まえがき
人っていうものは、自分自身の中に何かと葛藤や矛盾を抱えているものだよね。
それは大抵の場合、矛盾し合うのは互いに別次元の欲求であるとは思うけれどもね。より低次元な欲求とより高次元な欲求の矛盾、例えば『お菓子を食べたいけれど、夏までには水着が着れるような身体になっておきたい』とかね。これはマズローの欲求五階層説で言うところの、生存欲求(一次的欲求)と、承認欲求(四次的欲求)との葛藤だろう。
でも、そんな可愛いレベルの話ならまだ良いんだよ。まだ良い。健全かどうかはさておくとしても、致命的ではないのは間違いないだろう?
でも、それが命に関わること、例えば物を食べること全般との葛藤だったのであれば、かなりまずいよね。
食べることなのにまずいよね。
剰え、だ。
エンターテインメントの道を歩む者として、エンターテイナーとして、自分の生命維持と小説の執筆を天秤にかけてしまうのだから、やっぱり自分は、どこか狂っているんだと思う。
だってぼくが死んだら、悲しむ人がいるじゃないか。
小説はエンターテインメント。小説家はエンターテイナー。エンターテイナーは人を悲しませるもんじゃない。
小説を書くために餓死するだなんて。
人を楽しませるために人を悲しませるなんて、実に傑作…おっと、いや、実に本末転倒じゃないか。
はっはっは…いや笑うところではないか。
残念なことに僕なんかは、今までの人生の中で何度もそういうことがあった。食べる間も惜しんで、あるいは寝る間も惜しんで小説を執筆する、狂気的な意欲。
あまりにも不合理に見える、奇妙な生態。
いや、現に今こうして肉体は何とか生命活動を維持できている訳で、まあ最悪の事態だけは避けることができたかなーとは思うけれども。
ただし一度だけ、僕はマジで死にかけたことがある。
いや、死んだと言っていい。
肉体的な死とは違うけれど。
あれは後にも先にも他にあったような、単なる生存欲との我慢比べなんかとは断じて異なる。もっと致命的で、もっと致命傷で、もっと不可逆的で、取り返しの付かない体験。
だから僕は、やっぱりあの日、死んだのだと思う。
あの日、足取りが狂っている人間が、そのまま人生という名の道から転げ落ちただけ。ただそれだけのことなのだろうと、自信も確信も無く考察する。
「涼しいんだよなぁ」
秋の割には、今日は暑いほうだ。
天気も風力も気温も、あの日と全く同じ。
なのに、湿度が低いからあの時より涼しいというこの秋の一日に、相変わらず小説を書きながら、ぼくは呟いた。
湿度って、重要だ。
じめじめしているのは嫌いだ。
特に、自分が寝るベッドがじめじめしていたら最悪だ。
ぼくのどうしようもないトラウマと、心にどうしようもなく空いた穴を、想い起こしてしまうのだから。