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「何食う?」
「何か」
「だから何を食うかって聞いたんだよあたしは」
「そうだなー……和食屋さんであったかいうどんでも食べるのが無難かな」
「わかった、ならあそこ行くぞ」
「いやあれサーティーワン!バスキン・ロビンスじゃねーか!冷たい油は食べないよ!あったかいうどんを食べるんだって!」
「冷たい油って。凄い表現ですのね」
「胃に優しくない物はお呼びじゃありませんの!」
まあ、そんな風に駄弁りながら、フードコート内をうろついていた僕ら二人だったが、そこでスマホからアラームが鳴った。
「おっと、小説を書く時間だ」
「え?お前そんなストイックなの?」
「ああ、まあね、まあ色々あるからね。ごめん、小説書かなきゃいかんので、ちょっと座ってるわ」
「あ、スマホで書くのね?書くって言うか、入力ね。いや、それだったら家の風呂場にいた時にやっとけば良かったじゃん」
「やってたよ、プライベートとして」
「え?え?」
「今から仕事として書くんだよ」
「えぇ…?」
「先に注文しといてー」
「え、えーと、とにかく、そう……待ってよ、せめてお前も注文してから書き始めろよ」
「えー?まあ良いけど……、適当に注文しとくか」
促されて、僕は一度スマホをポケットにしまい込み、うどんが注文できそうな和食系のお店に行った。
小説のことばかり考えていて。
小説を書くことしか頭に無くて。
間違えて、行ってしまった。
「はい、ご注文伺います」
「えーと、かけうどん一つ」
「かけうどん一つ。麺の茹で時間はどう致します?」
「え?あ、えーと……」
ふと横の注意書きを見てやっと気付いたが、このお店はどうやら、うどんの注文をする時に無料でかなりのバリエーションのカスタマイズが可能であるらしく、色々と好みを訊かれるのだ。さながら家系ラーメンや二郎系ラーメンである。
「その辺は、全部おすすめのやつでお願いします」
「トッピングも…?」
「そうですね。代金が変わらない範囲で、お任せで」
「承りましたー、ではこちらの番号札を持ってお待ちください」
番号札を受け取った僕は、次いでNに尋ねる。
「お前は何食べる?」
「んー?まあこの後普通に買い物もするけども、そうだね、ここでも何か食べときたいね……いや、じっくり選ぶから、そっちは先に席に座ってて良いよ。官能小説でも何でも書いてな」
「官能かどうかは置いといて、お言葉に甘えるわ」
小説を書いてて良いよ、と。
僕にとってそんな誘惑的で魅力的な甘言も無いのだけれど、しかしこの時ばかりは、Nから目を離すんじゃなかった。
結果論だとしても、この時だけは。
「…………」
黙々と、スマホに文字を打ち込む。
ひたすらに小説を書き続ける。
物凄い集中力だなんて言えば聞こえは良いけれど、これはあまりにも無防備な熱中だと言わざるを得ない。
周りの音など何も聞こえなくなるのだから。
「推敲推敲…」
表現を見直し、より違和感の無い文を作る。
そして、また新たな文を書き継いでいく。
その繰り返し。
「おっと」
どれくらい経ったろう?
時間の感覚を失い、ひたすらに書いていた。フードコートに居ながら食欲すらも忘れ、我を忘れて書いていた。
スマホの画面で時刻を確認すると、30分は経ったか。
その30分経った辺りで、最初の誤字をした。
やれやれ、気を付けなければ……と、気を引き締めたつもりでも。
「またか」
そこから程なくして、また誤字をした。二度目だ。
集中力が切れてきたのか?しかし、いつもなら小説を書いている時だけはこの程度の時間で集中を切らさない筈なのだけれど。
ああ、栄養不足か。今は睡眠はそんなに不足していない筈だし、これはやはり、栄養不足の弊害なのだろう。
いや、そもそも常人の集中力はどんなに頑張っても30分くらいで切れるものだと聞く。普段の僕が小説を執筆する時の、1時間超えの集中持続力が異常なだけなのだろう。
そんな風に、栄養について、食事について意識が向いたところで、僕は気付いた。
比較的ファストではないとは言え、それでも一応はファストフードである筈のうどんの提供が、どうにも遅いということに。
「……あれ!?呼ばれたのに行かなかったのか!?」
まずい!それはまずい!
僕は途端、焦燥に駆られて席を立った。
流石に、うどんを作るのに30分もかかるとは思えない。
恐らく、もう呼ばれたのにそれが耳に入らなかったのだろう。
やべー、今行ってももう遅いかなー……と。
慌てふためいて、僕は気付かなかった。
寝起きのように、頭が回らなかった。
Nは一体、どこに行ったのかと。
「あの!この札の番号ってもう呼ばれましたか!?」
店のカウンターに行って、僕は店員に尋ねる。
最初はカウンターには誰もいなかったのだが、僕の呼びかけに応じて出てきたのは、さっき注文を取ってくれた男の人だった。これなら話が早い。
「ちょっと確認しますね……ああ、いえいえ、まだ呼んでおりませんので、もう少しお待ちいただけますか?」
「あ、そうなんですか……え?」
え?それもそれでおかしいぞ?
「まだ出来ていないんですか?」
「申し訳ありません。今日はちょっと私一人でこのお店を回しているものでして……」
あ、そうだったんだ。そりゃ確かに、さっきと同じ人が出てくる訳だ。
……いや、とは言え、それにしてもだ。
「そうは言っても、うどんって30分もかかりましたっけ…?」
「いやぁ申し訳ございません、材料の下準備に時間がかかりまして。もうすぐ出来上がりますので、もう少しお待ちください」
「…わかりました」
まあ、あんまりクレームを付けるようなことをしても、提供が余計に遅れるだけだったし、僕は大人しく席に戻る。
材料の下処理、か。言われてみれば確かに、カウンターの位置からでも厨房の生臭さがにおってきていた。
まあ、世の中何が起こるかわからないからな。昨日の店員のミスで、夜中に誰もいない間に食材がダメになっちゃって、今日あの男の店員さんがぼくの注文を受けて初めて、その食材の劣化が発覚した……みたいな事情だったのであれば、あの男の店員さんは悪くない。
さて。
席に戻って、ようやっとNの不在に気付いた。
「あれ?あいつどこ行った?」
辺りを見渡しても、いない。
とりあえずスマホの連絡アプリを起動して、確認のための文を送信してみるが、一向に既読は付かない。
「全く……あいつ、まさか一人で帰ったか?」
いたずらかと思った。
あんなふざけた性格の奴だ、あり得る話だろう。
大体、一人で帰ったのなら家にいるだろうし、他の所を見に行っててそのうち戻って来るつもりなのであれば、ここで待っているだけでまた合流できるだろうから、何も心配することは無い。
でも、もしそれ以外の場合だったのなら?
何かトラブルにでも巻き込まれたのなら?
その場合、待つだけじゃ駄目だ。僕が積極的に、何か手を打たなければならない。
「……電話だな、まず」
Nの携帯電話番号に発信してみる。
発信音が、僕のスマホから静かに鳴って……
……と。
「…っ」
普通に考えて異常な出来事が、そこで起こった。
まず発信音が切れて、代わりにノイズが鳴り始めた。これは相手が電話に出て、通話が始まったことを意味する。
そして次の瞬間、通話が終了した。
スマホの画面が、通話中の画面から、元の画面に戻った。
通話時間、およそ0.5秒。
お互いに何も言うことなく、一瞬で通話が終了した。
嫌がらせのように。
悪意があるかのように。
「……ははっ」
なんだ、と安堵する。
こんな嫌がらせをしてくるのは、あいつくらいのものだ。
普通に、Nの嫌がらせだ。
電話に出られない状況なのではなく、わざと電話に出ていないんだよっていうことを相手に表明することで、相手を煽るテクニックである。
実にあいつらしい。
「はっ、その手には乗らないね」
僕は再び、小説の原稿を書くのに利用しているメモ帳アプリを開いて、文の入力を再開する。
こんなイタズラ、付き合ってても体力の無駄だ。
まだ僕の近くにいるのなら、どうせ物陰からほくそ笑んで見ているのだろう。あるいは、家に帰ったか。
どちらにせよ、僕は僕の用を済ませるだけだ。
うどんが出来上がって番号を呼ばれるのを待ちつつ、小説の作成を続けるだけである。
「…………」
だが、何故だか捗らない。
誤字脱字も多い。上手くフリック入力ができなくて、変な言葉を打ってしまうことも多い。集中力が発揮できていない。
まあ確かに、注文番号を呼ばれるのを聞き逃すまいと意識しながら小説を書いている訳だから、そりゃあそうだよな、集中できないよな……
と、納得しようとしているのに。
何故か、それだけじゃないような気がする。
(……あの時)
僕がかけた通話に出て、出た瞬間切るというあの行為から、悪意を感じたあの時。
嫌に、やけにその悪意を、悪く感じた。
Nが僕に対して嫌がらせをしてくる時の悪意のような、迷惑でありつつも、ある種いつも通りで日常的で当たり前で、どこか安心感すら覚えるような感覚が、無かったのだ。
何と言うか…真の意味での、本当の悪意を感じたような気がした。
平たく言えば、胸騒ぎ、勘、予感や直感、虫の報せ…
その程度のことでしかないのだけれど。
もし……
もし仮に、あの通話を切った人物が、Nではないとしたら?
その場合…
「ははっ、そんなこと考え始めたら、とうとうあいつの掌の上で踊らされているだけじゃんか」
やれやれ、こんなの雑念だ。小説を書きたいんだよこっちは。あいつの妨害に惑わされている暇は無い。
どうせ今もその辺にいるんだろ。そんで、隙を見て僕のところに近づいてきて、ばあっ、と驚かしてくるような、児戯としか言えないようなくだらないことを試みてくるに違いない。
ま、早い話が、あいつの顔なんてまたすぐに見ることになるだろって話だ。
僕はただ、浮かんでいる物語の構想を練って、目の前の画面に小説を入力していれば良いのだ。
「お待たせしました、かけうどん・お任せです」
ーーーと。
不意に、横からそう言われた。
「ああ、ありがとうござ……え?」
普通に、この時点でおかしい。
ここ、フードコートだ。普通の飲食店じゃないんだから、出来上がった料理が直接自分の席まで運ばれてくる訳が無い。番号札に書かれた番号を呼ばれて、自分がカウンターまで取りに行くシステムである筈じゃないか。
でもそんなこと、すぐには考えられなかった。
そんなことを考える前に、僕の頭は真っ白になったから。
「あ……あ、ああ……!」
声からも判る通り、運んで来たのはやはり、さっきカウンターで話した男性店員だった。
その声を聞いて、反射的に彼のほうへ振り向いた時、その振り向きとすれ違うように僕の前のテーブルに置かれた器に、見過ごせない物を見てしまった。
うどんの上に、Nの生首が乗っていた。
「提供が遅れたお詫びに、直接私がお持ちいたしました。そのトッピングの下準備には、思ったより時間がかかりましてね」
振り向けなかった。
何も考えられなくなって、何もわからなくなって、動けなくなって、それっきり僕はうどんの上の、その『トッピング』と、ただ見つめ合うことしかできなかった。
……けれど。
たった今、声をかけられて振り返った時に、視界の端にちらっと映った店員の男の顔は、やけに可笑しそうに、嫌に楽しそうに、異常に嬉しそうに、醜悪な笑みを浮かべていたように、見えた。