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菜の花の誕生日

作者: 雨音トキ
掲載日:2026/02/21

四月十五日。私の三十三回目の誕生日。


窓を開けると、春の風が部屋に流れ込んできた。少し冷たい。でも、土の匂いがする。生命の匂い。


私、北村咲良は、このワンルームマンションに引っ越して三ヶ月。前の会社を辞めて、今は校正のフリーランス。収入は半分以下になった。


でも、満員電車に乗らなくていい。上司の顔色を伺わなくていい。


ベランダに出る。プランターに植えた菜の花が、小さな黄色い花をつけていた。


「咲いたんだ」


声に出して言う。誰も聞いていないけど。


花びらに触れる。柔らかい。風が吹くと、花が揺れる。


菜の花の匂い。春の匂い。


コーヒーを淹れる。豆を挽く音。湯を注ぐ時の香り。カップに口をつける。苦味と、ほのかな酸味。


ベランダの椅子に座って、本を開く。


古本屋で百円で買った、誰も知らない作家の小説。


読書が、今の私の唯一の贅沢だ。


スマホが鳴る。母からのメッセージ。


「誕生日おめでとう。今年は家に帰ってこないの?」


返信を打つ。


「ありがとう。仕事があるから、また今度」


嘘だった。仕事なんてない。今日は一日、何もない。


ただ、家に帰りたくなかった。


「ちゃんと食べてる?」「仕事、大丈夫?」


母の心配そうな顔が見えるから。


一人でいい。誰にも会いたくない。


風が、また吹く。菜の花が揺れる。ページがめくれる。


この静けさが、心地いい。


午後二時。インターホンが鳴った。


モニターを見ると、見覚えのある顔。


大学時代の親友、真理子だった。


「咲良! 開けて!」


慌てて、部屋を見回す。散らかっている。洗濯物が山積み。食器が流しに溜まっている。


でも、無視できない。


ドアを開けた。


「真理子。どうして」


「誕生日でしょ。お祝いしようと思って」


真理子が、ケーキの箱を持って入ってくる。


部屋を見回して、眉をひそめた。


「咲良……これ」


「ちょっと忙しくて、片付けられなくて」


「嘘でしょ。SNSでは『充実したフリーランス生活』って投稿してたじゃん」


心臓がドキリとした。


「あれは……」


「本当は、仕事ないんでしょ」


言葉が出なかった。


真理子が、ため息をついた。


「お母さんから連絡があったの。咲良が心配だって」


「お母さんが?」


「うん。『最近、連絡が少ない。何か隠してる気がする』って」


真理子が、コーヒーカップを持ち上げた。


「このカップ、いつから洗ってないの?」


「昨日……いや、一昨日」


「咲良。正直に言って。本当は、辛いんでしょ」


涙が出そうになった。


「辛いよ。仕事はほとんどない。貯金も底をつきそう。でも、誰にも言えなかった」


真理子が、隣に座った。


「なんで?」


「だって、みんな頑張ってるから。真理子も、結婚して、子供もいて。私だけ、何もない」


「何もないって」


「三十三歳で、独身で、無職同然で。誕生日なのに、誰も祝ってくれない」


真理子が、優しく言った。


「私、今、ここにいるじゃん」


真理子は、ケーキを冷蔵庫に入れて、言った。


「ベランダ、いい? ちょっと話したい」


ベランダに出る。風が強くなっていた。


「天気、崩れそうだね」


真理子が空を見上げる。


「うん。さっきまで晴れてたのに」


たわいない天気の話。でも、なぜか心が落ち着く。


真理子が、菜の花を見た。


「これ、咲良が育ててるの?」


「うん」


「綺麗だね」


「ありがとう」


真理子が、静かに言った。


「咲良。お母さんに、本当のこと話した方がいいよ」


「でも」


「『しっかりした娘』を演じるの、もうやめなよ。お母さん、心配してるんだから」


その言葉が、胸に刺さった。


私は、ずっと演じてきた。


「ちゃんとした大人」を。「自立した女性」を。


でも、本当は、全然ちゃんとしていない。


「私、ダメな娘なんだ」


「ダメじゃないよ。ただ、完璧じゃないだけ」


真理子が、スマホを取り出した。


「今から、お母さんに電話して」


「え?」


「大丈夫。一緒にいるから」


震える手で、母の番号を押す。


「もしもし、咲良?」


「お母さん。ごめん。嘘ついてた」


「え?」


「仕事、全然うまくいってない。お金もない。一人で、辛くて」


母が、静かに言った。


「そっか。辛かったね」


「ごめんなさい」


「謝らなくていいよ。帰っておいで」


「でも」


「いいから。お母さんの作ったご飯、食べたいでしょ」


涙が溢れた。


「うん。食べたい」


真理子が帰った後、部屋を片付けた。


洗濯物を洗う。食器を洗う。床を掃除する。


窓を開けたまま。風が入ってくる。


菜の花が、大きく揺れている。


一輪、花びらが散った。


プライドを手放す。


「ちゃんとした大人」という仮面を脱ぐ。


それが、私が支払う代償。


でも、不思議と、心が軽くなった。


夕方、ベランダでコーヒーを飲む。


空は、灰色になっていた。雨が降りそうだ。


でも、菜の花は、まだ咲いている。


風に揺れながら、でも、折れずに。


スマホで、実家までの電車を調べる。


明日、帰ろう。


母に会いに。


本当の私を、見せに。


翌朝。実家に着いた。


「おかえり」


母が、玄関で待っていてくれた。


「ただいま」


母の手料理。味噌汁の匂い。ご飯の湯気。焼き魚の香ばしさ。


口に入れる。温かい。美味しい。涙が出る。


「美味しいね」


「そう? よかった」


母が、笑顔になる。


食後、縁側に座る。庭に、菜の花が咲いていた。


「お母さんも、菜の花育ててるんだ」


「うん。春になると、咲くのよ」


風が吹く。菜の花が揺れる。


「咲良。無理しなくていいのよ」


「え?」


「お母さんはね、咲良が幸せならそれでいいの。仕事があろうとなかろうと」


母が、私の手を握った。


「一人で頑張らなくていい。辛い時は、帰っておいで」


その言葉で、やっと分かった。


私が求めていたのは、成功じゃなかった。


誰かに認められることでもなかった。


ただ、ここに帰れる場所があること。


温かいご飯があること。


「おかえり」と言ってくれる人がいること。


それだけで、十分だった。


夕方、母と一緒にコーヒーを淹れた。


豆を挽く音。湯を注ぐ香り。


二つのカップに注ぐ。


「今日は、いい天気ね」


母が、空を見上げる。


「うん。昨日は曇ってたのに」


たわいない天気の話。


でも、この時間が、何より尊い。


ベランダに出る。


プランターの菜の花。持ってきた。


「これ、咲良が育てたの?」


「うん」


「上手に咲いてるわね」


母が、花に触れる。


「咲良。誕生日、おめでとう」


「ありがとう」


「プレゼント、あるのよ」


母が、包みを渡してくれた。


開けると、本だった。


「読書、好きでしょ。お母さんが若い頃、好きだった本」


ページをめくる。古い紙の匂い。


「大切にするね」


風が吹く。


菜の花が揺れる。


母の横顔。


コーヒーの香り。


この瞬間が、何よりも美しいと思った。


三十三歳。


何も持っていない。


でも、失って初めて分かった。


本当に大切なものは、ずっとここにあった。


帰る場所。


待っていてくれる人。


温かいご飯。


たわいない会話。


それが、私の宝物だった。


菜の花の花びらが、一枚、風に舞った。


それを、母と二人で見送る。


「また、咲くわよ」


母が言った。


「うん。また、咲く」


私も、また咲ける。


何度でも。


ここに帰る場所がある限り。


誕生日の夜。


母の作った夕食を食べる。


幸せだった。


本当の意味で、今日、私は生まれ変わった。


「ちゃんとした大人」ではなく。


「ただの私」として。


それが、一番の誕生日プレゼントだった。



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