エピローグ
お察しの通り、解離性健忘と診断された。
俗に言う、記憶喪失である。
でも、時間の経過と共に多少は思い出したのだ。医師の坂田さんから話を聞いてから1時間くらい経った辺りで、時間差で記憶が戻ってきた。
涙が止まらなかった。
ベッドが濡れる濡れる。
点滴が無ければ脱水症で死んでいたと思うくらい、濡れた。
でも、涙が出ただけなのだった。
決して、声を上げて泣き叫ぶようなことはしなかった。
それは単なる自尊心や矜持などの問題ではなく、ただどうしてか、今の自分にはそんなことをする資格など無いような気がしてならなかったからだ。
夕飯を終えて、時間が経ってとうとう消灯時間になっても、湿度の高い夏の季節柄もあって、ベッドに染みた涙はまだ乾き切ってはいなかった。だからそのじめじめした気持ち悪いベッドで仕方なく、夢なら醒めてくれと願いつつ、ぼくは床に就いたのだった。
ところが、やっぱりNの名前は、次の朝には忘れてしまっていた。それどころか、Nとどうやって知り合ったのか、そもそもNは僕とどういう関係だったのか、そういう部分も思い出せない。兄弟姉妹だったのか、従姉妹だったのか、幼馴染や友人だったのか、恋人だったのか。
もしかしたら、次の日になってからぼくは鈴村さんや坂田さんに確認を取っていたのかも知れないが、少なくとも現在のぼくには、入院中にそんなことをした記憶は無い。
ただあの時が、あの時だけが。
あの光景と、そこに至るまでの経緯だけが、記憶に残った。
おかしいよな。
忘れさせてくれよ。
何のための記憶喪失なんだよ?
何のための解離性健忘なんだよ?
一番忘れたい部分を憶えてどうするんだよ……
「おっと。やばいな、もうこんな時間か」
時計を見ると、もう午後の7時になっていた。
良くないな。今もまた、相変わらずぼくは食事を忘れて小説を書き続けるようなことをしてしまっている最中なのだけれど、今日中には何か食べておきたいのだ。
しかし聞けば、食後すぐに眠ってしまうというのは良くないらしい。睡眠と胃での消化は同時にはできないから、眠りが浅くなるか消化不良になるかのどちらかになってしまうらしい。
消化に良い物を食べるのは大前提ではあるけれど、それでも胃での消化にかかる時間は2時間はある。健康のために睡眠をしっかり取ること、そのために早寝をすることを前提に考えるなら、もうそろそろご飯を食べないと駄目だ。
特に、睡眠の質。
精神を安定させるためにも、これだけは損ないたくないし。
「どれ」
冷蔵庫に向かい、扉を開けて中を確認する。
納得、豆腐……こんなもんか。あ、冷蔵庫の横の棚にバナナが置いてる。そうだそうだ、昨日買ったんだった。
じゃあ、この三つで良いや。
という訳で、その辺のテーブルに並べて、食べ始めた。
「うん。なんか、別に美味しくはないんだよな」
いやあ、バナナは美味しいけれども。
納豆も、別に特段好きではない。安物だし、納豆の中でも美味しいほうではないのだろう。
豆腐も別に、特にこれと言って劇的な旨みがある訳じゃない。
そして、そんな栄養補給のための、生命維持のためだけの作業的な食事に、思わず病院での流動食を想起したぼくは、そこからの関連でまた、あの日のことを思い出してしまったのだった。
あの日、あそこで僕に忌まわしい『トッピング』の乗ったうどんを運んできた男性店員は、どうやら連続殺人犯だったようだ。英語圏の国だと、『シリアルキラー』とか『マニアック』とかって呼ばれる類の人間だったらしい。
当たり前ながら、Nを殺したのは彼だ。Nに適当なことを言って油断を誘い、絶望的に巧妙すぎる不意打ちで、他の全員がその場所を見ていないタイミングを見計らって、いきなりNの胸を包丁で刺したらしい。
肺を貫かれた彼女は悲鳴を上げることもできず、そのまま厨房に引き摺り込まれて行ったとのことだ。
……自首した犯人が自ら語ったことなのだから、間違い無いのだろう。
思い出したくもなかったが、僕が注文の確認のためにカウンターに行った時に感じたあの生臭さは、言われてみれば血の臭いだった。血生臭さだった。
Nを厨房に引き摺り込んで、客から見えない位置まで運んでから、予め準備していたタオルか何かで急いで血を拭き取ったのだろう。
あの臭いは厨房から漂ってきていたのではない。
僕のすぐ側、Nが刺された位置に留まっていた、残り香だったのだ。
そうだ、そう言えば、あの電話だ。
僕がNのスマホに電話をかけると、それに出てからその瞬間に切ったのは、勿論あの男だったのだろう。
何故そんなことをしたのかって言ったら、そりゃ着信音が僕に聴こえないようにするために決まっている。
店の外で待っている僕に着信音を聴かれて怪しまれないように、勘付かれないようにする必要があった。着信音を長引かせないために、放置するのではなく積極的に切りに行った。
何故ならその後に、僕の目の前に唐突にあんな物を置きに行くことで、僕を驚かせるっていうサプライズ企画こそが、彼の目的だったのだから。
その辺のことについては、逮捕された後の取り調べで、彼の口から動機が色々と語られたらしいが、よく憶えていないし、記憶する価値も無いので、知らん。
やれ『そろそろ人殺しにも飽きて、ここで最後に一発、面白いことを〜』だの、やれ『あの女の子と男の子は凄く仲が良さそうで、壊し甲斐がありそうだと思って〜』だの、まあ、色々と言っていたらしい。
で、裁判の判決では余罪のことも含めて鑑みられて、死刑が言い渡されたそうだ。
良かった良かった。ぼくが人殺しにならずに済んだ。
「……おっと!うーわ、何やってんだか……」
気付けば、ぼくは食事の手を止めて、小説を書いてしまっていた。
何をしとるんか、われ。
はあ……ぼくはあれ以来、ずっとこうなのだ。
あれ以前よりも更に、小説を書くことに夢中になるようになってしまった。寝食をそっちのけて執筆することをしがちになってしまった。
惜しむらくは書く内容だ。以前はある程度のクオリティの小説が書けていたのに。今ではもう、くだらなくてしょうもない、他愛も無い陳腐な話を書くことが殆どだ。
あの日を思い出してしまった時に限って、そうなのだ。
そういう時は碌なものを書けないとわかってはいても、しかし、ついつい書いてしまう。身体が勝手に、書いてしまう。
こんな風に、それこそ文字通り、寝食を忘れて。
「あぁ……生きてるフリをするのって、面倒臭いなぁ」
思うに、僕はあの日、死んだのだと思う。
僕はどこか、決定的に壊れたのだと思う。
もう治せない、どうやっても治らない不可逆的な損傷を受けて、ぼくは僕ではなくなった。
考えてしまうのだ。
あの日、あの時。
僕がもしも、普通に食事を摂っていたら。
そうでなくとも、僕がもしも、小説の執筆なんぞにかまけていないで、うどんを待っている最中にもしっかりとNの位置を確認し、見守り続けていたら。
こんなことには、ならなかったんじゃないか。
いや、そもそも、もっと前の段階から原因があった可能性も否定できない。僕が、あんなだから。小説を書くのがあまりにも好きすぎて、あまりにも奇人変人で変わり者で、だからこそ、人によっては面白い奴であるかのように映ってしまうような、もしくはほっとけない奴であるようかのに映ってしまうような、あんなどうしようもない奴で、こんなどうしようもない奴だったから。
Nは僕が気に入ってしまい、僕と親しくなってしまい、それがあの殺人鬼の目に留まって、ターゲットにされてしまったんじゃないかって。
Nは、僕が殺したようなものなんじゃないかって。
だから。
だからぼくは、小説を書き続ける。
人間ではなくなってしまったのだから。
人でなしの外道に成り果ててしまったのだから。
悔い改める資格など無い。
更生する資格など無い。
生きてさえいない。
後はただ、続いていくだけだ。
続き続けるだけだ。
知性も学習能力も自我も意志も無い、ただの傀儡として、ただのバケモノとして、ただの幽霊として、ただの現象として。
だからぼくは、何も変わろうとせずに、何も変えようとせずに。
ただ死ぬまで、小説を書き続けるだけなんだ。