菜の花の誕生日
四月十五日。私の三十三回目の誕生日。
窓を開けると、春の風が部屋に流れ込んできた。少し冷たい。でも、土の匂いがする。生命の匂い。
私、北村咲良は、このワンルームマンションに引っ越して三ヶ月。前の会社を辞めて、今は校正のフリーランス。収入は半分以下になった。
でも、満員電車に乗らなくていい。上司の顔色を伺わなくていい。
ベランダに出る。プランターに植えた菜の花が、小さな黄色い花をつけていた。
「咲いたんだ」
声に出して言う。誰も聞いていないけど。
花びらに触れる。柔らかい。風が吹くと、花が揺れる。
菜の花の匂い。春の匂い。
コーヒーを淹れる。豆を挽く音。湯を注ぐ時の香り。カップに口をつける。苦味と、ほのかな酸味。
ベランダの椅子に座って、本を開く。
古本屋で百円で買った、誰も知らない作家の小説。
読書が、今の私の唯一の贅沢だ。
スマホが鳴る。母からのメッセージ。
「誕生日おめでとう。今年は家に帰ってこないの?」
返信を打つ。
「ありがとう。仕事があるから、また今度」
嘘だった。仕事なんてない。今日は一日、何もない。
ただ、家に帰りたくなかった。
「ちゃんと食べてる?」「仕事、大丈夫?」
母の心配そうな顔が見えるから。
一人でいい。誰にも会いたくない。
風が、また吹く。菜の花が揺れる。ページがめくれる。
この静けさが、心地いい。
午後二時。インターホンが鳴った。
モニターを見ると、見覚えのある顔。
大学時代の親友、真理子だった。
「咲良! 開けて!」
慌てて、部屋を見回す。散らかっている。洗濯物が山積み。食器が流しに溜まっている。
でも、無視できない。
ドアを開けた。
「真理子。どうして」
「誕生日でしょ。お祝いしようと思って」
真理子が、ケーキの箱を持って入ってくる。
部屋を見回して、眉をひそめた。
「咲良……これ」
「ちょっと忙しくて、片付けられなくて」
「嘘でしょ。SNSでは『充実したフリーランス生活』って投稿してたじゃん」
心臓がドキリとした。
「あれは……」
「本当は、仕事ないんでしょ」
言葉が出なかった。
真理子が、ため息をついた。
「お母さんから連絡があったの。咲良が心配だって」
「お母さんが?」
「うん。『最近、連絡が少ない。何か隠してる気がする』って」
真理子が、コーヒーカップを持ち上げた。
「このカップ、いつから洗ってないの?」
「昨日……いや、一昨日」
「咲良。正直に言って。本当は、辛いんでしょ」
涙が出そうになった。
「辛いよ。仕事はほとんどない。貯金も底をつきそう。でも、誰にも言えなかった」
真理子が、隣に座った。
「なんで?」
「だって、みんな頑張ってるから。真理子も、結婚して、子供もいて。私だけ、何もない」
「何もないって」
「三十三歳で、独身で、無職同然で。誕生日なのに、誰も祝ってくれない」
真理子が、優しく言った。
「私、今、ここにいるじゃん」
真理子は、ケーキを冷蔵庫に入れて、言った。
「ベランダ、いい? ちょっと話したい」
ベランダに出る。風が強くなっていた。
「天気、崩れそうだね」
真理子が空を見上げる。
「うん。さっきまで晴れてたのに」
たわいない天気の話。でも、なぜか心が落ち着く。
真理子が、菜の花を見た。
「これ、咲良が育ててるの?」
「うん」
「綺麗だね」
「ありがとう」
真理子が、静かに言った。
「咲良。お母さんに、本当のこと話した方がいいよ」
「でも」
「『しっかりした娘』を演じるの、もうやめなよ。お母さん、心配してるんだから」
その言葉が、胸に刺さった。
私は、ずっと演じてきた。
「ちゃんとした大人」を。「自立した女性」を。
でも、本当は、全然ちゃんとしていない。
「私、ダメな娘なんだ」
「ダメじゃないよ。ただ、完璧じゃないだけ」
真理子が、スマホを取り出した。
「今から、お母さんに電話して」
「え?」
「大丈夫。一緒にいるから」
震える手で、母の番号を押す。
「もしもし、咲良?」
「お母さん。ごめん。嘘ついてた」
「え?」
「仕事、全然うまくいってない。お金もない。一人で、辛くて」
母が、静かに言った。
「そっか。辛かったね」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。帰っておいで」
「でも」
「いいから。お母さんの作ったご飯、食べたいでしょ」
涙が溢れた。
「うん。食べたい」
真理子が帰った後、部屋を片付けた。
洗濯物を洗う。食器を洗う。床を掃除する。
窓を開けたまま。風が入ってくる。
菜の花が、大きく揺れている。
一輪、花びらが散った。
プライドを手放す。
「ちゃんとした大人」という仮面を脱ぐ。
それが、私が支払う代償。
でも、不思議と、心が軽くなった。
夕方、ベランダでコーヒーを飲む。
空は、灰色になっていた。雨が降りそうだ。
でも、菜の花は、まだ咲いている。
風に揺れながら、でも、折れずに。
スマホで、実家までの電車を調べる。
明日、帰ろう。
母に会いに。
本当の私を、見せに。
翌朝。実家に着いた。
「おかえり」
母が、玄関で待っていてくれた。
「ただいま」
母の手料理。味噌汁の匂い。ご飯の湯気。焼き魚の香ばしさ。
口に入れる。温かい。美味しい。涙が出る。
「美味しいね」
「そう? よかった」
母が、笑顔になる。
食後、縁側に座る。庭に、菜の花が咲いていた。
「お母さんも、菜の花育ててるんだ」
「うん。春になると、咲くのよ」
風が吹く。菜の花が揺れる。
「咲良。無理しなくていいのよ」
「え?」
「お母さんはね、咲良が幸せならそれでいいの。仕事があろうとなかろうと」
母が、私の手を握った。
「一人で頑張らなくていい。辛い時は、帰っておいで」
その言葉で、やっと分かった。
私が求めていたのは、成功じゃなかった。
誰かに認められることでもなかった。
ただ、ここに帰れる場所があること。
温かいご飯があること。
「おかえり」と言ってくれる人がいること。
それだけで、十分だった。
夕方、母と一緒にコーヒーを淹れた。
豆を挽く音。湯を注ぐ香り。
二つのカップに注ぐ。
「今日は、いい天気ね」
母が、空を見上げる。
「うん。昨日は曇ってたのに」
たわいない天気の話。
でも、この時間が、何より尊い。
ベランダに出る。
プランターの菜の花。持ってきた。
「これ、咲良が育てたの?」
「うん」
「上手に咲いてるわね」
母が、花に触れる。
「咲良。誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
「プレゼント、あるのよ」
母が、包みを渡してくれた。
開けると、本だった。
「読書、好きでしょ。お母さんが若い頃、好きだった本」
ページをめくる。古い紙の匂い。
「大切にするね」
風が吹く。
菜の花が揺れる。
母の横顔。
コーヒーの香り。
この瞬間が、何よりも美しいと思った。
三十三歳。
何も持っていない。
でも、失って初めて分かった。
本当に大切なものは、ずっとここにあった。
帰る場所。
待っていてくれる人。
温かいご飯。
たわいない会話。
それが、私の宝物だった。
菜の花の花びらが、一枚、風に舞った。
それを、母と二人で見送る。
「また、咲くわよ」
母が言った。
「うん。また、咲く」
私も、また咲ける。
何度でも。
ここに帰る場所がある限り。
誕生日の夜。
母の作った夕食を食べる。
幸せだった。
本当の意味で、今日、私は生まれ変わった。
「ちゃんとした大人」ではなく。
「ただの私」として。
それが、一番の誕生日プレゼントだった。




