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ONLOOKER  作者: 鳴瀬倉
16/31

紫陽花に恋2

 雨の季節も、もう一週間近く続いている。やはりどこか重く水分を含んだ空気がすべてくるむような、そんな季節だ。日本中が、気が滅入りそうな雨模様、青灰色の空を見上げては、溜め息ばかり溢している気がした。

 しかしそんな中でも、活気に溢れ、こんな天候のせいでむしろ体力と動きたい衝動を持てあましている人間はいるものだ。夏生いわく『元気なバカ二年生代表』の二人は、今日も今日とて、全力で遊んでいた。


「ひじぃの髪の毛静電気凄いにょろ~」

「あー、俺猫っ毛だから……て、ちょっ、風船やめて風船! きゃー!」

「にゃははははくるしゅうない」

「ちょっと、恋宵ー? どこからこんなに風船持ってきたのー」

「なんかぁ、おうちにいっぱいあったのですにょろ」

「た、たらのめ製薬?」

「今時風船配ってる薬屋さんなんかあるんですねぇ」

「あぁ、うちも弟いるからよく貰うなー」


『タラノメ製薬』という社名ロゴと、イメージキャラクターらしい魚のイラストが白抜きされた色とりどりの風船がいくつも、うろうろと揺れながらそこらじゅうに転がっている。わざと割ったり聖にぶつけたりして楽しそうに遊ぶ恋宵だが、タラノメは植物であってその魚とは事実上なんの関係もない、ということは、知っているのだろうか。


(……ほんとに高校生かな、この人たち)


 直姫が呆れたようなわずかに微笑ましいような気持ちで、はしゃぐ恋宵と聖を眺めていると、不意に窓際から声がかかった。騒がしい中でも不思議と響く、高くも低くもない声である。


「ちょっと、直姫」

「はい?」


 夏生は、こちらに来い、というのを、目線は向けずに手招きだけで示した。視線を落としているのは、次の生徒総会で使うのか、なにかの予算案らしき書類だ。


「これ、コピー取って職員室に持って行って。十五部」

「えぇー」

「えーじゃない。急ぎね」

「はーい……」


 夏生の指示にあからさまに不服そうにして見せるのは、きっと直姫くらいのものだろう。それも夏生に軽くあしらわれるというのもなんとなく気に入らないが、言われた通りにコピー機に向かう。夏生は怠惰だし不真面目だが、仕事をしていないわけではないのを知っているからだ。昼寝をしなければもう少し楽になるはずだが、やるべきことはきっちりこなしているので、直姫から言えることではない。

 封筒に入れた書類を手に生徒会室を出た直姫は、この雨の中を走るのかと、薄いしかめっ面で窓の外を見上げた。渡り廊下を通れば外に出なくてもいいし濡れることもないが、この北校舎から東西の校舎を経由して南校舎へ行くと、走っても十五分以上もかかってしまう。中庭を突っ切ればずいぶん時間は節約されるが、それでは自分も書類も濡れてしまうだろう。いつからか鞄に入れっぱなしになっていた折り畳みの傘を持っては来たが、風も少し出てきたし、無事に届けるのは至難の業かもしれない。

 直姫は、わずかに寄っていた眉間のしわを、深くした。


(やっぱ雨、嫌いだ)


 ◇


「失礼しました」


 職員室の扉を閉めて、直姫は再び窓の外を見上げた。携帯電話を取り出して、夏生に無事届けたとの報告をメールで送る。一分も経たない内に、すぐ戻っといで、という返信が来る。


(まったく、人使い荒いな……)


 玄関で、スリッパから靴に履き替える。こんな格好をするようになってから気付いたのだが、濡れた革靴というのは、非常に不愉快なものだ。できれば履きたくないが、上履きのまま渡り廊下経由で来ることを選ばなかったのは自分なので、仕方のないことだ。今日は溜め息ばかり吐いている、と思った。

 傘立ての横に立てかけていた、雫の落ちきっていない折り畳み傘を手に取る。アーチの横の階段を降りていたとき、見覚えのある姿が、アーチの門の中に見えた。雨粒越しだが、見間違えはない、と自信を持っていた。人の顔を覚えるのは苦手だが、一度覚えた人間はなかなか忘れないのだ。


 ◇


 彼女は眉尻を下げ、困った顔をして、門の中に立っていた。教室に忘れ物をしたのだ。今日はピアノのレッスンの日だから、外に車を待たせてある。コンクールも近いし遅れるわけにはいかないというのに、空は相変わらず不機嫌なままで、北校舎への最短距離である中庭を走って通ろうにも、この雨足ではすぐにびしょ濡れになってしまうに違いなかった。かといって、迂回して渡り廊下を通れば、彼女の足では三十分近くかかってしまう。レッスンに遅刻するのは確実、そうなればあの神経質な眼鏡の中年女講師が黙ってはいないだろう。貴重な練習時間を説教で潰されたくはないのに。

 彼女は、己の間抜けさを思いきり呪っていた。というのも、忘れ物とは、傘とピアノの楽譜。今取りに戻らないわけにはいかなかったのだ。


(傘だけでも忘れてなかったらなぁ……)


 そうすれば、多少濡れてしまうのは覚悟するとしても、中庭を急いで通ることも容易だったのに。もういっそ濡れてしまおうかと、やけになってそんな風に思った時だった。アーチの横の階段を下りて来た人物が、門の中に駆け込んで来たのだ。


「……東先輩?」


 少し高めの、抑揚の少なく冷たそうで沈着な印象を受ける、それでいて柔らかい声。傘で顔は見えなかったが、彼女が聞き間違うはずがない。傘を畳むと現れたのはやはり、濡れたような黒髪と、大きな瞳だった。

 彼は、千佐都だと確認すると、やっぱり、と微笑む。


「な、直姫くん」

「どうかしたんですか?」


 ワイシャツの袖をカーディガンごと無造作に捲った、華奢な腕。放課後だからか緩めたネクタイと、少年らしい細い首。そんなものにいちいちときめく、なんて誰にも明かせないが、千佐都はこっそりと盗み見るように、ちらりと視線を送った。


「あ、もしかして、北校舎に……?」

「あ、そう、そうなの。傘と楽譜、教室に忘れちゃって」

「じゃあこれ、どうぞ。」


 爽やかで人を安心させるような、優しい笑顔。あまり表情豊かなほうではないだろうに、案外よく微笑んでくれるのだ。

 そんな直姫の表情に見とれる隙もなく、一瞬の躊躇もなしに差し出された物を見つめた。濡れた折り畳みの傘。少し暗い藍色が、どこか彼に似合いだと感じた。


「え……これ、直姫くんの?」

「はい、自分はもうなくても平気なんで、使ってください」

「え、でも直姫くんが濡れちゃうよ」

「ヘーキですから」


 彼は千佐都の手を取ると、傘を握らせて、自分はぱ、と手を広げた。濡れて困るものを持っていない、と言いたいのだろうか。そして千佐都がその仕草の意図を考え込んだ、一瞬の間に、さっさと中庭に走り去ってしまったのだった。分厚い雨のカーテンに、すぐにその後ろ姿は見えなくなる。残ったのは青い傘と、指先に冷たい掌の感触。火照った頬に触れると、すぐに薄れてしまって、少し勿体なく感じた。


 ◇


「ただいま戻りました」

「おわ、水も滴る良い男」

「男?」


 頭を左右に振ると飛沫が跳ねて、准乃介からわずかな非難と、恋宵のお節介を浴びた。


「直ちゃんびしょびしょ! 傘持ってったんじゃにゃいのー!?」

「えっと、東先輩がいたんで、貸して……」

「そんにゃ男前なことして! まったくあなたは天然タラシですかにゃ、ほらこっち来なさいっ」

「は? たらのめ……」


 恋宵に腕を引かれるまま休憩室に入ると、夏生が中毒のように飲むコーヒーの薫りが、壁にまで染み付いたように、しっとりと香っていた。小学校の職員室ってこんなかんじだった、と思いながら、前髪から落ちる雫を目で追っていると、不意に視界が暗くなる。


「ほら、頭拭いてー」

「……ありがとうございます」


 頭から被せられたタオルの上から、恋宵の手のひらの感触が伝わる。わしゃわしゃと髪を掻き混ぜる手に、なんとなくされるがままになっていると、ふふ、という笑い声がした。少し聞こえづらいが、なんだか楽しそうな人が、目の前にいる気がする。タオルと前髪の隙間から目が合った恋宵は、やはり笑顔だった。


「なんか、年の近い妹みたいにょろ」

「……そうですか? よく弟っぽいっていわれるんですけど」

「そーねぇ、性格的には弟かにゃ。生意気だし、負けず嫌いだし」


 誉めているわけでもないのだろうが、にこにこと嬉しそうに笑っているあたり、貶しているわけでもないのだろう。


「恋宵先輩、一人っ子ですよね? 妹欲しいんですか」

「んー、そだねぇ……」


 そう呟いて、ほんの一瞬だけ、遠い目をした。すぐに近づいたので、見間違いだったのかどうか、わからない。


「直ちゃん、そのままじゃ体冷えちゃうにょろよ。着替えなきゃー」

「今日体育なかったから、ジャージ持ってないです」

「えっと、ここに確か、にゃんか着替えが……あ、あった」


 休憩室の隅になぜか置かれたクローゼットを開けると、さらになぜか、十数着の衣類がぎっしり詰まっていた。なんだか明らかに用途不明なものまで見える。


「ちょっと待って、なんでタキシードとかメイド服とかあるんですか」

「着ぐるみまで……あっ、チャイナドレスあるにょろ、今度紅ちゃんに着せよ。直ちゃんは……はい、セーラーふ」

「ジャージでいいです。ジャージがいいです。」


 どうやら過去の行事ごとなどでことあるごとに使った仮装用の衣装などが、行き場をなくしてここに辿り着いたらしい。中には先日の定期発表会で直姫が着た大友家のメイドのユニフォームもあって、嫌なことを思い出しかけると共に、紅に同情した。

 恋宵の期待に満ちた目と言葉はとりあえず無視して、着替えるから出てください、と、細い肩を扉の向こうに押し出しす。その時、生徒会室には、ノックの音が響いていた。恋宵はそれに気付くが、直姫は気付かない。

 扉を開いた紅は、見慣れた人物の意外な挙動に、ぱちりと瞼を瞬かせた。


「千佐都? どうしたんだ?」

「あ……えっと、直姫くんに用事が……」

「直姫に?」

「さっき、傘を借りたから、返しに来たんだけど……お礼、言おうと思って」


 どことなくもじもじと俯く彼女に、いつものサバサバした印象は見当たらない。緊張気味に頬を少し染めている様子は、こう言ってはなんだが、まるで“女の子”のような。


「あぁ、それなら私から言っておこうか」

「や、あの……直接、言いたくて」

「そうか。なら今、休憩室に……」

「そ、そう、ありがとう! ちょっとお邪魔するね!」


 言うが早いか千佐都は、いそいそと奥の扉へと向かう。手には、綺麗に畳んだ折り畳み傘。その姿を彼らは、なんの気なしに眺めてしまっていた。気付くまでに、一瞬の間が開いてしまう。


(あ……着替え中、)


 その隙が不覚だった。こと西林寺直姫に関して、薄着姿でも体を見られることは、すなわち彼女の最大の秘密を露呈することになる、致命的なミスであると。

 しかし制止は間に合わず、千佐都は、勢いのままに開けてしまったのだ。驚愕と失意へ続くであろう、その扉を。



 ――かちゃ、


「直姫くんっ!」


 扉のほうに背を向けていた直姫が得ることのできた情報は、耳からのものだけだった。休憩室の扉を開けて、生徒会メンバーではない、『直姫くん』なんて呼び方をする誰かが、自分の名前を呼んだのだということを、理解する。自分をそう呼ぶ人物は限りなく少数であり、少なくともこの学校では今のところ、大友麗華を除けばただ一人だけである、ということも。

 着替えの途中、サイズの合わないジャージを履き、上半身は濡れて肌に張り付くカッターシャツを脱いで下着とタンクトップだけ、という状態のままで、直姫は咄嗟に後ろを振り返った。


「直……姫、くん?」

「……あ、ずま、先輩……」


 千佐都は目を丸くしていた。思考は止まってしまったように見える。

 直姫だって一応混乱し、困惑していたが、そんな時に限ってなぜか周りには至って冷静に見えるようで。とりあえずなにも言わずに、Tシャツを着てジャージの上着を羽織って、千佐都に向き直った。


 ◇


「どうかしました?」

「え……あ、か、傘」

「わざわざ届けに来てくれたんですか。ありがとうございます」

「や、こっちこそ、ありがとう、助かったわ」

「いえ、」


 ピアノのレッスンに遅れて、あの感じの悪い講師からねちねち小言を言われるなんてことは、もう千佐都にとって、ごく些細なことだった。すぐに会いたい、顔を見て声を聞いて微笑んだ顔が見たい、ついでにできれば色っぽく濡れた姿も強いて言えば見たいかもしれない。そんな純粋なのか不純なのかよくわからない動機で、気付けば傘をきちんと拭いて畳んで(自分の物ならば無造作に丸めてまとめてしまうところだ)、生徒会室の前に立っていた。着替えシーンなんてまったく少しも微塵も期待していなかったと言えば真っ赤な嘘になるが、見るつもりがなかったのは本当だ。ただ少し、勢い余ってしまっただけで。

 ぱたり、音を立てて、扉が閉まった。壁を一枚隔てた向こうには、会いたくてたまらなかった相手がいる。

 白い肌に生える、黒いタンクトップ。それに包まれた腰の細さは、明らかに男性のものではなかった。千佐都より華奢なくらいだ。あんなに女の子みたいでかわいいと思っていた大きな瞳も、長い睫毛も、“みたい”で片付けられるものだろうか。さっきはときめく材料になった首や指だって、考えてみれば、少年にしたって細すぎる。文字通り折れそうな、それは、まるで。

 背後では、准乃介が目を覆い、紅が凍りつき、恋宵が慌て、真琴が焦り、聖が静電気で髪に貼り付く風船にあたふたし、そして夏生は、細く溜め息を吐いたことにも気付かないままで。千佐都は、小さな声で、呟いた。



「……お……女………………!?」



 同時に扉越しには、直姫が面倒そうに、あーあ、と頭を抱えていた。



 ◇◇◇


 案の定。とでも、言うべきか。直姫は、ことが起きてからようやく、あの五人に関わるとろくなことにならないという言葉を、身に沁みて、充分過ぎるほどに理解していた。少しの遠慮もなく、はぁと溜め息を吐く。もしかしたら、雨だから溜め息を吐くのではなく、溜め息が雨を降らせているのではないだろうか。


「……またか……」

「おっせーよてめー、サイリンジくん」

「重役出勤とはいーご身分だねぇ」


 面倒な顔触れが、またしても生徒会室のソファーに並んでいた。今日は千佐都を除く四人だが、彼女がいないほうがある意味で厄介かもしれない。いや、彼女がいたところで抑止力になるのかもいまいちわからないし、なによりどう接していいかもわからないのだから、同じことだろうか。そう思い直して、直姫は彼らにちらりと視線を流した。


「ねぇ、千佐都、ピアノのレッスンもさぼって僕たちに泣きついてきたんだけど?」

「どーゆうことか説明しろよ、オイ」

「『もう年下の可愛い系なんか好きにならない!』だってよ」

「ガチムチのおっさんに走ってもうたらどないしてくれんの、なぁ」

「え……いや、それは」


 自分のせいではないのでは、という言葉を飲み込んだ。明らかに怒っている、しかも自分の秘密を握っているかもしれない相手に対して、わざわざ逆上させるようなことを言うほど、マゾでもサドでもない。入学式の放課後以来に感じた緊張感に、自然と姿勢もよくなる。極力誰とも目を合わせたくなくて、視線は斜め下あたりを行ったり来たり。しかしそれが怯えや恐怖からくる挙動不審ではなく、ただ面倒を避けたい一心だということは、その目の投げやりさとこれまでに見てきた彼女の性格から、真琴たちには明白だった。精神的リンチにも近いこの状況で、あまり柄のよろしくない先輩たちを前にこの態度だ。度胸は認めざるを得ないが、ふてぶてしすぎて、フォローもしづらい。

 とはいえ実際のところ落ち着いているのは、当の本人と夏生だけである。相変わらず彼らを前にした准乃介の目は笑っていないし、紅は笑顔のまま終始無言でいる隣の彼に肩を竦め、真琴はおろおろと険悪な雰囲気に戸惑い、恋宵と聖はそわそわしていた。

 そしてとうとう居心地の悪さが限界を越えたのか、紅が口を開く。内容は決して、この重苦しい状況を打破できるような、明るい話題ではなかったが。


「な、なぁ、その、千佐都から聞いているのか……?」

「なにを?」

「いや、だからその……できれば他言は」


 あの時、直姫が着替えているところを見てしまった千佐都は、本当は女であることをはっきり知ってしまったはずである。そこの扉、休憩室の前で呆然と呟くのを、全員が聞いているのだ。失恋のショックで、全てを彼らには話してしまったものと、当然のように思っていた。だが大道寺倭は、強面の顔をさらに険しくした。


「なんの話? そんな聞いちゃまずいことしたわけ?」

「え……なにも聞いてないんですか」

「は? まさかお前もホモとか言わねぇよな」

「うっわー生々しい! 西林寺に限ってはなんか生々しい」

「……自分はノーマルですけど」

「君はそうでもショタコンのホモにはモテそうだよねぇ」

「ぶふっ、」


 笑いを堪え切れなかった颯がコーヒーを噴き出しそうになっているのを心底迷惑そうに眺めながら、直姫は実に不本意な思いで一杯だった。わざとなのだろうが、失礼だしうざったいし鬱陶しいしうるさいし、最悪な気分だ。千佐都からなにも聞いていないという情報を引き出した今、もはやへりくだる必要はまったくないようにも思える。実際これまでへりくだっていたのかどうかは、今はおいておくとしてだ。

 ともあれ、これは、結果的には無事、ということなのだろうか。とりあえず生徒会以外に今この学校にいる生徒で、直姫の秘密を知ってしまったのは、今のところ千佐都だけだろう。これからも他言せずにいてくれるかどうかは彼女次第であるが、他人の秘密をそうべらべらと言いふらしてしまうような人間だとは思えない。千佐都が失恋したと思っているということは、目先の問題、女生徒からの対応に困る猛アタックや、その子に過保護な幼馴染みが四人もいて絡んでくるということも、一応は片付きそうだ。

 どういうつもりで千佐都が口を閉ざしているのかは、わからない。真意は直接彼女に尋ねるしかないだろう。とにもかくにも、今は。


「てゆーか帰ってください」



 ◇◇◇


「直姫くん」


 それからまたさらに翌日。放課後、背後から呼び止められたのは、生徒会室へ向かう途中の北校舎だった。振り返ると、もう向こうから関わっては来ないのかと思っていた人物。北校舎にいる生徒で『直姫くん』と呼ぶ、唯一の人である。


「東先輩……」

「この前はごめんね……あ、それと、昨日も。あいつらがまた押しかけちゃったみたいで」

「いえ、」


 苦笑は大人びている。楽しそうな笑顔との大きな違いはやはり、心からのものか、そうではないか、なのだろうか。彼らもきっと、あの子供のように笑う姿が見たいのだ。大事な幼馴染みを泣かせた直姫は、当然悪者だろう。それにしても感じ悪いけど、と思っているが。


「あ……、えっと」

「涼介たちにはなんにも言ってない。これからも言わないつもり」

「……どうして、ですか」


 理由を問うのも、おかしな話かもしれない。彼女が話したくなければそれを聞く権利は直姫にはないし、ただ黙って、ありがたくそれに甘んじているほかはないのだ。千佐都は少し首を傾げてみせた。


「だって、なんの事情もないのに、そんな大変なことしないでしょ?」

「……まぁ、それは……色々と事情は」

「ほんのちょっとの間だけだったけど、好きだった人を困らせるような真似、したくないわ」

「先輩……」

「あたし、男運は最悪だけど、諦めは良いの」


 そう言って微笑む千佐都は、普段と変わらず大人っぽくて、普段と変わらず子供みたいで。良くも悪くもまぁ、長い間同じ顔ぶれで一緒にいる理由が、ほんの少し分かった気がした。これじゃあ、居心地がよすぎて離れたくないのも、仕方ないかもしれない。直姫は、目を細めて、小さく笑った。心からのものではないが、愛想笑いとも言い切れない微笑みだ。


「……ありがとうございます」

「あぁあ、君、ほんと女にしとくの勿体ないな」

「え、それ……褒めてるんですか」

「え? まさかぁ」

「……先輩こそ。男運悪いの、勿体ないですよね」

「ありがと、褒め言葉として受け取っとくわ」



 ◇◇◇


『ただいま速報が入りました、えぇ、ただいま速報が入りました』


 大事なニュースを視聴者が聞き逃してはいけない、というのはわかるが、その言葉を二回繰り返す意味はわからない。化粧は厚いが年齢は隠せていないアナウンサーが、急いでいるのかいないのか、早口で捲し立てるのは、参議院議員選挙の様子らしい。誰がどんな選挙活動を行っているとか、誰が出馬を発表しただとか。近々発表される次期総理大臣の予想も、白熱してきている。

 そんなものをなんの気なしに視界の隅や鼓膜の端に受け入れながら、紅は生徒会室で、いまだ来ない後輩たちや、少し遅れると言った同級生を待っている。そしてやはりなんとなく、持て余した暇を埋めるために、時間と手間を掛けて紅茶を淹れてみることにして、テーブルの上にティーカップを並べていた。カップは最近お気に入りの、白地にてんとう虫とクローバーがあしらわれたものだ。政治には無関心ではないが、まだよくわからない。

 そんな時、ノックもなしに生徒会室の扉が開かれた。


「ちーっす、……て、なんだ、石蕗だけか」

「なんだとはなんだ。最近よく来るな」

「そりゃあ、顧問なんだから」

「昨年度は半年に一度しか来なかったように思うが」

「だって大道寺怖かったし、だいたい俺がいてなんの役に立つっつーんだよ。いやぁ優秀な教え子を持って嬉しいなー先生」


 夏生だったら、生徒会長が時間に遅れてどうするんだ、と文句の一つも言ってやろうと思っていた彼女だったが、現れたのは、生徒会顧問である竹河居吹だった。薄い色のサングラス、ボルドーのシャツにはノーネクタイで、スーツはグレーのピンストライプ。相変わらずの派手さにすっかり慣れている自分に、いいのかそれで、と内心呟く。それが入って来るなり、背広の内ポケットから煙草の箱とライターを取り出したものだから、やはり口を尖らせる羽目になった。


「だから、生徒会室を喫煙所にするなと何度言ったら」

「え? あー……あ! ほら、それそれ」


 話をそらしたかったのかなんなのか、不意に居吹は、BGMになっていたテレビの画面を見た。薄茶色のレンズ越しの視線が、ある一点に留まる。


「……なんなんだ?」


 紅は呆れ半分で、視線の先を追った。居吹の手元は、ずっとライターを弄っている。

 画面の中では、選挙情報と関連してか、現代の日本の政治、なんて曖昧な論題でコメンテーターが数人、言葉を交わしていた。その中の一人を指し、なんでもないような口調で、居吹が言う。


「ほら、この人。西林寺の親父さんだろ」

「……、え?」


 なんでもないことでは、決してないだろうに。




「あ、紅先輩。早いですね」

「あ、居吹。久しぶりー」


 一瞬だったのかもしれないし、数十秒、または数分間にも及んでいたのかもしれない。もしそうだとしたら、急に口を噤んだ紅を、居吹は不思議に思っただろう。


「おぉ、東雲。沖谷も一緒か、珍しいな、お前ら二人なんて」

「そこで会ったんですよ。准乃介先輩、また女の子に呼び出されてたって」

「ちょ、夏生、余計なこと言わないでくれる。……紅?」


 普段ならなんとなく含みのある視線を向けてくる彼女がなんの反応も示さないことに気付いて、准乃介は、その肩に手を掛けた。わざと顔を寄せる。いつも通りならそこで、頬を赤らめて振り払うか、無言で冷たい視線だけ寄越すはずなのだが。


「こーう、おーい」

「……准乃介、……夏生」


 完璧主義な彼女のことだ、なにかに没頭するあまり周りの音や動きを認識しなくなる、なんてことはざらにある。しかしそれと今とは、少し違うようだ。

 視線をずらさないまま、遅刻した生徒会長への小言も、煙草に火を点けた居吹への文句も、忘れていた。ぼうっとしていた、というよりは、未だ思考を続けたまま、言葉を選んでいる。


「……なんですか?」

「直姫の父親……知ってるか」

「えぇ、元政治家ですよね……詳しくは」

「…………この、人」

「え?」


 夏生はちらりと視線を流した。紅の指差した先を見て、紅を見て、准乃介を見る。彼もほとんど同じ動きをしていた。もう一度、「え」と言う。


「それって……」


 五十歳手前くらいだろうか。ほとんど白髪になった髪と、それでいていまだ十分に端正だと言える、意志の強そうな顔付き。画面の中で口許に小さな笑みを湛えている。たれ気味の目と、唇の形が、彼らのよく知る後輩とよく似ていた。

 引退してなお、テレビや雑誌や新聞などでよく見かけるその人物──喜多嶋義直(きたじまよしなお)は、珍しく瞠目して呟く准乃介の記憶にも、随分と色濃い。

 なにしろ、彼は。



「……元、総理大臣、じゃん…………」



 少なくとも、直姫が性別を偽っている理由が、世間から正体を隠すためだと、容易に理解できる程度には。

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