第4話:刺繍に残す二人の休日
ショーが終わった翌朝、私はまだ、服の中に拍手の音が残っているような気がしていた。
胸の奥にかすかに残る音の振動。眠っている間も、糸の一本一本がその余韻を覚えているようで、どこか落ち着かない。
あの夜、ランウェイの上で光を纏ったレイラの姿が、あまりにも眩しかったせいかもしれない。
完成したはずの服が、どこか“終わっていない”ように感じられた。
裾を縫い終えたその瞬間から、私はもう、次の何かを求めている。
縫い上げた一着の端を、心の中でそっとほどいて、もう一度やり直したいような気さえする。
リビングには、朝の光が柔らかく差し込んでいた。
白いレースのカーテンが、風にそっと揺れている。
昨日の余韻が、まだ空気のどこかに残っているようだった。
ティーポットから立ちのぼる紅茶の香りが、静かな朝にふんわりと溶け込んでいた。
私はカップを両手で包みながら、ためらうように口を開いた。
「……あの、今日って……どこか行く予定、ある?」
レイラは姿見の前でイヤリングを付け直していた。
少しだけ首をかしげ、次に笑顔をこちらへ向けてきた。
「もちろんですわ。ショーの余韻がまだお肌に残ってますもの。
こういう日は、“ご褒美の感性補給”が必要不可欠ですわよ」
“感性補給”――また不思議な言葉が飛び出してきた。
でも、それがレイラらしくて、私はつい笑ってしまった。
「それ……なんか、食物繊維みたいじゃない?」
「ええ、言うなれば“心の腸活”ですわ♪」
そう言ってカップを手に持ち直したレイラの背中は、朝の光をまといながら、まるでランウェイをそのまま歩き出しそうな気配すらあった。
午前十一時。
神戸の石畳の坂道を、私たちはゆっくりと下っていた。
昨日の熱気がまだ体に残っていて、レイラのワンピースが陽光を受けてちらちら光って見えるたび、あの舞台の情景が胸の奥でふっとよみがえる。
誰もいない階段の踊り場、空へと続くような細い通り、潮の香り。
この街には、“光と風の記憶”がそっと縫いこまれているみたいだ。
坂を降りきったところ、小さな古着屋を見つけた。
白い木枠のガラス窓に、手書きの筆記体でこう書いてある。
“USED & STORIES”
レースのカーテン越しにのぞく店内は、どこかアンティークの本棚みたいだった。
ぎっしりと並んだ服のひとつひとつに、前の持ち主の時間が静かに息づいているような。
レイラがラックの奥へと指を滑らせ、一着のワンピースをそっと引き寄せた。
深いグリーンのウールに、すこし曲がったウエストライン。そこにだけ、妙に繊細な意志が宿っていた。
「この曲線……ヴィンテージのワンピースなのに有名なデザイナーが作ったかのようなデザインですわね。
曲線を“仕掛け”にして、女性の芯の強さを浮かび上がらせる感じ……」
私はワンピースの裾に触れてみた。確かに美しい。けれど、それを“自分に似合う”と信じるには、まだ少しだけ勇気が足りなかった。
「こういう服、好き。でも……まだ私には、早い気がする」
レイラはそれを聞いて、少しだけ唇をゆるめた。
「紬、あなたの服は“光の縫い目”ですわ。
いつも誰かの心をすくうように、やさしく揺れてる。
だからきっと、こういう服も、いずれあなたに“縫い返される”日が来ますわよ」
“縫い返す”。その言葉が、なぜだか胸に残った。
既製服じゃなく、自分の手で“向き合って縫い直す”未来。
私が私のまま、似合うようになっていくこと――それは、ちょっとだけ怖くて、でもうれしい。
午後、私たちは路地裏の小さなカフェに入った。
看板には“chiffon et crème”と手描きで書かれていて、まるで綿菓子のような店名だった。
中はやさしい色の木目と、カウンターにずらりと並んだ手作りケーキ。
陽射しを受けて溶けそうなチーズケーキが、ガラスケースの中でとろりと微笑んでいた。
「……昨日夢の中で食べてたのと同じの、頼んじゃった……気分で」
と、私はちょっと照れながら呟いた。
レイラは、目を瞬かせてからカップを置いて言った。
「夢の中でチーズケーキですの? なんと平和な感性……。けれど、紬らしいですわね」
「さあ、覚悟はよろしいかしら? チーズケーキさん」
レイラはケーキを一口食べると、目を閉じて真剣な顔になった。
「これは……生地のほうにメープルが混ぜ込まれてますわね。そして上のクリーム、乳脂肪分はおそらく38%。ほんの少しだけ、ラムが香って……」
「あの、レイラさん……」
「はい?」
「カフェ店員ですか?」
テーブルには、まるで儀式みたいにきれいに並べられたお皿とフォーク。
湯気の立つカップの奥、ふと、カップの底に残ったミルクの泡がハート型に見えた。
「ねえレイラ。今日って……なんか、ちょっとだけ特別だよね」
私の言葉に、レイラはちょっと首をかしげて、唇をすぼめてから――
ゆっくりといたずらっぽく笑った。
「……ふふっ、ん? これって……もしかして、デートみたいですわね?」
その言葉に、一瞬固まる私。
フォークの先で、ケーキの端をそっとつついた。
「ち、ちがうし……! っていうか、そういうのじゃなくて!」
でも――この時間がもし“服”だったなら。
きっと、「タグにもつけず、そっと裏地に縫い込んでおくような、そんな時間」だったと思う。
夕暮れ。
港沿いの展示ホールで、小さなファッション展示が開かれていると聞き、ふたりで立ち寄ってみた。
賑やかでも華やかでもない。けれど、ひとつひとつの服が、静かに“言葉の代わり”としてそこに立っていた。
その中に――あった。
壁際、スポットライトからすこし外れた場所に、黒いジャケットが一着。
飾り気のない無口なシルエット。
けれど、裾がわずかに返されていて、そこにだけ、手縫いの刺繍があった。
「なにも言えなかったあの日に、心が言いたかった言葉を、ここに縫う」
レイラが静かに囁く。
「……それ、マヤ様の卒制ですのよ。
表はあえて沈黙を選んでいて、でも裏地にだけ“思い出の下書き”があるのですわ」
私は、その言葉を胸の中で何度も縫い直すように繰り返した。
服の内側にだけ宿る、ひとさじの記憶。
誰にも見せなくても、確かに存在する“想いの縫い目”。
夜。ハーバーランドの灯りが水面に映る。
観覧車の光が静かに回り、潮の匂いが風といっしょに届いた。
家のリビングに戻った私は、ポケットから小さな糸くずを取り出した。
昨日のショーで、レイラの衣装に刺繍した“蔦”の断片だった。
「……ねえ、わたしも、刺繍してみたいな」
「見えなくてもいいから。“気持ちが縫い込まれてる”って思える服、作ってみたい」
レイラは、それを聞いて静かに頷いた。
それはまるで、“刺繍のはじまりの合図”みたいだった。
その夜。私は作成中の服の裏地に、そっと刺繍を施した。
ハーバーランドの夜景を眺める二人――
誰にも見せるつもりはなかったけど、それはたしかに、私の中の“特別な今日”を縫いとめるための糸だった。