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指輪に気づいてくれなかったね。

作者: 文星 結

指輪に気づいてくれなかったね。

 あの日、「少し距離を置こう」と口にしたのは私の方だった。喧嘩の勢いで飛び出した言葉で、本気で別れたいなんて思っていなかった。ただ、一度冷静になれば、また仲直りできると思っていた。だけど彼は黙ったまま、うなずきもせず、否定もせず、ただ沈黙で応えた。その沈黙が、私には遠ざかる足音のように聞こえてしまった。


 離れて過ごした数日は、途方もなく長かった。

 彼がいない部屋は静かすぎて、時計の秒針の音がやけに大きく響いた。彼が座っていたソファに目をやるたび、胸の奥がきゅっと痛んだ。私が意地を張らなければ、今もここに彼はいたのかもしれない。そんな考えが何度もよぎり、後悔の波に押しつぶされそうになった。


 どうしてももう一度だけ会いたくて、メッセージを送った。「会えないかな」たったそれだけの短い言葉に、どれほどの想いを込めただろう。既読がついたまま返事が来ない時間の長さに、呼吸すら苦しくなった。けれど数分後、彼から「いいよ」とだけ返ってきたとき、私は思わず涙をこぼした。


 その日が来るまでに、私は小さな決意をした。

 ふたりで買った指輪を、もう一度はめていこう、と。


 安物だったけれど、私にとっては宝物だった。あのとき彼が「おそろいにしよう」と言った声の響きも、店を出てから手を繋いだ温かさも、全部鮮やかに覚えている。その証を見れば、彼もきっと思い出してくれる。まだ一緒にいたいという気持ちを、わかってくれるはず。そう信じて、指輪を指にはめた瞬間、少しだけ心が強くなれた気がした。


 待ち合わせの駅前で彼を見つけたとき、胸が痛むほどに高鳴った。久しぶりに会う彼は、少し痩せたように見えた。目が合った瞬間、笑おうとしたけれど、上手く笑えなかった。彼も同じように、ぎこちない表情をしていた。


「久しぶり」

「うん、久しぶり」


 それだけで、会話が途切れてしまう。私たちはどこでこんなに下手になってしまったんだろう。前はこんなに言葉に詰まることなんてなかったのに。


 カフェに入って、彼の向かいに座った。テーブルに置いた手を、わざと少し前に出す。指輪の存在を、彼に見えるように。気づいてくれるかな、と思いながら。

 けれど彼の視線は、窓の外やカップの中ばかりをさまよって、指先には落ちてこなかった。


「元気だった?」

「まあね。そっちは?」


 言葉は行き場をなくして、空気に溶けていく。私が笑えば彼は相槌を打つだけ。彼が話し始めれば、私はうまく返せずに目を伏せる。まるで、互いに壁の向こうから話しているようだった。


 沈黙が怖くて、私は何度も指輪に触れた。気づいて、お願い。これが私の気持ちだよ、と心の中で叫びながら。けれど彼は一度も、そのことに触れなかった。いや、違う。今思えば、きっと彼は気づいていたのだ。ただ、言わなかっただけ。


 どうして? どうして黙ってしまったの?

 本当にもう、私たちは終わってしまうの?


 カフェを出て駅まで歩く道、隣にいるのに遠く感じた。肩が触れるほどの距離なのに、心は何十メートルも離れているみたいだった。私は何度も言いかけた。「やり直そうよ」と。けれど、その言葉を出せば、彼はもっと冷たくなってしまう気がして、喉の奥で飲み込んでしまった。


 改札前で足が止まる。人波が流れる中、私は勇気を振り絞って彼を見つめた。指先にまだ指輪の感触がある。それが私の最後の希望だった。


「じゃあ……」


 唇が震えて、言葉にならなかった。彼が私の表情をじっと見ているのがわかる。今なら、きっとまだ間に合う。お願い、気づいて。そう願った瞬間。


「うん、元気で」


 あまりにも簡単に、彼はそう言った。

 心臓が音を立てて崩れ落ちる。頬が熱くなり、涙が込み上げた。けれど、泣いたら余計に惨めになると思って、必死で堪えた。私はただ頷き、背を向けて改札を抜けた。


 振り返る勇気はなかった。振り返ったら、きっと走り寄ってしまうと思ったから。


 ――本当は、彼も気づいていたのだろう。私がまだやり直したいと願っていたことに。指輪を通して伝えた気持ちに。だけど彼は最後まで、それを言葉にしてくれなかった。


 すれ違いは偶然だったのか、運命だったのか。答えはもう出ない。けれどひとつだけ確かなのは、私たちは最後まで同じ景色を見られなかったということ。


 家に帰って、指輪を外した。掌に残る冷たさに、涙がようやく溢れた。

「どうして気づいてくれなかったの……」

 その声は、誰にも届くことはなかった。

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