで何を間違ってしまったんだか、彼はこの学校の教師である。しかもこれで教師としてはなかなか有能であるのだから、見た目で損をしているとしか思えない。
彼――竹河居吹(たけかわいぶき)は、悠綺高校で数学を教えている。そして夏生たち二年A組の担任教師で、さらにいえば、この生徒会の顧問でもある。今朝教室でも会っている夏生たちは反応も薄いが、三年生の二人は、わずかに驚いてさえいた。
「あれ、居吹せんせー久しぶり」
「あなたが生徒会室にいるなんて……半年ぶりくらいか?」
「ちげーよ、えーと、七ヶ月と十一日ぶり」
生徒会顧問であるのは確かだ。だが彼は、あまりにも顧問として存在感がなかった。
なにしろ彼らの活動の本拠地ともいえる生徒会室に顔を出すのは、年度始めのこの日と、あとは年に三回あれば多いほう。生徒の自主性を重んじる、なんて口では格好良いことを言っているが、要は生徒会活動に関しては、役員に丸投げなのだ。
紅がにこやかに「ところで」と言う。「ん?」と返した居吹に、ぐ、と距離を詰める。
「校内禁煙のはずだがこれは何かな、竹河先生」
「……火、点いてないし」
「そんなことはどうだっていい」
「あ、はい……」
大きな目でぎろりと睨まれた居吹は、大人しく頷いて煙草を携帯灰皿に詰め込む。火がなくてもくわえていないと落ち着かないほどのヘビースモーカーなのだ。口と手が淋しくなったのか、ポケットからガムを取り出しながら、苦い顔をした居吹は言った。
「んなことよりオラ、さっさとご対面だ。お二人さん」
雑に促されて、二人の人物が立ち上がった。
この部屋には、扉を入ってすぐ右側に、生徒会室という場所には明らかに不必要な豪奢なソファーが置かれている。応接スペースなんて言っているが実際のところ部外者立ち入り禁止のここでそう頻繁に応接なんてするはずもなく、もっぱら役員たちが寛ぐ場と化している。入り口に背もたれを見せているそのソファーに、二人は座っていた。
五人がまず驚いたのは、うち一人の華奢さだった。そもそも、一人だと思っていたのだ。特待生が二人来るというのは思い違いで、実は枠が一つしか埋まらなかったのか。ソファーの背もたれから覗く後頭部は、一つしか見えなかった。
だが立ち上がったもう一人は、背もたれにすっぽり隠れてしまうくらい小柄で、少し力を込めて握れば折れてしまいそうに、全身が細かった。
女子生徒ならばまだそれもわかる。現に恋宵だって、どこからその突き抜けるような歌声が出ているのかと驚くほどに細い。
しかし“彼”は、男子生徒だった。制服に着られている感じはかろうじてないが、まるで中学生のような小柄さに、チェックのスラックスを一瞬疑ってしまう。短い髪を揺らして、彼は小さく会釈をした。
「西林寺直姫です。……よろしくおねがいします」
低くはない、だがそれほど高くもない声。くりんと大きな目は、ずっと落ちつかなげに伏せられている。それ以上なにも言わないことを察して、居吹が「はい、じゃー次」と気だるげな声をあげた。その声に、さっきから後ろ姿だけはずっと見えていた人物が、一歩進み出た。
「佐野真琴です。欠席も時々あるかもしれませんが、卒業まではできるだけ学業を優先させたいと思ってます」
よろしくおねがいします、と言って頭を下げた彼は、夏生たち五人が予想していたまさにその人だった。全体的に色素の淡いような印象と、優しげな顔立ち。大きめのたれ目を細めて微笑む姿が、爽やかにさまになっている。
「佐野のことはもしかしたら聞いてたかもしれないけど……特待生だ。それなりの試験受けて通ってきてるんだから、根性はあるはずだ。思いっきりしごいてやれ」
居吹がそう言うと、真琴はぎょっとして振り返ったが、西林寺直姫と名乗った生徒は、目をぱちりと瞬いただけで、なんのリアクションもなかった。紅の家が剣道家元であることや、夏生が東雲財閥の子息であることを知っていての反応なら、直姫のほうが肝が座っているかもしれない。もちろん、知らずに平然としている可能性だってあるわけだが。
居吹はそれぞれの反応に満足したようににやりと笑うと、真琴の肩を「冗談だよ」とぱしんと叩いて、扉へ向かった。
「お前ら自己紹介して、明日の昼までに役職決めておけよ。じゃ、あとはよろしく」
そして、そのまま生徒会室を出て行ってしまったのだった。仮にも顧問が、新入役員との顔合わせをさせただけで、「あとはよろしく」と帰ってしまう。そんな大雑把な暴挙に呆然とする真琴に、准乃介が声をかけた。
「あの人いつもあんなだから、深く考えないほうがいいよ。俺は沖谷准乃介です、よろしくねー」
「あ……はい、存じ上げてます」
准乃介の挨拶が終わると、口々に名前やクラスや役職を言う。聖や恋宵のことも、真琴は話したことはないが知ってはいたようで、学生らしからぬ社交的な挨拶を交わしていた。
わからないことがあれば何でも聞いてくれ、とお決まりの言葉を言ったのは、紅だ。夏生はやはりというかなんというか、名前と学年、生徒会長であるということを述べたきり、あとは必要最低限以外はだんまりを決め込んでしまった。入学式の挨拶の爽やかさ柔和さとは全く違う無関心な様子に、真琴は困ったような顔をする。直姫も戸惑っているのかなんなのか、わずかに表情が変わったことはわかるものの、なにを思っているのかまったくわからない無表情のままだ。
それを見ていた恋宵が、ぽつりと言う。
「直ちゃん、なんか……夏生に似てるにょろねえ」
突然の愛称呼びにはさすがに面食らったのか、「な、直ちゃん?」と小さく呟いた。だがそんな彼の驚きは気にしないままで、聖も言う。
「あー確かに、ちょっと似てるかも」
そう言われても、直姫は夏生のことなんてまだ見た目くらいしか知っていないのだし、反応の返しようがない。夏生も夏生で同じようなもので、これまでの印象と恋宵がじっと見ていた直姫の表情からいえば、ただ無愛想で無表情と言われているようなものである。
「夏生はかわいくないけど、直ちゃんはかわいーにょろ!」
「うわ、え、」
恋宵にぎゅうとしがみつかれて、直姫は顔を引きつらせた。困ったように声をあげて、視線で助けを求める。だが、その相手が悪かった。夏生と似ている、という恋宵の一言で直姫の顔を覗き込みにきていた、聖だったのだ。
「ちょ、恋宵ちゃん!? いくらかわいくても男だからねそいつ!」
「だって紅ちゃんは抱きつかせてくれないにょろ」
「いいから離れて離れて! お前もなにされるがままになってんだよ!」
「いや、あの、ちょっと」
直姫がいくら小柄とはいっても、恋宵と並べばさすがに少し差がある。十センチほども背の低い恋宵にしがみつかれて、聖に肩を引かれて、もみくちゃになってしまっていた。
「た、たすけ……」
直姫が次に助けを求めたのは、聖の次に手近にいた人物――なんか似ていると言われたその人、夏生だった。冷ややかな目付きに駄目で元々と、縋るような視線を送る。
すると、夏生は溜め息を一つ吐いた。そして手を伸ばして、
「いてっ」
「いい加減にして、恋宵も」
「うにゃあ」
聖の頭でぱしんといい音を立てた手は、そのまま恋宵の額も軽く小突いて、それからまた胸の前で組まれた。
ようやく二人の手から開放された直姫は、目だけで夏生を見上げて、ぼそりと礼を言う。だが、やはり直姫の選択が間違っていたのだろう。夏生は直姫と恋宵の顔を目線だけで見比べると、心底意地が悪そうに、鼻で笑った。ちなみにこの時は、見た目に表れてはいないが直姫も慣れないことに疲れて少々機嫌が悪かったということも付け加えておこう。
「ねえ、こんなのと一緒にしないでくれる」
「……こんなのってなんですか」
「鏡でも見なよ。制服間違えたの?」
直姫の目元が、ひくりと震えた。
わずかに眉を寄せる。
「間違えてませんけど。……先輩もしかして、女顔気にしてるんですか?」
「は?」
それまで冷たい無表情か、人を馬鹿にしたような顔しか浮かべていなかった夏生の頬が、直姫の一言で引きつった。露骨に眉をしかめて剣呑な目付きで直姫を見る。
どうやら夏生の地雷を踏んだらしい。それも、聖や恋宵の焦りっぷりを見ると、思いきり、力強く。
だが直姫は、大きな目を鋭く細めて夏生を睨み返した。
「そんなに睨むと綺麗なお顔が台無しなんじゃないですか」
「人のこと言えないでしょ。そっちこそ女みたいな見た目してるくせに」
「っ失礼な……自分は女です」
「……あ」
たっぷり五呼吸はあろうかという沈黙と、やっちまったとばかりと小さな声のあと、彼らの声にならない驚愕の声が、北校舎三階の廊下まで響いたとか、響かなかったとか。
◇◇◇
「だ、誰にも言わないでください、絶対ですよ!?」
唐突というか衝撃的というか、険悪になりかけていた空気までまるっと呑み込んで、端から見ていた紅や准乃介や真琴にとってはなにがなにやらなカミングアウトだった。
直後「やべ、」と呟いた直姫は、まず六人に釘を刺した。だが、それでも不安は拭えない。学校生活では他人と距離を置いて、とにかく穏便に目立たない三年間を送るつもりだったというのに。噂が広まるのも時間の問題かもしれない。
あまりに不覚にもつい口を滑らせてしまった自分が全て悪いと、腹を括らなければいけないだろうかと、直姫は考えていた。せっかく苦労して入った学校なのに。
「す、すいません、あの、自分は失礼します! 役職は勝手に決めて構わないので、お任せしますっ」
顔もあげられないままそう言って、生徒会室の豪奢な扉を閉めた。どちらに行けばいいのか一瞬迷って、右へ歩き出す。荷物は教室に置いてきているのだ。とりあえず一年の教室のある西校舎へ向かわなければ。
階段を早足で駆け降りようとした、その時だった。手首がぐっと引かれて、直姫は肩を跳ねさせた。
「西林寺くん」
呼ばれ慣れない名字は、さっき教室で一言二言交わした佐野真琴がしていた呼び方だ。
恐る恐る振り向く。が、そこにいたのは、真琴ではなかった。
「……し、ののめ、先輩」
「そんなに驚かないでよ」
ついさっき睨み合っていたのとは別の人物かと思うほど、穏やかで優しげで、柔らかい笑みを浮かべている。
だがすぐに、気付いた。入学式の在校生代表挨拶の時と、同じ物腰なのだ。
(“表用”なのか……)
生徒会室から一歩外に出れば、他の生徒や教師がいつどこにいて、自分を見ているかわからない。今は周りには誰もいないが、そこの教室から、階段の下から、誰かが歩いてくるかもしれない。用心深い人だ、と、直姫はわずかな時間でそこまで考えた。
「どういうことかな、さっきの」
「い……言ったままです。他言は」
「しないよ。誰か知ってるの?」
「理事長と……竹河先生は」
「居吹?」
訝しげに目を細める。
直姫は捕まれたままの腕を揺らした。
「あの、離してもらえませんか」
夏生は「ああ」と呟いて、二秒間目を伏せて、考えるような素振りを見せた。そして、手は離さないままで、目を上げる。
「……戻ってきてくれる? ちゃんと話したほうがいい」
「いや、自分は」
「なにも言わないで他言はしないでなんて、虫が良すぎるんじゃないの」
「……」
「あれ、君が納得させてよね」
そう言って振り向いた夏生の視線に、直姫は倣う。そして思わず「え」と声を出したそこには、柱の影に隠れるようにこちらを窺う、五人の生徒会役員の姿があったのだった。
◇
「じゃあ女の子なのに男子生徒にょろ?」
「はあ……まあ……」
「なにそれチョーおもしろい!!」
嬉々として叫んだ聖の頭を、紅が思いきりはたく。さっきの夏生とは比べ物にならない、重そうな音がした。
後頭部を押さえて悶絶する聖を横目に、紅は言う。
「詳しい事情は聞かないほうがいいんだろうな」
「そうしてくれるとありがたいです……」
「大方の予想はつくけどねえ」
「沖谷先輩、の、考えてる通りだと思います、たぶん」
落ちつかなげに俯いたり顔を上げたりする直姫をリラックスさせようとしてなのか、「准乃介でいーよ」と微笑む。新入役員がとんでもない秘密を抱えていることが発覚した直後だというのに、飄々とした態度は崩れていない。
「そんくらいの事情抱えた生徒なんてごろごろいるからねえ、悠綺(ここ)は。他人の痛いとこ探るなんて野暮な真似、まずしないよ」
「お、恐ろしいところですね……」
最も所在なさげに座っているのは、なぜか、真琴だった。先輩たちのように聞く姿勢にも入りきれず、かと言って無言でただ隅っこで存在感を消しているというのも、なんとなく心象が悪そうだ。結果、准乃介の隣で時々小さく相槌を打つという立場に落ち着いていた。若冠十五歳にしてすでに名俳優と唱われる彼だが、案外気は小さいらしい。
「私たちは構わない、理事長が決めたことならな」
「知り合いてことは、そもそも理事長は知っててここ薦めたわけにょろねえ?」
「てゆうかあの理事長とどうやって知り合ったの?」
「あ、えーと」
復活した聖に尋ねられた直姫は、言葉に迷って視線をさまよわせた。躊躇いがちに口を開く。
「父が、悠子さんと古い友人で……それで、ここの特待制度を紹介してもらったんです」
「え? コネ入学?」
「まさか。そんな甘いことしないでしょ」
夏生はやはり生徒会室の扉を閉めた途端にさっきの調子に戻り、冷めた流し目を向ける。
「けど西林寺って……聞いたことあるかな?」
「余計な詮索やめなよ。知っても知らなくても変わらないでしょ」
あの一触即発の雰囲気はどこへやら、直姫を庇うようなことまで言っている。そんな夏生を、直姫は首を傾げながら見ていた。
(あれ、案外いい人……?)
なぜか理事長が認めているなら問題ないという意見で一致しているようだし、この分だと、他言無用の要求はなんとか考えてもらえそうだ。もしかしたら望んでいた通りの、地味で目立たず空気のような学校生活が送れるかもしれない。そんな後ろ向きな前途に、安心しかけていた時だった。
夏生が直姫のほうを向く。
それから真琴の顔も見て、言った。
「明日、六限に全校集会があるから。初仕事だよ」
「全校集会、ですか」
「そう、うちの学校の行事はほとんど生徒会が仕切るから。まあ、動くのは総務の准乃介先輩と、会長の俺と、副会長の紅先輩くらいだけど」
任される仕事もない新入りの直姫と真琴は、ただ生徒会として席に座っているだけのようなものらしい。そんな軽い説明を黙って聞いている直姫には、知るよしもなかった。彼女|(見た目がどうであろうと、彼女、である)を待ち受ける、ほとんど災難と言っていい数々の出来事なんて。
◇◇◇
「あ、西林寺くん! おはよう」
翌朝、南校舎のアーチを潜る人波に乗っていた直姫の背中に、声がかけられた。振り返ると、探すまでもなく、見知った顔がそこにあった。
「あ……佐野くん。おはよう」
「昨日は慌ただしくて気付かなかったけど、同じクラスだね。僕、特待生ってクラス分けられるんだと思ってたよ」
「同じクラスにまとまってたほうがなにかと楽だとか、先輩たちが言ってたけど」
「うん、どういう意味なのかな」
控えめな苦笑い。
映画なんかでよく観る顔が目の前にあることに違和感を感じながら、直姫は言った。
「直姫でいいよ。呼びにくいでしょ、名字」
「あ、ほんと? じゃあ僕も名前でいいよ」
「わかった。ところで、真琴」
「え、あ、呼び捨てなんだ」
「後ろ」
え、と声を出して彼が振り向くその前に、それは起こっていた。「へあ!?」という変に裏返った声と共に、真琴が後ろに仰け反る。その首にしがみついたままけたけたと笑い声をあげた人物に、直姫は言った。
「おはようございます、恋宵先輩」
「おっはよん!」
伊王恋宵は片手を真琴の首から離して、指先をひらひらと動かした。ようやく体勢を戻した真琴も、律儀に挨拶をしている。
ちなみに名前呼びは、昨日恋宵と聖が強制的に二人に課したことだった。別にはじめての後輩でもないだろうに、名前に先輩付けで呼ばれることに憧れていたらしい。准乃介がちゃっかり名前でいいよ、と二人に言っていたのもあるだろう。
恋宵の背後には、その准乃介がこちらに向かってくるのが見えた。おそらく180センチ台の後半だろう長身は、人混みから頭一つ飛び出て見える。そしてどうやらそのあたりから、小さな歓声と黄色い声が湧き出ているのがわかった。
はじめは准乃介に挨拶する女子生徒たちの声だと思っていたのだが、それは勘違いだったことがすぐにわかる。その人は准乃介の隣を、長い髪を揺らしながら、ただ通るだけで人波を真っ二つに分けて歩いていた。
「石蕗様、おはようございます!」
「おはようございます石蕗様! あら、沖谷様も」
「石蕗様っ!」
「ああ、おはよう」
紅は口許に凛々しい笑みを湛えながら、きゃいきゃいと群がってくる生徒たちに時折言葉を返している。
たまたま近くにいて目が合った女子生徒が一人、歓声を上げてふらふらと人混みから離れていった。今にも倒れ込みそうな彼女に、すぐに「大丈夫!? しっかりなさって!」なんて悲鳴をあげて、友人たちが駆け寄る。
ちなみに紅の通る道を開けつつも彼女を取り巻く人垣は、ほとんどが女子生徒で構成されていた。男子生徒は人垣の外に追いやられ、人の頭越しに紅を眺めるだけだ。
うわあ、と隣の真琴が声を上げた。
「漫画とかドラマで見る女子校みたいですね……」
「紅ちゃんは幼稚園から悠綺にょろ、さすがに板についてるにゃ」
「あ、そうなんですか」
「ひじぃと夏生もにょろよ? なにげに幼馴染みなのぬ」
「へえー……」
そう話しているうちに、紅が三人に気付いて、片手をあげた。挨拶を交わすと、恋宵が彼女の肩に担がれたものに視線をやる。長い棒のようなものだ。
「紅ちゃん、今日は弓道部のヘルプにょろ?」
「ああ。部員が揃っていないから来週の大会に出てくれないかと言われてな」
「ほええ……弓なら弓道場にあるじゃにゃい」
「あれはなんだか手に馴染まないんだ。自分の弓を持ってきた」
「紅先輩、弓道もされるんですか?」
「紅ん家は格闘道場だからねえ。剣道に柔道に空手に合気道……道がつくものならなんでもこいなんじゃない?」
「そんなに色々……あ、道場って高校生からでも通えるんですか?」
「興味あるのか」
「空手を少しだけやってたことがあって……」
真琴が紅と話している間に、直姫は周囲をぐるりと見渡す。未だ遠巻きに紅や准乃介を窺い見ている生徒はいるが、大半は真琴たちにちらりと視線をやって、そのまま素通りするようになっていた。誰かと話している時は邪魔をしない、なんていうルールでもあるのだろうか。
おはよう、ごきげんいかが、なんて会話が、あちこちでされている。上品で穏和でマナーの行き届いた立ち居振舞いは、温室育ち特有のものだろう。
「直姫、」と声をかけられて、紅の方へ向き直った。真琴との話題は、午後の全校集会に移っていたらしい。
「昼休みにホールに来てくれ。一応、簡単な打ち合わせをしておこう」
「わかりました」
「それじゃあ、また」
「あたしこっちにょろ。あとでねー」
「あ、はい、また!」
校門は別にあるが、南校舎は通称『門』と呼ばれていて、校舎自体が巨大な門のような形をしている。一階の中心部分が、アーチ状にくり貫かれているのだ。アーチの両側にある大きな石の階段は二階へ繋がっていて、南校舎の玄関はそこにある。校門を潜った生徒はそのまま南校舎のアーチを通り、中庭を通って、自分の教室のある各校舎へと向かうことになっている。
東西の校舎の玄関は南校舎寄りの端にあるが、紅たち三年は、北校舎へ向かうために中庭を横切らなければならない。
これだけ広いと移動が面倒そう、というのが、直姫がこの学校に抱いた最初の感想だった。
◇
昼休み、二人がホールへ向かうと、そこにいたのは、今朝と同じ顔だけだった。紅は苛立たしげな溜め息を吐いていて、准乃介はそれを宥めている。恋宵はマイペースに、スタンドマイクで遊んでいた。
「あの、聖先輩と夏生先輩は」
「どうせまたサボりだっちゃー」
恋宵はそう答えると、マイクに向かって小さく歌い出した。サボりサボり、サボテンリッター、などと聞こえる気がするが、何を言っているのかはよくわからない。
「また、って……そんなによくサボるんですか?」
「常習犯だ、あの二人は……全く、けしからんな」
「屋上じゃないのー? 最近は暇なときも忙しいときも、大抵あそこにいるし」
どうやらその頻度は彼らが呆れるほどに高いようだが、毎回二人一緒にいるわけではない上にころころと場所を変えるため、だだっ広い校内を探すよりも、戻ってくるのを待っている方が賢明らしい。
そろそろ紅が大噴火するんじゃないかと真琴がひやひやしはじめた頃、ようやく揃って現われた。
「すあせん、遅くなりましたー」
「あれ、早いですね」
「早いですねじゃないだろう! どこに行ってたんだ、お前らは!」
「いやあ、ちょっと」
聖は苦笑いを浮かべて、夏生を見た。夏生はほんの一瞬だけ目を泳がせると、手に持っていた紙の束を、紅に手渡した。
「生徒会入会届の偽造が九人、手違いで西林寺直姫と取り違えられたっていう女子が二人、実は特待生はもう一人いたと言いに来た生徒が六人」
「今回は理事長からの紹介状を偽造した人もいましたよ。なかなか思い付かないっすよね」
「まあ、透かしもないしサインも明らかに偽物で、バレバレでしたけど」
「あぁ……そうか、そういう時期だな……」
紅は二人の話を聞きながら、夏生に渡された用紙を捲って見ていた。全員の身分証の写しを取っておいたようだ。
つまり二人が遅刻したのは、これらの不正の対応に追われていたから、ということらしい。
真琴は目を丸くする。
「え、そんな……十八人も?」
「今年はまだまだ……多い時で四十人近かったことがあったか」
「四十人!?」
一クラスじゃないですか、と青くなる真琴に、聖が眉尻を下げて笑う。
「まあ、全員処分するわけじゃないからね。でもさすがにあの時は大事件だったっすよねー。大道寺先輩が生徒会長になった頃か……中等部でも超話題になりましたもん」
「なになに、 あたし知らないにゃろ」
「恋宵は高等部からだからな……私たちが一年になった年のことだ」
その年生徒会長に就任した二年生は、少し回りを振り回すところはあったがカリスマ性に恵まれた人物だった。父親は会社経営に携わっていたが、それほど大企業というわけでもない、堅実なイメージの調理器具メーカー。それがわずかな付け入る隙だと思われたらしい。
あからさまなアプローチ――つまり、金品や取引を条件に生徒会に入れてくれ、と持ち掛けた生徒がいたことが、四十人弱という人数の原因だった。
当然、そんなことは認められない。理事の判断で、裏口取引を持ち掛けた者には相応の処分、頼み込むぐらいならば注意程度で済まそうという措置が取り決められた。結果、名家や大企業の子供ばかりが十人以上も学校を去るという、悠綺史に残る大事件にまで発展してしまったのだった。
「夏生や紅先輩に裏取引持ち掛ける度胸のある人なんてまずいないからね、最近は落ち着いてるけど」
「今回の十八人にはちゃんと注意しておいたんで、まあ大丈夫だと思いますよ」
あっさりと言う聖と夏生に、真琴が顔を引きつらせる。
そんな彼らを尻目に、紅が「さて、」と声を大きくした。
「打ち合わせを始めようか。とりあえず、理事長は不在だから、挨拶は省略される」
「え? 理事長、いないんですか」
「あの人はいっつもどっか飛び回ってるからねえ。いることの方が少ないんじゃない?」
「俺一回しか見たことなーい」
「そうなんですか……」
真琴は目を丸くしているが、直姫の記憶にある紀村悠子は、そんな人で間違いはなかった。学校を作ったなんて聞いた時は驚いたが、理事でも相変わらずらしい。
紅は続けて、その後の大雑把な進行を挙げる。
今回の集会は、学校職員の紹介が主らしい。馬鹿みたいに広くて豪奢なこの学校は、教員の他にも膨大な数の職員を抱えている。食堂には和洋中のコックと給仕、パティシエが合わせて二十人ほど。メイド服と執事服の用務員は三十人以上いる。他に庭師や警備員、臨時講師など様々な職員が出入りしており、全て含めるとその数はゆうに百人を超えているのだ。
その一人一人すべてを紹介するわけでは勿論ないが、主な面々を並べるだけでもずいぶん時間がかかるのだろう。
だが、全校集会はそれだけでは終わらなかった。夏生が言う。
「警備員から短い話があって、そのあとが、生徒会役員の紹介になるから。簡単にプロフィールまとめてあるから一応目通しておいてよ」
「え?」
声を上げたのは、それまで全くと言っていいほど顔色を変えることのなかった、直姫だった。眉だけがわずかにひそめられて、一瞬で戻る。
「そんなのあるんですか? プロフィール?」
「うん」
「全校生徒の前で?」
「当たり前でしょ」
小さく首を傾げて、口許だけで笑う。妙にさまになったその姿に不吉を覚えた直姫の予感は、正しかった。
「わざわざ何回も面接して選んだんだから、しっかり“看板”の仲間入りしてよ、特待生」
そんな話は聞いていない――真琴と揃って絶句する。目立たず空気のように学校生活をやり過ごそうなんて、はじめから無理な話だったのだ。
夏生の後ろで苦笑いを浮かべる聖や准乃介の表情を見て、直姫はようやく気付いた。
特待試験は、特待生を選ぶためのものではない。端から、生徒会役員を選ぶためのものだったのだ、ということに。