プロローグ1
もう四月だというのに、その日はまだ少し肌寒かった。
桜の花もまだ開ききらない、曇り空。私立悠綺(ゆうき)高等学校では、三十分後に開かれる入学式に向けて、準備が進められていた。
どこの自然公園かと見紛うような、広大な敷地。
城のような門を抜ければ、リムジンが十台停まってもまだ余裕のあるロータリーと、一流ホテルのような正面玄関が控えている。ちなみにこの校門は厳戒な警備に守られ、生徒や教師はもちろん、用務員や送迎の運転手まで、全ての人の出入りはチェックされている。
校舎は東西南北に四つあり、四方を囲った中にあるのは、完璧に整えられたシンメトリーの中庭だ。
その四つの角に接する形で、多目的ホール、二つの体育館と、広いグラウンドがある。四角形の辺にあたる部分には、プールやテニスコート、道場や、日本庭園が望める茶室なんてものもある。
だだっ広い敷地、充実した設備と、建築から装飾から調度品まで、全て超一級品。まるで、金持ちが持て余した暇と財産に任せて私立高校を作ったような、そんな様相で――事実、その通りだった。
理事長である綺村悠子という女性は、謎に包まれた人物だ。
上等のスーツと長いブロンドの髪、真っ赤な口紅と、いつも顔の半分を覆っている大きなサングラス。常に海外を飛び回っていて、何をしているのかもよくわからない。たまに帰ってきたと思えば、突然おかしな行事を開いてみたりする。なぜか大きなコネクションをいくつも持っていて、名家の家柄や実業家の家などから入学者を募っていた。
そんな悠綺高校が、創立してわずかで超難関の名門攻にまで登り詰めるのは、当然の結果といえただろう。高いセキュリティを頼って、世間の注目度の高い家の子供ばかりが入ってくる。政治家や財閥、大手企業の経営者。それらのスキャンダルを狙う新聞や雑誌の記者を弾き返すために、さらにセキュリティを強化する。マスコミが入り込めないことを聞いて、学業と仕事を両立したい芸能人や、芸術家、スポーツ選手など、各界著名人までが受験するようになった。
そんなことが続いて、いつしか悠綺高校は、“有名人ばかりが通う超金持ち名門校”として名を馳せるようになったのだ。
さて、そんな悠綺高校でも、行事のたびになんとなく浮き足立つ雰囲気は、よそと少しも変わらない。ゴシック様式の校舎のあちこちからは忙しない声が行き交っており、言葉こそ上品だが、それは時間が経過するにつれて少しずつ高揚感を増しつつあった。
そんな北校舎の三階、とある一室では、数人の生徒が慌ただしく動き回っていた。
悠綺高校生徒会――あらゆる意味で、この学校の頂点に君臨していると言っても過言ではない集団だ。この春新しく入るはずの二人を除く五名がその役員であるはずだが、なぜか今ここには三人しかいない。
「紅ちゃん紅ちゃん、校内地図が一枚足りないにょろよう」
ショートボブの黒髪も口調もくるくると跳ねる少女が、ふざけたような口調で訴える。それを受けて眉を寄せたのは、目を瞠るほどの美貌を持つ、長い黒髪の女子生徒だった。
「校内地図? さっき人数分あるのをきちんと確認したはずだろう!」
だが日本人形のような容姿から飛び出たのは、まるで堅苦しい男性口調だった。髪を掻き上げて放った凛々しい声は、緊迫感たっぷりだ。
「でもどこ探してもないんですにゃあ」
「そんなはずはない、探せ!」
その声を合図に、あちこち引っ掻き回して探し物を始める。そんな二人に、机の下に滑り込んでいた目当ての物を拾い上げて差し出したのは、見上げるほどに背の高い男子生徒だった。
「はい、これ。つーかこれって実行委員の仕事じゃないのー? なんで生徒会がこんなことまでしなきゃいけないかなー」
「手が回らないと言うんだから仕方ないだろう? パンフレットの用意が遅れていると、まさか今朝になって気付くなんて」
「これで全部にょろね? 准乃介先輩、玄関まで運ぶの手伝ってくれますかにゃ」
「ああ、いいよ、俺がやるから。女の子が重いもの持たないの」
小冊子がぎっしりと詰まった段ボール箱を抱え上げようとした小柄な後輩を、彼は手で制する。そして、机の端に無造作に置かれていたヘアゴムとリボンを手に取って、にこりと笑って手渡した。
「それより、恋宵はこれ、よろしく」
「あ、そっか」
少女はそれを受け取ると、髪の長い女子生徒の方へ「紅ちゃん、髪!」と言いながら近寄って行った。ちなみに段ボール箱を二つ軽々と持ち上げた男子生徒と、この男口調の女子生徒は同級生で、共にこの春から三年生だ。二人とは先輩後輩の立場にあたるわけだが、気心知れた仲なのか、少女は彼女に対して畏まった話し方をすることはなかった。
「ああ……あとでやろうと思っていたんだった、ありがとう」
「今のうちにやっといた方がいいにょろよ、時間なくなっちゃう」
「あと十五分だからねー」
「そうか、もうそんな時間……」
後頭部の高い位置で手早く結った髪に、少女が背伸びをしてリボンを巻き付ける。やりづらいから座って、と言われて腰かけたソファーで、ようやく一仕事を終えた溜め息を吐いてから、彼女は呟いた。
「……それより」
忙しさからうっかり放置していた事実に、その時やっと気付いたのだ。
勢いよくソファーから立ち上がる。その拍子に長いポニーテールが、滑らかに揺れた。
少女は仰け反るようにして先輩の後頭部を眺め、扉を開けて出て行こうとしていた男子生徒は、ふと振り返った。
「それより?」
女子生徒は、窓のそばにあるやや装飾の控えめな扉に駆け寄り、ばん、と開いて、中を見る。それを閉めると、今度は開け放されたままの窓から身を乗り出して、裏庭に視線を走らせた。
眉をぐ、と寄せた表情で、体を引っ込める。
そうして息を大きく、大きく吸い込んで。
「夏生と聖はどこに行ったあ───!?」
怒号とともに、思い切り吐き出した。
◇◇◇
西林寺直姫(さいりんじなおき)は、桜の木を見上げた。
馬鹿に高い校門より、さらに高く聳えた木だ。蕾は膨らみきっているが、きっかけがなかなか掴めないみたいに、まだ一つも咲かずにいる。そういえば、今年は開花が例年より遅れていると、昨日の夜のニュースで報じていた。直姫は一瞬手を止めただけですぐにそんな話題からは興味をなくし、次はどの映画を見るかを選ぶほうに意識が向いたのだが。
上を向いた拍子に、顔の横でさらりと黒髪が揺れた。短い髪は瞳と同じ、日本人には珍しいほどに漆黒で、色白の肌とお互いを引き立て合っている。小柄な体とひんやりと冷たげな目元も相まって、やけに儚い印象を生んでいた。
まるで絵に描いたような、“深窓の令嬢”だ――身に纏うものが、これでなければ。
襟元に白のラインが入った、焦げ茶色のジャケット。真っ白なカッターシャツに、きっちりと締めたネクタイ。スラックスはネクタイと同じ柄の、深緑系統の上品なタータンチェック。理事長のこだわりの一つ、“知り合いのデザイナー”に特注したという、学校指定の、男子用の制服だ。
しかし自慢のデザインも、中性的なその顔付きとでは多少の違和感が否めなかった。実際、まだ自己紹介も済ませていない初対面の同級生たちからは、その容姿のせいで不躾な視線を受けることも多かったのだろう。無表情の中にも、わずかな疲れが見える。それで控え室となっている西校舎の教室を抜け出して、桜の木が並ぶここへと辿り着いたのだった。
なぜか入学式案内のパンフレットの数が間に合っていないらしく、直姫と数人の新入生は手ぶらで教室に通されてしまった。今持ってくるから、と丸い顔に丸い眼鏡をかけた教員が走り出て行ったが、直姫はそれを待たずに一人散策をはじめていた。そのため、校内の全貌も位置関係も、全く分かっていない。ここは庭なのだろうか、東校舎と隣り合った建物の窓が並んでいる。いくつかは開け放たれているが、その中の一つ、三階の中央にある窓から突然怒号が飛んできたのは、その時だった。
「夏生と聖はどこに行ったあ――――!!」
直姫は一瞬動きを止めたが、それだけで、目を丸くすることもなかった。それに続いて、小さな悲鳴や、先輩、という叫び声が聞こえてくる。なんなんだ、とその窓を見ていると、どうやら相当広いらしい校内に響き渡るような音量で、アナウンスが流れた。
開会十五分前をお知らせします。それだけ二回繰り返して切れた放送に、直姫はそろそろ戻るかと、踵を返した。
さっきの丸い眼鏡の教員に「入学式が終わったあと、少しここに残っててくれな」と言われることになるのは、この三分後。そしてそれから二時間ほど後のこと、直姫は、この先の少なくとも三年間を左右するような、そんな出会いを遂げることになるのだが――それを、まだ知るよしもない。
◇◇◇
東雲夏生(しののめなつみ)は、この学校の生徒会長である。
実質上、悠綺高校全生徒の頂点に等しい存在。それを彼は理解していたし、利用もしていたし、自分がそれにふさわしいという自負も持ち合わせていた。
悠綺高等学校と悠綺大学附属中等部では数年前から、生徒会選挙の候補者を一部完全他薦で選ぶという、一風変わった方法がとられている。また例によって例のごとくの、綺村理事長の気まぐれと遊び心だ。
まるで人気投票のようなその選挙で、夏生は、他の候補者を大きく引き離して生徒会長に選ばれた。そんな選び方では候補者には生徒や教師からの絶対的な信頼と人気が求められるが、彼にはそれだけの人望と、十分見合うだけの能力があった、ということなのだろう。
事実彼は、優秀だった。完全無欠という言葉がこれほどまでに当てはまる人間もそういないのではないかというほど、頭脳も、外見も、身体能力でさえ、非の打ち所がないのだ。
記憶にある限りでは、小学校三年生の頃から、学年首席を譲ったことはない。母譲りの女性的な顔立ちは作り物めいた美しさで、どんな表情でも絵画のようだと表現した人すらいた。
天は二物を与えない。そんな言葉を鼻で笑って裏切るような存在だ。
東雲財閥――その名前を聞いたことのない人間が今の日本にいたとしたら、物を知らないにもほどがあると馬鹿にされるだろう。ホテルやレストランや百貨店、建築や鉄道や旅行会社など、他にも挙げればきりがないほどの事業をかかえている。その現総帥が、夏生の母方の祖父なのだ。
そんな家柄を知ってか、単に見目麗しい容姿に憧れてか、物腰と人柄に惹かれてか。とにもかくにも東雲夏生は、この学校の生徒会長に選ばれていた。
実質上の、悠綺高校全生徒の頂点。いや、もしかしたら教職員だって、彼に楯突ける者はなかなかいないかもしれない。
“それ”を彼は全て理解していたし、利用もしていたし、自分がそれにふさわしいという自負も、持ち合わせていた。
そんな夏生は今、開会十五分前を知らせるアナウンスを聞きながら、その音が響き渡る中庭を眺めていた。生徒会長である彼は、その権限にみあった責任も背負っている。在校生代表挨拶や来賓への挨拶など、入学式で果たす役割は大きい。本来ならば、準備に追われて休む暇もないはずだ。
しかし彼は、生徒会室を抜け出してやって来た北校舎の屋上で、ぼんやりとフェンスに凭れかかっていた。簡単に言うと、サボっていたのだ。
手の中でかさりと音を立てるのは、もう少しすれば自分が壇上に上がって全校生徒の前で読み上げるはずの、原稿。新入生への、生徒会長からの挨拶文だ。彼にとって、それが生徒会長業の中で一番苦手な行事と言っても過言ではなかった。
「……めんどう」
「ぶはっ」
夏生が呟いた瞬間に隣であがったのは、笑い声だった。金茶の髪の男子生徒が、声を殺すように体を丸めて、くく、と揺らしている。
「なんなの」
「いやだって、なんか物憂げな顔で何言い出すのかと思ったら、『めんどう』って……」
ふふ、と奇妙な声を漏らす友人を一睨みして、夏生は憮然と溜め息を吐いた。
「いいよね、聖は。生徒会役員っていってもただのつっこみ役だもんね」
「ちげえよ!? 俺書記!」
聖、と呼ばれた彼――柏木聖(かしわぎひじり)は、眉尻を下げて口をぽっかりと開けて訴える。だが夏生は呆れたような表情を変えずに言った。
「違うでしょ。今日から会計」
「あ、そうだった。やっと俺の無駄な特技が活かされるんだった」
「クイズ番組で披露した暗算が凄かったから
会計長って、意味わかんないんだけど」
夏生と軽口を叩き合っている姿からは想像しにくいが、聖は、名門高校の生徒であることとは別に、芸能界での成功者という別の顔も持っていた。歌に踊りに芝居にトーク、加えて優秀な頭脳とやんごとなき家柄。そんな完全無欠の三人組アイドルグループ『KNIGHT』の一員として、今やテレビで顔を見ない日はないというくらいの人気っぷりなのだ。
金髪に日本人離れした白い肌、つり気味の大きな目がトレードマークの聖は、外見だけでいえば、アシメウルフの髪型でさえ、この左右対象の荘厳な校舎には似つかわしくない。だが彼の頭の良さは夏生も小さい頃からよく知っているし、父親が歴史ある柏木記念総合病院院長であることも、紛れもない事実だった。
「今日くらいジャケット着なよ。そろそろ紅先輩が来る頃じゃない?」
シャツの上にオーバーサイズのカーディガンを羽織っただけのいつもの服装を見て、夏生は言う。今日は淡い黄色だが、ピンクや水色やオレンジなど、カラフルなパステルカラーが日替わりになる。派手な髪色と派手な服装は、もはや彼のトレードマークのようになっていた。
夏生の言葉に反応して、聖はぎゅっと眉を寄せた。
「え、なに、生徒会室抜け出して来てんの? まじで?」
「うん」
「おまっ……なんだよ! なんか登校するなりいきなり屋上に連れて来られたと思ったら!」
「共犯ね」
「ね、じゃねええええ」
突然焦り始める聖に対して、夏生は全く動じる様子もなく手元の原稿をばらりと開く。練習するでもなく、文章を改めて推敲するでもなく、ただ視線を流しているだけだ。
聖は夏生のジャケットの裾を引きながら、落ちつかなげに言った。
「なあ、戻ろうよ、ほら」
「やだよ。実行委員のミスのフォローに駆り出されて今すごい忙しいんだから」
「余計戻ろうってえええ!」
その時だった。聖の情けない声に混じって、ペントハウスの方から、足音が聞こえてきたのは。
――バアアアアアン、と派手な音を立てて、扉は開かれた。
悠綺高校の建物は大きい。天井もいちいち高く、したがって、階段も長い。その豪奢で大きな階段を駆け上がって来た勢いを少しも殺さずに開け放たれた扉は、余韻のように行ったり来たりを繰り返して、やがて止まった。
乱暴というには度が過ぎるような登場の仕方をした彼女は、長いポニーテールを風に煽られるままにしながら、鬼のような形相で仁王立ちしていた。
「こ、ここここ紅先輩おはようございます」
「おはよう聖。どうしてお前は登校してから生徒会室に顔を出しもしないでこんなところにいるのかな」
「いや、あの……こ、こいつなんですよー! なっちゃんがいきなり『ちょっと来て』とか言って引っ張ってっちゃうからもー」
「ほう……よりによってこの忙しい日にサボタージュをかましたうえにそれを友人のせいにすると……そういうわけか」
「すいませんでしたっ!」
へらへらと弁解したかと思えば変わり身早くきっちり腰を折った聖に、紅(こう)と呼ばれた女子生徒は無言で握り拳を落とした。細腕からは想像もつかない重さだったらしく、蹲った聖が「ああ……バカになっちゃう……明日撮影なのに台詞飛んじゃう……」と呻いている。
「で?」
「は……はい?」
間近で詰め寄るような睨みを受けて、さすがの夏生も目を逸らした。美人は怒ると怖い、とはいうが、怒ってここまで怖い美人も、なかなかいないだろう。何も知らない者が見ても目を合わせずに姿勢を正すような迫力がある。
しかし夏生も聖も、紅とは幼等部からの長い付き合いだ。彼女――石蕗紅(つわぶきこう)の家が剣道家元であり、多種格闘道場の名門であり、彼女自身もそれらに精通した格闘家であるということを、よく知っているのだ。
「生徒会長が役員のフォロー放り出してこんなところで油打っているとはどういう了見かと聞いている」
「……あの場は紅先輩に任せて問題ないかなと」
「自分の出る幕でもないと、そういうわけか?」
「そんな。僕はほら、代表挨拶の原稿の再確認でも」
飄々と言う夏生だったが、紅は険しい視線を彼の手元に向けて、訝しげな声を出した。
「……原稿?」
紅につられて下を見た夏生は、自分の手が、何も持っていないことに気付いた。さっき開いて眺めていたはずの原稿が、いつの間にか消えていたのだ。「あれ」と声を出して、思わず紅まで一緒にきょろきょろと辺りを見回す。だがその行為は、背後からの声で遮られることとなった。
「なんか飛んでってるにょろよ?」
その声に振り向いて、宙を指差す細い指を追って、中庭上空に、風にひらひらと舞う白いものを見つけた。紅が扉を破壊的に開けた時か聖が一撃で沈められた時か定かではないが、そんな拍子に手から離れて、風で運ばれていってしまったのだ。聖は復活して「あ、恋宵ちゃんだ。おはよー」なんて呑気にでれでれしているが、原稿は遥か遠くへ、もう見えなくなりそうだった。
「あーあ」
「行ってしまったな……悪かった」
「いえ……俺こそすいません」
「どさくさに紛れて許すと思ってるのか?」
夏生と紅は、一瞬前までの温度差が縮まったように、揃ってその様子を眺めていた。くるりと向き直って、貼り付いていたフェンスに背中を預ける。
「探しに行く暇はないですね」
「印刷しなおすか?」
「いいですよ。あのくらい、暗記してますし」
「だろうな。手ぶらで壇上に上がって、竹河先生の肝を冷やしてやるのもいい」
「あの人はそんなんじゃ慌てないでしょう」
異色、と言ってもいいような顧問の顔を思い浮かべて、二人は眉をしかめた。そしてペントハウスの方、結局開いたままになっていた扉へと、顔を向ける。そこに立っている少女が、さっき原稿の行方をいち早く教えてくれたのだ。夏生と聖は、少女と同じく紅の後輩であり、三人とも同級生である。
「ええと」
だが、気の置けない友人でもある彼女、伊王恋宵(いのうこよい)の姿を見て、夏生は無表情で言葉を選んでいた。まだ後頭部をさすりながら、聖が言う。
「恋宵ちゃ……や、准乃介先輩、は、なにしてんすか……?」
「ちょっとねー、面白い怪我の仕方しちゃって」
「小さい孫に介助されるおじいちゃんみたいですね……」
「む、小さいは余計にょろよう」
恋宵は口を尖らせたが、その姿は、説得力もなにもあったものではなかった。180センチを大きく上回る長身の彼、沖谷准乃介(おきたにじゅんのすけ)に対して、恋宵の身長は150センチに届かない程度しかない。そんな大人と子供のような身長差で、恋宵が准乃介に肩を貸して歩いていたのだ。
「でも紅を怒らせたのは夏生と聖だから……元を正せば君たちのせいだよ?」
「准先輩が持つとね、落ちるところが高いから……威力が倍増するにょろよ」
「すいませんちょっとよくわかんない」
恐らくきちんと説明する気などないのだろう。二人も、准乃介の引き摺った右足と申し訳なさそうな紅の表情で、なんとなくのことは察している。
「にゃあああもう無理、ひじりんパス!」
恋宵の小さな体では、支えるのも覚束ないだろう。ヘルプがかかった聖が巨体を引き継ぐと、准乃介はわざとらしくのし掛かってきた。
「さて、ホールまで運んでもらおうかなー」
「えー無理っすよ!」
「准乃介、夕方から仕事だって言ってなかったか? 大丈夫なのか」
紅が眉尻を下げる。夏生と聖は詳しいことは知らないが、准乃介の負傷にはきっと紅が関わっているのだろう。もし直接的ならもっと誠心誠意謝り倒しているはずだから、あくまで間接的な関係であるには違いないが。
准乃介は、その体型と甘いマスクを活かして、ファッションモデルの仕事をしている。その仕事に影響が出たりしないかと、心配しているのだ。
悲しげな紅の顔を見た准乃介は、にっこりと笑った。
「大丈夫だよ、そんな心配しなくても」
「本当か?」
「うん、だって、五分経ったら治るから」
そう言って自分の足で立った准乃介を見上げて、聖は「なんだよ! ちゃんと立てるんじゃないスか!」と抗議の声を上げる。
「てゆうか五分経ったら治るってどんな仕組みなんすか!?」
「ほら、聖と違って俺、鍛えてるから」
「そーゆう問題!? じゃあ五分間だけ体重半分にしたりとかしてくださいよ!」
「無理に決まってるでしょ、なに言ってんのー」
「そんなの俺だってわかりませんよおおおお」
疲れの滲んだ声を上げた聖に、夏生が眉を潜めた。結局サボりの件はうやむやにして、紅となにやら話していたらしい。
「ちょっと聖遊んでないで聞いて。」
「遊んでない! むしろ准乃介先輩に遊ばれてる!」
「はいはいかわいそーに」
「あ、俺本当に可哀想」
「入学式が終わったあと、特待生との顔合わせがあるって。准乃介先輩、時間は大丈夫ですか?」
「うん、ちょっとならへーき」
ちょっと、と手振りをつけた准乃介は、指まですらりと長い。不思議な雰囲気と物腰の柔らかさと、父親の教えらしい徹底したフェミニズムも相まって、女性に絶大な人気を誇っているのだ。
おかげで最近はモデル業の他に、芝居やバラエティ出演にも引っ張りだこらしい。本来なら授業に出ることもままならないほど忙しいはずだが、大学卒業までは学業優先、という本人の希望らしく、仕事のために授業を休むことは月に一度あるかないか、という程度だった。
だがその分、学校が終わればハードスケジュールが待っている。それは聖も同じで、そして、にょろとかにゃあとかいちいち語尾の跳ねる恋宵も、実はそうなのだ。
「あ、恋宵ちゃん、閉会式のトリ歌うんだよね」
「うん、でも時間的には余裕にょろよ? 新入生はそのあと教室戻って説明とかあるでしょ?」
彼女が現役女子高生シンガーソングライター、という近頃では特に珍しくもなんともない売り文句でデビューしたのは、一年ほど前のことだ。それ以来Ino(イノ)は、小柄な体からは想像もつかない圧倒的な演奏力と歌唱力で、歌姫の名を欲しいままにしている。
ちなみに「俺も聴きに行くー」なんて呑気なことを言っている聖は彼女のデビュー前からのファンで、公式のファンクラブにまで入っているほどの熱の入りようだ。会員番号は恋宵の両親が一番と二番、そして三番が聖である。
そんな彼女は今日の入学式の閉会式で、軽音楽部の演奏をバックに一曲歌うことになっていた。新入生を歓迎する意味で、歌や音楽が披露されるのだ。こういったステージは一年を通して何度も設けられており、歌や演劇やダンス、歌舞伎や落語なんてものまで発表される。
「じゃあ閉会が三時だから……三時半には生徒会室にいられるな?」
「そうですね」
「特待生って定員二人だっけろ? 競争率高かっただろうねえー」
「じゃあすげー頭いいのが来るってことっすかね? えー超カタイの来たらどうしよー」
「面接もあるんだから、社交性は問題ないんじゃない」
どうしよう、なんて言いながら顔は笑っている聖に、夏生が言う。事務的な連絡が終われば、話題が向くのは自然、生徒会に新しく入ってくるという、特待生のことだった。
悠綺高校の生徒会執行部。
校内どころか世間の人気者、日本を代表するセレブ、天が間違えて二物どころか四物も五物も与えてしまったような面々ばかりが集まった集団だ。彼らに憧れを持つ生徒であれば、少しでもこの輪に近付きたいと思うのは当然のこと。そうすると、生徒会に入ることが一番手っ取り早い方法となる。
憧れの芸能人に近付くために無理をして受験する中学生もいるような学校だ。生徒会選挙に立候補者が殺到しすぎて収集がつかなくなってしまう結果が目に浮かぶようだったため、生徒会役員の選出は特殊なものでなければいけなかった。
そこで理事長が考え出されたのが、特待制度だ。一般入試とは別の特待入試を設け、そこで選ばれた生徒は生徒会に入ることを条件として、様々な特別待遇を受ける。それと他薦方式の選挙を組み合わせて、栄誉ある生徒会役員の座を決めることになったのだ。
当然、そのシステムが原因でトラブルを産むようなことになっては意味がないため、特待生の選出は念入りに行われたはずだ。一般入試より数段難しい試験と幾度にも渡る面談、恐らくは素行調査までもを潜り抜け、悠綺高校の生徒として恥ずかしくない教養や生活態度、立ち居振舞いを兼ね備えた、たった二人の生徒が選ばれたのだった。ただ勉強ができて社交的なだけでは、悠綺高校の生徒会役員は務まらない。
「噂では大友化粧品の一人娘とか、俳優の佐野真琴とか、って聞いたけど」
「え? 准乃介先輩のその情報網はなに……?」
「その二人が特待生にょろ?」
「わかんないよ、噂だから」
佐野真琴(さのまこと)といえば、若手随一の実力派、といわれている俳優だ。三年ほど前に主役に大抜擢されたドラマで新人賞を総舐めにし、一種の社会現象まで巻き起こした。実家は大手医療品メーカーだし、頭脳明晰なイメージも定着しつつある。家柄や能力を鑑みても、有り得ない話ではないだろう。大友化粧品の令嬢だって、少し変わっているが才色兼備だと評判だ。彼女は中学からの持ち上がりのはずだが、特待入試を受ける資格だけは、誰にでも平等に与えられている。
そんな話で盛り上がっていた彼らは、気付いていなかった。いつの間にか、北校舎に残っている生徒が自分たち五人だけになっている、ということに。
ぶつり、マイクのスイッチが入った瞬間の、独特のノイズが聞こえた。ペントハウスの上の大きなスピーカーを振り返る。
『これから入学式が始まります。在校生はホールに集合してください。繰り返します。在校生はホールに集合してください』
在校生は、とは言っているが、これは明らかに、入学式の司会進行を努める生徒会役員を呼び出すアナウンスだ。きっと今頃、ホールでは夏生たちの姿が見えないことに大慌てだろう。このうえ在校生代表として壇上に上がる夏生が手に原稿を持っていないのを見たら、本当に卒倒する職員が現れるかもしれない。
ぴんぽんぱんぽん、と流れるような高音の余韻がスピーカーから消えると、彼らは顔を見合わせた。
「……やべ」
小さく誰かが呟く。それを合図にしたように、五人は、走り出したのだった。