『クラスで空気扱いの私、「猫になりたい」と願ったら本当に野良猫と身体が入れ替わってしまった話。』
みづきが初めてその灰色の野良猫に食事を分け与えたのは、四月の終わりのことだった。
給食で余ったパンをランドセルの奥に忍ばせ、薄暗い路地裏のゴミ箱の脇にそっとしゃがみ込む。警戒心の強い猫は、最初、遠くの物陰からじっとこちらの様子をうかがっていた。みづきは決して急がなかった。ただ、パンを地面に置き、静かに待った。
やがて猫は、音も立てずにゆっくりと近づき、それを口にした。
その日から、みづきは学校の帰り道を少しだけ遠回りするようになった。毎日ではないけれど、週に何度も、あの路地裏へ足を運んだ。
それは、誰にも明かしていない、彼女だけの秘密の遠回りだった。
教室には、いつも三人で固まっているグループがあった。彼女たちはみづきのことを、名前ではなくただ「メガネ」と呼んだ。直接的な嫌がらせをされるわけではない。けれど、グループ活動のたびに決まって弾き出され、給食の時間に勇気を出して話しかけても、まるで空気のようにあしらわれた。担任の先生は、その冷ややかな空気に気づいていないのか、それとも気づかないふりを決め込んでいるのか、どちらかだった。
家に帰っても、孤独は続いた。お母さんは仕事でいつも帰りが遅く、お父さんも同じように夜まで働いている。まだ保育園に通う妹を迎えに行くのもお母さんの役目だ。薄暗い玄関を開けてみづきが「ただいま」と告げる相手は、誰もいない、しんとした部屋だけだった。
だからこそ、あの灰色の猫が待つ路地裏だけが、今のみづきにとって唯一、息の吸える場所だった。
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六月のある夕方、雨上がりの路地裏で、みづきは猫の隣にしゃがみ込んでぼんやりと空を眺めていた。水溜まりが、どんよりとした曇り空を映している。
「ねえ、レノン」
いつからかそう呼ぶようになった猫は、声に反応して耳の先だけをこちらに向けた。
「私も、猫になりたいな」
口にしてみると、それは自分でも驚くほど本気の響きを帯びていた。学校なんて行かなくていい。成績も、窮屈なグループも、空気のように扱われるあの教室も、全部関係のない世界。誰かからご飯をもらって、好きな場所で丸くなって眠る。それだけで許される世界。
「そっちの方が、ずっとよかったな」
レノンは何も答えず、ただ静かに寄り添うようにそこにいた。
みづきは小さく息を吐き、鞄を肩にかけ直して路地裏を後にした。しかし、賑やかな大通りに差し掛かったそのとき、横から猛スピードで走ってきた自転車を避けようとして、思わず車道へと足を踏み出してしまった。
激しいクラクションの音が鼓膜を突き刺し、そこでみづきの意識はぷつりと途切れた。
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目を覚ますと、視界の景色がやたらと低かった。地面がすぐ目の前にある。
自分の体が、妙に小さい。不審に思って手元を見ようとしたが、そこにあったのは人間の手ではなかった。柔らかな灰色の毛に覆われた前脚。その先には、鋭い爪が隠れていた。
みづきは何度も、何度もその脚を見つめ直した。
私は、猫になっている。
最初はその事実に高揚し、おもしろくなって路地裏をくるくると走り回った。体が驚くほど軽い。鼻をくすぐる匂いは鮮明で、遠くの微かな音までが耳に飛び込んでくる。レノンはいつもこんな世界を見ていたんだ――そう思うと嬉しくなり、夢中で壁の隙間を駆け抜けた。
けれど、夜が訪れると世界は一変した。
冷たい風が吹きすさび、とにかく寒かった。這い込んだ段ボールの隙間からは、昼間の雨水が容赦なく染みてくる。待っていても、ご飯はどこからも出てこない。人間の重い足音が近づくたびに、恐怖で体がすくみ上がった。他の野良猫に縄張りを荒らすなと激しく追いかけられ、必死で高い塀にしがみついたときには、爪が根元から割れて激痛が走った。
三日目には、なりふり構わずゴミ袋を漁った。生ゴミの不快な臭いに顔を顰める羞恥心よりも、お腹をすかせた内臓の悲鳴の方が、ずっと大きかった。
人間のときは、どんなにお母さんの帰りが遅くても、テーブルの上にはちゃんとご飯が用意されていた。妹が騒がしくてうるさいと不満に思っていた家には、自分を温かく包んでくれる布団があった。
すべてを失って、猫になって初めて、自分がどれほど守られていたかを思い知った。
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一週間が過ぎた頃、街角の電柱に一枚のチラシが貼られているのが目に留まった。
四つん這いのままにじり寄って見上げると、そこには見慣れた自分の顔写真があった。
『迷子のお知らせ 橘みづき 9歳 行方不明になっています 見かけた方はご連絡をお願いします』
その下には、お母さんの携帯番号が震えるような文字で書き添えられていた。
みづきはその場に張り付いたように、一歩も動けなくなった。
チラシはまだ新しく、雨にも濡れていない。ついさっき、貼られたばかりのようだった。
そのとき、路地の向こうからかすれた声が響いた。
「みづき……っ、みづき……!」
お母さんの声だった。喉をからし、疲れ果て、それでも必死に名前を呼ぶ声。その後ろにはお父さんの姿もあった。手には大量のチラシの束を抱え、一枚一枚、電柱に押し付けるようにして貼り歩いている。
みづきは物陰に身を潜め、二人の姿をじっと見つめた。
お母さんの目は真っ赤に腫れ上がり、涙がとめどなく溢れていた。お父さんの靴は泥だらけで、何日も寝ずに街中を歩き回ってきたことを物語っていた。
胸の奥が、引きちぎられるように痛かった。
猫になっても、人間であっても、痛いものは痛いんだ――みづきは涙で視界を滲ませながら思った。
帰りたかった。猫の暮らしが辛いからじゃない。あの二人の元へ、あの温かい場所へ帰りたかった。ただ、それだけだった。声を大にして叫ぼうとしたけれど、口から漏れるのは、か細い猫の鳴き声だけだった。
それでも、彼女は心の底から、引き裂かれそうなほど強く願った。
おうちに、帰りたい、と。
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ハッと気づくと、みづきは大通りの歩道の上にぽつんと立っていた。
耳元を自転車のクラクションが激しく通り過ぎていく。アスファルトに打ち付けた膝がズキズキと痛み、手のひらには擦り傷ができていた。けれど、それは間違いなく、自分の手だった。五本の指がある、人間の手だった。
みづきはしばらくの間、歩道に座り込んだまま呆然と自分の手を見つめていた。
ハッとして立ち上がり、あの路地裏へとがむしゃらに走った。
レノンがいた。いつものゴミ箱の脇に、ひっそりと横たわっていた。
まるで気持ちよさそうに眠っているかのようだった。けれど、何かが決定的に違っていた。
みづきはレノンの傍らに崩れ落ち、その灰色の毛並みにそっと触れた。
……温かくなかった。
涙が溢れて止まらなかった。声を上げて、子供のように泣きじゃくった。この薄暗い路地裏に、今は誰もいなくて本当によかったと思いながら、ただひたすらに泣き続けた。
あの瞬間、レノンが自分の身代わりになって車に撥ねられたのか、それとも不思議な何かが起きたのか、子供のみづきには分からない。けれど、自分が「猫になりたい」と願ったあの瞬間に、二人の運命が交錯したことだけは、痛いほどによく分かった。
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その日の夜、お母さんはいつもよりずっと早く家に帰ってきた。
みづきが泣き腫らした顔で玄関に佇んでいるのを見るや否や、お母さんは手にした鞄を床に放り出し、なりふり構わず駆け寄ってきた。そして、折れそうなほど強く、みづきを抱きしめた。
お母さんの腕の中で、みづきは学校で起きていること、自分が感じていた孤独のすべてを、堰を切ったように打ち明けた。
お母さんは何も遮らず、ただ涙を流しながら、みづきの言葉をずっと静かに受け止めてくれた。
レノンに起きた奇跡のことは、どうしても言えなかった。けれどみづきは、胸の中で何度も「ありがとう」と呟いた。
翌日の放課後、みづきは路地裏の隅に、そっと小さな石を置いた。
そしてその前に、歪な形をした鮭のおにぎりを一つ、丁寧に供えた。
耳を澄ませても、もうあの懐かしい足音が聞こえることはない。けれど、そよぐ風の中に、確かに灰色の気配を感じて、みづきは小さく微笑んだ。
「またね」
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