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「あー……力が出ない……ねえ、顔に水かけて」
「はいよー!」
「ごぶっ!いや、待っ!んがぶっ!間違えた…!違う!やめて!」
「かは!はっはっは!」
「バケツの水をかける奴があるか」
「だって、水かけろって言われたから」
「……いや、ごめん、そもそも水をかけろって言ったのが間違いだった。頭がぼーっとしてて、顔が濡れたらむしろ力が出なくなるってことを忘れてた」
「アンパンマンかよ。いや、そこを間違えるって、どんだけくたびれてんのよ」
「いや、小説を書くのに夢中で、もう2日間くらい飲まず食わずなんだよ」
「はあ〜?だから食べときなってあれ程言ったのに」
……えーとね。
さっきは昔を思い出すような感じで語り始めたけれども、今語っているこの場面…さっき言った『あの日』であるところのこの日は、さっきの場面の1年前の日なんだ。
去年の夏の日のことなんだよね。
ほんの1年くらい前に起こった出来事を、起こってからほんの1年くらい後に思い出しているだけなんだよね。
何故わざわざこの事実を摘示したのかと言うと、それは別に肩透かしのような意外性を出すためではなく、ただこの異常事態をはっきりさせるためなのだ。
この異常性を、ぼくという人間の異常を、わかってもらうためだ。
8月14日。僕はある女性と、一緒に家で過ごしていた。
「それが、もはやまともな食べ物は喉を通らなくて」
「え、遭難した人じゃん!かっはっは!遭難した人だ!遭難した人がここにいる!自分の家の中で、他の人も一緒にいる状況で自分だけ遭難してる!ぎゃはは!」
「もう、そんな風に大笑いして……」
「『More、そんな風に大笑いしてくれ』?じゃあもっと笑えば良いの?ぎゃはははははははは!!!」
「聞き間違い方が不自然なんだよ!僕は会話の中に英単語を織り交ぜて話すようなキャラじゃない!」
「あはは、良いじゃん良いじゃん。恥ずかしがるようなことじゃないと思うよ?あたしは好きだけど?」
「やめろ!この会話を聞いた人に、僕が自尊心で黒歴史を無かったことにして誤魔化そうとしているかのような誤解を招くことを言うな!本当にそんな喋り方をしたことなんて一度も無えよ!」
憶えている。この会話は憶えている。
こうやってよく茶化してふざけて絡んできたこと、快活に笑っていたこと、僕と相当に親密だったこと。
服装だって憶えている。夏は基本的に、僕はTシャツ短パンで、彼女は短パンとなんかようわからんトップスで、彼女は割と胸が小さいから、胸が小さいから、服の上からほんの少しの膨らみが見えるだけだ。もし髪をもっと短くしてしまったのであれば、胸が小さいから、パッと見た感じは男っぽくも見えるだろう。だから異性ではあっても、友情とかの類で結ばれている相手だったんだと思う。
でも、それなのに。
ぼくは彼女の名前も、彼女と自分の関係も、思い出せないのだ。
「ったく。ここが風呂場じゃなかったらどうなってたか」
「風呂場と外以外ではやらないしー」
「本当かなあ?それ、本当にそうだと断言できるかなあ?あれえ?僕の記憶が正しければ、こないだ台所で…」
「あー、また暑くなってきた。脱ぎたい…腹出そ腹」
「無視すんな。そしてもう出てんだよ。お前今、へそ出し系のトップス着てんじゃん」
「いや、お前が腹を出すんだよ」
「僕のほうかよ。御免こうむる」
「なにぃ?これ以上そのシャツを濡らされたいのか!」
「さっきのバケツの水でもう十分濡れたよ!」
僕らはあの日、エアコンが故障した中でのあまりの暑さに、家の中でも北向きの一番涼しい部屋であるところのお風呂場に二人で入り込んで、服が濡れるのもお構いなしに冷水のシャワーを浴びたり浴びなかったりしてくつろいでいた。
実家の一戸建ての家である。確か、帰省した時だったっけ。
名前が思い出せない、女の人。
僕と仲が良かったらしい、でもどうやって仲良くなったかは全く憶えていない、あの辺りの期間の記憶にしか存在しない、女性。
仮に、そうだな……『N』としておこう。
うん、Nだ。理由はわからないけれど、これがしっくりくる。
「じゃあさ、服乾かしてから、適当にお出かけ行こうよ」
「えー?今日は行かない筈だったでしょ?」
Nが急に変なことを言い出した。
お出かけに行くことを一切放棄しての、この水浴びだったのに。
「いやほら、お前が何か食べるために」
「いや、冷蔵庫にある物で適当に食べとくから」
「冷蔵庫には、揚げ物みたいな重たいやつしか無いよ」
「ええ…どうして…?いや待て、よく考えたら…」
「あ!今、あたしが買って来れば良いじゃんって思ったな?駄目だよ駄目、ちゃんと自分で行かないと。自分で行って自分で選んでこそ意味があるんだから」
「……因みに、帰りの荷物待ちはどっち?」
「お前」
「金払うのは?」
「お前」
「………」
「………」
僕はすうぅっと大きく息を吸い込んでから、全力で叫ぶ。
「僕には殆どデメリットしか無えじゃねえか!!!」
「甘ったれたこと言ってんじゃねえよ!!!!!!!」
「ひぃっ!?」
逆ギレ!?
くっ…こいつ!僕が大きく息を吸ったのを見て、素早く自分も息を吸い込んで迎撃態勢を取りやがった!
「良いから行くぞ。おら、おっぱい揉ませてやるから」
「…………」
そんな胸を突き出してこられても、揉めるような膨らみは無えよ。
でもそれを口に出すとグーで殴られるので、僕はスルーして、シャツを脱いでからその水気を絞る作業に入った。
「お?どしたんいきなり脱ぎ始めて。それにつられてあたしも一緒になって脱ぎ出すことに期待したのかなー?胸を触るよりも見る派だったのかなー?」
「黙れ。お前のへそが見えるのなら、それはもう全裸を見ているのと同じだ。それ以上脱いだところで何も変わらねえ」
「特殊性癖者だった……」
「これから出かけるんだろ?お前はずぶ濡れで出歩けば良いけど、僕はちょっとくらい水を絞っておきたいんでね」
「むかつくなー、そうやって挑発してあたしを脱がせようってんだろ?そんなにあたしの下着姿が見たいか!」
「お前の下着姿なんてもう何回も見てんだよ。第一、今だってトップスが濡れて透けてんだよ。あまりにも今更だろ」
「いやいや、そんなこと言ってお前、この前酔ったあたしにめっちゃいやらしくベロチューされちゃってたじゃん、このむっつり変態くん」
「されたから何だよ!?被害者だよ!なんで僕の側に問題があるみたいに言われてんだよ!っていうかなんで憶えてんだ!?なんで記憶に残ってんだよ、酔ってたのに!」
「ほろ酔いだったから」
「あの酩酊は演技だったのか〜ッッッ」
そんな馬鹿な掛け合いをしながら、二人揃ってTシャツも短パンも一度脱いでからしっかり絞って、でもこれじゃあ下着は濡れてるから結局蒸れそうだよねという話になって、下着だけは別々の部屋で着替えた後、僕達は親に一報入れてから外出した。
「だから外は暑いって言ったろ」
「木のせいだよ」
「地球温暖化理論を真っ向から否定した!?」
何でだ!?植物は光合成をするから二酸化炭素を減らしてくれるんじゃなかったのか!?それとも、二酸化炭素を始めとするいくつかの温室効果ガスが、そもそも別に温暖化の原因にはなっていないのだと主張するつもりか!?
「もとい、気のせいだよ」
ですよね。
いや、やっぱり気のせいでもないような気がするが。
「自転車なら大丈夫でしょ」
「エアコンの効いた車に乗せて行ってくれよ、こちとら飢えに苦しむ可哀想な男の子だぞ」
「免許持ってないよあたし」
「…そもそも車が無いな」
車は親が外出する時に乗って行った。
という訳で、今まさに自転車を保管している物置きの戸を開けたのだが、当然ながら僕の自転車は今棲んでいるアパートの駐輪場に置いてきたので、誰か他の人の物を借りることになる訳で……
母のママチャリしか無かったので、仕方なく僕がそれに乗った。
……いや、何なんだこの辱めは。
「ぎゃははははは!絵面やべえ!写真撮ろ写真撮ろ!」
「お前ふざけん…!」
ちょっとした悶着はあったが、すぐに二人で自転車に乗って、近くのショッピングモールに向かったのであった。