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飛ぶ者と飛ばない者

作者: 楠瑞稀

 駅前ののっぽの時計を見上げたらバックにどんよりと曇った空が見えた。

 時計の針は容赦なく回って約束の時間より二十分。

  いや、

 たったいま長針が動いたから二十一分オーバーだ。

 苛立ちとか呆れだとか。

 そんな気持ちには全然縁がなくって。

 ただ雨が降りそうだなぁとか、最近寒くなってきたよなぁとか、

 どうでもいいことを考えながらそわそわと立っていたら、背後で靴底がコンクリートを叩く音がして背中をドンと突き飛ばされた。

「ははっ。やっほ、晶ちゃん。遅れちゃったよ」

 悪びれない笑い声がして別に振り向かなくても誰だが分かってたけれど振り向いた先にいたのはやはりくだんの待ち人だった。

 天使のように空から舞い降りて来た、待ち人だった。



「いやぁ、なんか時間に間に合うように飛んでたんだけどさぁ。ほら、空の上って寒いじゃない? 途中でお茶飲んで休憩してたらすっかり遅くちゃったよ」

「ふうん」

 言い訳ですらない言葉に短く答えると、けらけらと笑って首をかしげていた相手は途端に不安そうな顔をして身を乗り出す。

「晶ちゃん、もしかすると気を悪くした?」

「いや」

 念入りにブローされた髪からいい匂いが漂ってきた。

 別に遅刻はいつものことだし。

 今更怒ったりはしない。

 学校を出て社会人になり。以前ほど頻繁に会うことができなくなった。

  だからこそだ。

 たまに会える機会をことのほか待ち望むようになった。

 ためらいがちにそっと髪に手を伸ばしてみる。

「今日は何だかオシャレだね」

「ふふ、そう?」

「寒かったんだろう。どっか暖かいところにでも入るか」

 そう言うと「よっしゃ、いい事言うね」と、彼女は途端に気をよくして宙に身を浮かす。そして思い出したように地面に降り立った。

「そうだった。そういえば晶ちゃんは飛べないんだったね」

 そうして困ったように肩をすくめた。



 いつの頃からかは知らないけれど、ヒトは空を飛ぶ。

 どうして飛ぶのかは、重力がどうとか慣性がどうだとかネフェップ=モアの法則がうんたらだとか色々あるらしいけれど、それらは全部お偉い学者の先生が知っていればいいことだ。

 ともかくヒトが飛ぶことは紛れもない事実だし、

 同時に飛ばない者がいるのもあえて言うまでもないぐらい当たり前の事実だ。 



「でもさ、やっぱり不便でしょ。空飛べないと」

「さぁ」

「さあってそんな他人事みたいに」

「別に“ちがや”が思っているほど不便なわけじゃないよ」

 いつもの喫茶店でいつもの珈琲を頼む。

 向かい合わせの席に座ったちがやはホットココアとチーズケーキ。

 昔は飛ぶ者と飛ばない者の比率はちょうど半々だったが、今は飛ばない方が五十分の一に少し足りないぐらいらしい。

 それを多いと思うか少ないと思うかは人それぞれだ。

「それに新しい法律が制定されてからは逆に得した気分だしなぁ」

「あ、そうそう。それ、かなりうらやましいのよね」

 ちがやは本当にくやしそうに眉間に皺を寄せる。

 先日可決されたばかりの法案は飛べる人間と飛ばない人間との差を埋めるためのもので、具体的に言うと飛ばない人間は交通機関を無料で使えるようになった。

 もっとも今の段階ではそれもバスと一部の私鉄だけだし、飛行機や船舶にいたっては対象外だ。

「なんか堕ち人ばっかし得をしてさ……あっ、ごめん」

「いいや」

 ぱっと口元を押さえるが、それが本音だとしても別に今さら気にすることじゃない。

 堕ち人、というのは飛ばない人間に対しての一種の差別用語だ。

 実際この法律が決まるまで様々な問題があった。

 特に飛べる人間――浮空者からの反対がとても多かった。

「でもさ、別にうちらだっていつも気持ちよく空飛んでる訳じゃないんだよ。寒い日なんかは耳が千切れるかと思うし雨が降ったらびしょ濡れになるし」

 そして今日の天気が心配なのか、眉をひそめて窓を見上げる。

 飛ばない人間には理解できない感覚だが、走るよりは楽にしても飛ぶということはそれなりに疲れるらしく、あまり長距離を移動するには向いていない。

「まぁ、非浮空者はかわいそうだから仕方ないんだけどね」

 それでもちがやは浮空者なら誰でも言う台詞で。

 どこか哀れむような眼差しでこちらを見て笑った。


 ――別にかわいそうじゃないよ。


 そう思ったけれども口にはしない。

 飛ばない人間に空を飛ぶ気持ちが理解できないように、飛べる人間には空を飛ばない気持ちは理解できない。

 それは仕方なく、言っても意味のないことだ。

「空を飛べて幸せかい、ちがや」

「うん?」

 かわりにそうたずねると不思議そうな顔をされた。

「別に幸せだとか不幸せだとかそんなんじゃないよ。だって当たり前のことだし」

「そうか」

「でも今の季節は辛いけど、春とか夏とかはすっごい気持ちがいいんだよ。風がひゅんっと過ぎていってね。ああ、晶ちゃんと一緒に空中散歩とかしたかったなぁ」

 食べるのを止めて手を掴まれる。

 微かに胸がどきりと鳴った。

「ねぇ、どうして飛べる人間と飛べない人間がいるんだろう」

 すねるように頬を膨らませる。

 なぜ飛べる者と飛ばない者がいるのか。

 一説にはホルモンバランスの影響だとか幼い頃の育て方がどうだとか言われているが、今のところそれは分かってない。

「……でもそれは男と女の違い程度のことでしかない」

「そうかしら」

「私はそう思っている」

「ふふ、晶ちゃんは変わってるなぁ」

 驚いたように目を見張ってくすくす笑う。

 それがなんだか眩しくて目を細めた。

「あっ、大変。そろそろいかなくちゃ」

 ふいに時計に目をやると、ちがやは慌ててカップの中身を飲み干す。

「もう行くんだ」

「うん、ごめんね。このあと待ち合わせがあって」

 そして戸惑うようにしばらく考えて、おもむろに声をおとしささやいた。

「あのね、晶ちゃんだけ先に教えてあげるね。実はあたし結婚するの」

 がちゃん、と珈琲のカップが音を立てた。

「――えっ?」

「会社に入ってから付き合いだした人にプロポーズされたの。式の日取りは決まってないんだけど、これから一緒に式場を見に行くんだ」

 左手の指輪を見せて嬉しそうに笑った。

「結婚式には晶ちゃんも呼ぶから絶対来てね。――晶ちゃん?」

「あ、……うん。考えとく」

 掠れた声でそう答え、さりげなく伝票を取り上げた。

 からかうように片目を眇める。

「じゃあここは私が払っとくから。婚約祝い」

「え、いいの?」

「いいからっ。早くしないとまた遅刻するよ」

「あ、そうだった。ありがとう」

 だが急き立てる言葉とは裏腹に、

 慌てて立ち去ろうとする彼女の腕を反射的に掴みとる。

「なに、晶ちゃん?」

「――ちがや……」

 不思議そうな顔をする彼女の唇にそっと指先を伸ばす。

 しっとりとした柔らかい感触。

 心が震えた。

「……ココア、ついてた」

 そして一歩離れて笑って見せた。

「結婚、おめでとう」




「あの、お客様……?」

 お代わりを注ぎに来たウェイターを片手で追い払う。

 今は誰の顔も見たくない。

 何が男と女の違い程度だ。それほど大きな違いも無い。

 曇り空を背景にちがやが軽やかに飛んで行くのが窓から見えた。

 改めて口をつけた珈琲はすっかり冷めていて美味しくもなんともない。

 長い長い付き合いだ。

 鈍感な女だと言うことは知っていた。

 いつかはこうなることもちゃんと分かっていた。

 彼女は笑ってこう告げた。

『花嫁のブーケは晶ちゃんに投げるね。そしたら晶ちゃんが次の花嫁だね』

 幸せそうに、そう笑った。

『――大切な、あたしの親友だもの』



 空を飛ぶ者と飛ばない者の違いはなんだろう。

 だけどもし自分が空を飛べたとしても、彼女を追いかけることはない。

 だからこれでいい。 



 一滴の涙が珈琲に混ざる。

 彼女が雨に濡れないよう、灰色の空の代わりに落とした涙だった。


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