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石破天驚ー精神的脱殻論零章ー

作者: 男女川朝日

20XX年6月21日


向井徹、22歳。無職。前科あり


「感情過剰発言罪」により、午前2時47分、第五検閲区にて拘束。


罪状は、X上での投稿:


「諸君、皮膚を裂け。その裂傷こそが、希望の契機なのだ。


これが次の小説の最後だ。竹青」


特定危険思想の発信による、共感不安定誘発の可能性。


本件は「社会情緒指数」への負荷を与えたものと見なされ、第32条「感情過剰発言罪」に該当する。


対象者は、即時「共感再調整プログラム」への仮勾留対象とされた。


 




 向井徹、22歳。元作家志望。いや、今でもそう名乗るしか他に言葉がない。出版歴は一度だけ、五年前。掌編小説集。ただしレビュー欄には、「共感できるのに重くない」「淡く優しい」「読後感がいい」といった毒にも薬にもならない褒め言葉しか並ばなかった。どこにも届かず、何も傷つけられなかった。いつの間にか彼の文章は、誰の皮膚も裂かない安全な模倣だけになっていた。だから、もう書けなくなった。本当のことを書くのはうんざりだ。


 時刻は2時46分。徹は煙草を買いに家を出た。真夜中のこの空間がとても好きだった。誰もいない道を歩いていると心がスッキリするから好きだった。


ふと、徹は今日の朝の満員電車を思い出した。今日は東京に用があったのだ。いつもと同じ光景だった電車の中がとても違和感だった。ほとんどの人が、スマホを片手に持って、眼をスマホから離さずに各々の目的地まで電車に揺られていた。初めのほうは何も感じなかったが、だんだん皮膚がものすごく熱くなった。マグマのように体の内側から何かが溢れ出てくるのを感じた。途端に、目の前の景色が異質に思えてきた。皆、同じように思えてきた。徹の眼には、本当に規定された共感をなぞる自律プログラムたちに見えた。スマホを操っているのか。スマホに操られているのか、本当にわからなくなった。徹は視線を落とした。自分のスマホが途端に怖くなった。体が熱い。痛い。張り裂けそうな痛みに失神しそうになった。


 耐えられなくなった徹はスマホを床に落としってしまった。スマホが床を叩いた。コン、と鈍い音が金属のように響いた瞬間、それまで画面を凝視していた乗客たちの視線が、一斉に弾けるように浮き上がった。まるで何かに取り憑かれたように、誰もが同時に眼球を持ち上げたのだ。まばたきが止まり、時間が止まった。それは人々が見たのではない。社会全体の視神経が、異物を感知した瞬間だった。目と目が合ったわけではない。 ただ、向井徹という存在の温度差だけが、空間の中心に露出していた。無数の目が、まるで同じプログラムに同期するように徹をスキャンしていた。 額の汗、黒目の震え、落としたスマホの角度までも、この社会は徹のすべてを定義しなおそうとしていた。重力が少し強くなるような錯覚。空気が薄くなり、皮膚の上に霜が降りるような凍える共感の風。そして、視線の温度のなさこそが、最大の痛みだった。視線から逃げるようにドアのほうに目を移した。ドアのガラスに映るのはこちらを凝視している眼だった。ひどく冷たい視線だった。


 その時、徹の頭の中に声が響いた。今度は頭か。なんなんだよ。と徹は思った。初めは小さくて聞こえなかった声がどんどん大きくなってくる。


「言葉が温度を持たなくなった日を、おまえは覚えているか。簡略化された幸福の定義化。朝の満員電車も渋谷のスクランブル交差点も同じような人間しかいない。スマホを見て、画面をスクロール。顔を見ても、無表情がそこにあるだけ。いつからお前も含めて、人間は無機質なものになったのだろうな。」


 徹は逃げ出したかった。その時、駅に着いた。徹は無我夢中で走り出した。何回か肩がぶつかったが、謝っている暇もなかった。もう誰の顔も見られなかった。


 徹はトイレに駆け込んだ。彼はトイレの鏡の前で、ふと、違和感に固まった。 呼吸の音が耳から離れなかった。 鏡に映るそれは、確かに自分の顔だった。額の汗、くすんだ瞳、息の浅さ。だけどその口元だけが、奇妙に吊り上がっていた。笑っていた。いや、あれは笑顔ではない。何かが、彼の顔を笑わせていた。彼の意志とは別の皮膚が、鏡の中に浮かんでいた。


 今日のことを思い出して、真夜中に一人また、彼は青ざめた。いまだに何が何だかわからなかった。ふと、気づくと目の前には明かりが見えた。どうやらコンビニに着いたようだった。彼は、額を流れる脂汗を服の袖で拭い、自動ドアを潜り抜けた。中に入ると、冷房が効いていて、彼の皮膚を冷やしてくれた。心の底から、文明の発達に彼は心の中で賛辞を贈った。コンビニの奥にある飲み物売り場に足を運び、ハイボールを2本手に取り、そのまま、レジのほうに向かった。レジには若い男の人が立っていた。気だるそうに彼は、


「こちらにどうぞ。」


と抑揚のない声のトーンで言った。


「煙草で、32番をください。」


「こちらで間違いないですか。1532円になります。」


若い男と同じ抑揚のない無機質な声が支払いのアナウンスをしてくる。


徹は心の中でまたか。とつぶやいた。朝のあいつが出てくる前に早々に立ち去ろうとしてカードで支払い、早歩きでコンビニを出た。


 街灯の下を歩くたび、影が伸びてはちぎれた。ビニール袋が風に揺れ、ハイボールの缶がぶつかる音だけが、ひどく生々しかった。身体は冷えているのに、背中に貼りついた汗がまったく引かない。何かがいるわけじゃなかった。ただ、自分の内側から何かが語りかけていることに気づいてしまった。額に当たる夜風は、さっきまで心地よかったはずなのに、いまはもう、誰かの視線が感じられるみたいで気味が悪い。気づくと徹は、肩をすくめ、少しだけ早歩きになっていた。家に帰ったら風呂に入ろうと思った自分の思考が、他人のものに思えた。まるで…今この皮膚を着て歩いているのが、自分じゃないみたいだった。ふと、脳の内側でふやけた声が揺れた。遠くから響いていたあの声だ。今夜までで三度目。


 帰宅し、電気も点けずに靴だけ脱いだ。 袋を床に置き、ハイボールの缶がカランと転がった。ハイボールは逃げるようにリビングのほうへ転がっていった。 徹はまっすぐ洗面所に向かった。さっきから手のひらが汗と脂でざらついていて、触れるものすべてが嘘に思えた。洗い流しても何にもならないことは分かっていたが、一刻も早く流したかった。蛇口をひねり、水が滑る音が響いた。手を洗いながら、ふと顔を上げる。鏡の中の自分は、思った以上に疲れていた。


「俺ってこんなに無表情だったっけ...。」


 そのとき、鏡の奥のほんの数ミリ奥から、声が響いた。


「よく帰ってきたな。逃げて、見えないふりをしても、おまえはもうこの声からは逃げ切れない。」


「はっ....何て....言った?」


 徹は動けなかった。水は止まっているのに、流れる音がまだ耳に残っていた。鏡の奥の自分が、口を動かした気がした。朝のあれだと思った。 だが、自分の喉は動いていない。誰が喋っていた? 




 手を洗う音が止んでも、水の気配だけが部屋に残っていた。鏡の中の徹は、動かなかった。徹が身を引こうとしたとき、鏡の中の男が、ほんの少しだけ口元を動かした。


「わかるか。この声は、もう内側じゃない。お前はちゃんと知覚したんだよ。」


 声は確かに耳ではない場所から聞こえた。鼓膜じゃない。脳の奥、皮膚の裏。徹は慌てるあまりに足の力が入らなくなり、尻もちをついてしまった。鏡の中の男は一瞬無表情になり、破裂するように一気に笑った。


 同じ顔なのに、徹ではない何かが、そこにいた。


「おまえが本当に怖いのは、誰にも見られていない時にすら、誰かの目が残っていることだろう。」


 徹は、床に尻もちをついたまま、しばらく動けなかった。


 鏡の中の声が消えても、耳の裏に残った笑いの残響だけが粘ついている。ゆっくり立ち上がると、洗面所の蛍光灯がノイズを吐いた。逃げるようにリビングのほうに向かう。部屋は暗かった。扉の向こうに転がったハイボールの缶だけが、 静かに、意味もなく横たわっていた。徹は机の前に座った。もう長いこと、ここで書いていない。かつて原稿用紙に向かっていたはずのこの机の上には、今は未開封の督促状と、埃をかぶったスマホだけが置かれていた。ふと、彼は導かれるように窓を覗いた。椅子に座った自分がそこにいた。五年前、希望をもって一冊の掌編小説を書いた自分はそこにはいなかった。いたのは、屍のような無表情をした自分だった。


「俺、何しているだろう。くそみたいだなほんと。何だよこの顔、惨めだよな....」


また、頭の中に言葉が響く、


「書きたいこと書けばいいじゃないか。そこにある書きかけの小説たちは、本当にお前の   書きたいことなのか。いつからそんなつまらない人間になったのだ。世間がどうとか、後ろ指さされたくないとか、本当につまらない。」


「本当につまらなくなったなお前。竹青、お前の名であり、俺の名だ。お前が俺なんて本当に情けない。」


 冷淡に竹青は言い放った。窓に映る竹青の顔は汚物を見るような目で私を見下げていた。


「うるさい!黙れ。竹青といったな。俺のペンネームに言うのもなんだかおかしいけど、求められてないんだよ。俺が本当に書きたいものなんて、世間にな。もうわからないよ俺だって、ホントに!」


 言い終わって、徹は肩を上下に揺らしながら息を吸った。そのまま、押さえつけれない感情を手に込めて、横にあった書きかけの小説の束を投げ捨てた。


「何故。お前は堕落しているのに堕落を認めないのだ。普通でありたがる。堕落して、そこからやり直さない限り、人間に希望なんてない。いい加減、目を覚ませよ。もう一度人間になるのだよ。絶望も孤独もあらゆる感情を自分の中に押し込んで、信念を創造するのだ。人間は自分の信念を社会に接続すると、おかしくなるものなのだよ。今のお前がいい例じゃないか。」


「もっと自分に問いかけろ。何がしたいのか。お前は書かなければならないんだよ。そこにあるだろう。ほら、精神的脱殻論あるじゃないか。書けなかったのだろ今まで。今ならかけるんじゃないか。」


 徹は目の前に散らばる紙切れの束に目を移した。そこには、自分の信念を臓器ブローカに売ったような作品たちの草案が転がっていた。あまり、刺激的に思想を展開すると逮捕されるこの世界では、このような無難で綺麗な作品ばかり好まれる。彼はいつの間にか、社会に順応する形で、自分の意志ではなく、世間からの見られ方を意識して、自然に丸くなっていた。


 徹は目の前に広がる紙切れの束を一つずつ手に取った。机にあった鋏をとって、左手で振りかぶって、切り刻んでいった。背中を焼かれながらもどこか新しい皮膚が呼吸を始めたようだった。彼の心にあったのは、自分はこれから社会から堕落するにあたっての恐怖と絶望、後悔と自分の気持ちに嘘をつかずに生きていけるかもしれないという高揚感に包まれていた。


 彼は机に座りなおした。手には精神的脱殻論の草案があった。パソコンを開き、文字を紡いでいく。もうこの際、きれいな文章なんて書くものか。誰かに届けるなんて考えていたって俺は器用じゃないから書けない。叫んでいるだけだろうが、自己陶酔的だろうが、書いてやる。誰もが自分に酔うことを恥じるのなら、僕ぐらい酔っていたっていいじゃないか。そんな評価をもらえるだけものすごく価値がある。代替可能な人間でいる意味なんてない。俺は俺の方法で自分の人生を切りひらく。彼の厚い皮膚は傷だらけだった。でも、新たな皮膚がその下で形成されていた。少し血の匂いが漂っていた。


 向井徹は夢を見ていた。それは眠っている間の夢ではなく、ようやく目を覚ました者が見る現実の夢だった。青白く点滅するパソコンの待機画面が、彼の皮膚を無感覚に照らしていた。数秒前までそこにあった狂気も、高揚も、執念も、すべてが文字に変換される瞬間を待っていた。彼はキーボードの上に手を置いた。その指先は、まだ震えていた。けれど、それは恐怖ではなかった。ようやく自分の手に戻った感覚だった。パソコンの横に置いてある紙切れは道しるべになっていた。


精神的脱殻論     


 文明が作り上げた偽りの自己。それは作り込まれた浪漫ではなく、ただの虚飾だ。日々の中でその皮膚を修復しながら生き、決して問われない主義に従い、偽善の中で生きている。だが、そろそろその皮膚にメスを入れる時が来た。「精神的脱殻」とは、単なる肉体の奔放や、安易な野性解放とは一線を画す。文明が正当化してきた道徳、理性、そして「いい生き方」というものを徹底的に疑い、さらい捨てる。現状の自分の周りにある常識というものから、目を閉じ、自己と対話する。目指さなければいけないのは、己の内側に横たわる、覆い隠された本当の情念、衝動、そして苦悩と向き合うことである。これは、優雅な退廃や溺れるような幸福感ではない。むしろ、激しい混沌と絶望が、すべての幻想をぶち壊すエネルギーそのものだ。自己の剝きだされたアイデンティティーを確立せよ。


 ここまで書いてまた、徹は自己否定に入った。本当にこんなこと書いて意味があるのか。ただの売れない小説家でもない奴の戯言と見られるのじゃないか。自分の人生をかけてまで書く意味がどんどんないように思えてきた。


「徹底的に自己を追い詰めない限りは、何も書けないぞ。これは堕落し、そこから自己を見つめなおし、信念を持った人間にしか書けない。自己を堕落させろ、そしてそこから立ち上がり、本当の信念をもって生きるんだ。」


「人間は弱いのだよ。社会にアクセスしていないと不安になってしまう。一人になって、自己と向き合う。自分が何をしたいのか。何をするべきなのか。そんなのを考えて、孤立するのが怖いんだよ。」


「今のお前もその部類だよ。書き始めたのに、これを書くことによって自分がどう思われるか。そんなことばっかり考えて、塞ぎ込む。孤独を抱きかかえて、自己と対話できる人間じゃないと本当の意味で、人生なんて良くならないんだよ。」


 竹青の言葉は息を切らしながらまるで叫ぶかのように、脳に響いてきた。しかし、徹の心を振り切らすには、十分だった。徹は孤独を抱え、この小説を書ききることを決意した。彼はスマホを手に取った。ホーム画面からXのアイコンをタップした。投稿ボックスを開く。空白の欄が前までの自分のようだった。信念がなく生きていたことを責めるようだった。そして、彼は書いた。


諸君、皮膚を裂け。


その裂傷こそが、希望の契機なのだ。


これが次に書く小説の最後だ。竹青


 手は震えていなかった。書き終えた瞬間、徹の目には何も映っていなかった。ただ、パソコンの中に映る自分が、もう一人の声が、笑っていた気がした。彼は送信ボタンを押した。ここから、検閲と拘束、そして沈黙へと堕ちていく。皮膚が内側から再構築されるように溶けていく感覚を感じた。『投稿』の意味が、解放なのか崩壊なのか、もう誰にもわからない。


 三年前にも、一度捕まっていた。まだ“竹青”と名乗っていない頃だった。あのとき私は、目の前で泣いていたホームレスの叫びを描写しただけだった。それが『共感の摩擦を引き起こす危険』と判断された。以来、彼は熱のない文章だけを選ぶようになった。その火傷痕が、あの草稿の束だった。徹は書くことを選んだ。もう一度文学に、思想に正直に接することを決意した。






 投稿を終えてから、五分が経っていた。スマホは静かだった。通知はない。炎上もない。拡散も、否定も、賛同もない。 ただ、世界の底に落ちるような引力だけが、徹の後頭部を引いていた。そこから、徹は、十数分間、息をすることを忘れていた。画面には何の反応もない。ただ沈黙だけが、鈍く部屋の中を支配していた。それが一番怖かった。通知もない。拡散もない。炎上も、称賛もない。その無音こそが、検閲AIが既に観測を始めたことの証だった。竹青が静かに言葉を紡いだ。


「始まったぞ、三年前の再来だな。どうする。」


 徹は覚悟の面持ちだった。そして、


「もう俺には失うものもないよ。決めたんだ。もう一度向き合ってみるって。」


 その時、スマホが赤く光った。検閲AIがスマホを検知したようだった。その赤い光は徹の顔を照らした。徹には偽りの血に見えた。何も考えないようにしていたうちに、自分の中で正しさの分別もつかなくなっていた。今までの自分に対して反吐が出る思いになった。


 机の隣にある棚からバックを取り出し、スマホの電源を切り、SIMを抜き取った。USBメモリに原稿を移し、草稿の紙束をバッグに入れる。財布、モバイルバッテリー、ジャケット一枚とズボンが一枚 それだけでいい。もう誰にも連絡しない。受け取る必要もない。必要なのは、孤独と書き終えることだけだ。帽子を被って眼鏡をし、出ようとしたとき、部屋の外が少し温度が変わった。直観で徹の身体は動き出した。スマホとSIMを足で踏みつぶした。そのままの足でベランダに出て、ベランダの裏にある駐輪場で自分の自転車にまたがった。幸い、ロボット一体だけだったみたいだ。彼の胸に安堵の感情が染み広がった。


 夜の街は、無数の視線の網で編まれていた。 監視カメラや駅の広告スクリーンさえ彼を追跡しているようだった。そこを歩く人は機械的だった。心臓で血液を流しているのかスマホで流しているのかわからないぐらいだった。駅中のパン屋のガラスに自分が写った。自分はこの社会から廃絶されていると徹は思った。まだ少し、嬉しいのか淋しいのかわからなかった。しかし、徹は自分の声が一人でも多く届けばと願った。けどその思いはかき消された。


「徹。今、自分の声が一人でも多くの人に届けばいいなって思っただろ。それはダメだ。誰かのためなんて抽象的なことで動いていると人間は勝手に要らないバイアスをかけてしまう。まずは自分のためにするんだ。自分がしなければいけないことをする。その行動が誰かを助ければいいのだ。人間、神にはなれない。人間は所詮。人間だ。」


「そうなのかもしれないな。」


 自転車を駅前に捨てて、カメラに映らないように足音を抑え、地下鉄の入り口を横切る。そこは、三年前に一度捕まった場所だ。あのときも、スマホの発信履歴から居場所が特定された。だから今回は、徹底して沈黙を貫く。目立たない裏道を抜け、埼玉の南側へ歩き続けた。バッグの中で草稿が擦れるたび、心臓が跳ねた。でも、それが彼の呼吸の代わりだった。書かれるはずの声が、まだこの手の中で生きている。深夜、もう人がいない公園の隅で水を飲み、ベンチに座ってパソコンを開く。灯りはない。そこにある思想が沈黙される社会において、言葉を書くことは、すでに逃亡の形をしている。 震えているのは手ではない。再燃し始めた、思想の温度だった。徹は静かに、再び続きを書き始めた。






 だからこそ、いま必要なのは、安全な正しさのさらなる補修ではなく、意図的な裂傷である。朝の通勤電車を思い出してみて欲しい。スマホを握る諸君の手は、SNSが量産する誰かの無数のコードの羅列で構成された「正論」と「善行」をスクロールし続け、指先にまで道徳を塗り重ねる。光沢ある幸福のサンプルがLEDの粒子となって車内を舞う。この社会は舗装された善意のアスファルトにすぎない。滑らかで転ばない道は、血が流れない道でもある。諸君はその世界の住人だ。周囲を見渡せば、同じ姿勢でスマホにまるで拘束されている者ばかり。そこに本当に多様性など存在するのか。


  


 気づいているか? その指先、誰かのコードと同期していることを。


 


 血を見ない社会は、痛覚を忘れた皮膚のようにゆっくり乾く。乾いた皮膚はひび割れ、亀裂から滲む膿を隠すため、さらに倫理という傷薬を塗り足す。私たちはその無限ループに酔わされてきた。精神的脱殻とは、治りかけの傷にメスを入れ、亀裂を風に晒す行為だ。剥いだ瞬間、腐臭が立つ。誰もが顔をしかめる。だが、その臭気こそが「まだ生きている証拠」ではないか。香水のような綺麗な正しさはすぐ揮発するが、膿の匂いは残る。残って、問う。


「諸君はまだ傷口を隠すのか」


 


 ここで初めて、人間は自分の声を聞く。それは称賛を求める善でもなく、罰を逃れる理性でもなく、ただ生き延びたいという、獣よりも鈍く、しかし骨よりも固い衝動だ。この衝動に触れたとき、文明が与えた名前や肩書きは砂になる。砂の城を築き直す自由もあるが、潮が満ちればまた崩れる。ならば、潮に洗われながら立つ骨の感触を、そのまま信じてみるしかない。脱殻後に残るのは、語るに値しないほど粗野な自己の姿かもしれない。しかし、その粗さこそが次の創造の原料だ。磨かれすぎた理念では火花が散らない。粗い石どうしを叩きつけてこそ、火が起こる。




 それを理解しなければまず人間ではない。社交性と理性を纏った、下位互換AIにすぎない




 ここまで書いて、朝になっていることに気づいた。朝は行動するのに危険だと判断した徹は、近くのネットカフェに入った。狭く、乾いている空間だった。 機械的に、いらっしゃいませと言われたが、徹の耳には届かなかった。受付の防犯カメラに、自分の顔が写った。直観で顔を徹は逸らそうとした。しかし防犯カメラに反射する自分の顔はピクリとも動かなかった。今の自分の顔は、誰のものだった。竹青のものだったか。レンズは、何も答えなかった。ただ録画していた。


 十時間パックのシートブースに入る。扉を閉める音が、なぜか重かった。パソコンのスリープを解除する。草稿を再び開く。 ディスプレイの光に照らされた指先が、白く鈍く、他人の骨のようだった。


そして打鍵が始まる。


 諸君、今のこの世で生き辛さを噛み締める者は多いだろう。私は、諸君の苦悩を剥き出しにしてやろうと思う。


 自分で書いているはずなのに、自分じゃないものがアイデアを送っているような気がする。 明らかに徹の文体ではない節回しが増えている。 思考より早く、言葉が先に出てくる。指が勝手に選び取る言葉たちは、もう彼の選択を必要としていない。


「....お前、何している竹青....」


  徹がそう口に出した瞬間、パソコンに映る徹が悪魔のような笑顔をした。ノイズ混じりの電源ファン。密室の呼吸音。そして、骨の中から這い上がる“竹青”の影が、ディスプレイのガラスにうっすらと浮かぶ。ブースの空気がずっと同じ温度だった。徹は打鍵を続けている。だが文の流れはもはや彼の意志ではなかった。


 正しさに染まった皮膚では、もう痛みを知覚できない。


 人間の尊厳とは、正誤の外にある“生き残る暴力”である。


それは彼の考えに近かった。けれど、言葉選びが違う。リズムも、息遣いも、徹の手癖ではなかった。画面にはすでに6000字ほどのテキストが積まれていた。気づけば、一度も叫ばれてはいなかった。竹青は俺に教えてくれているのだ。堕落しないと書けないというのはこんな気持ちなのか。自己との対話とはこうじゃないか。


我々は、倫理と合理性という皮膜で自我の膿を包み隠してきた。


だが今こそ、あの膿の湿度を、都市の光に晒す時だ。


 「違う。やっとわかった。」


  徹が呟いた瞬間、パソコンに映る竹青の顔が笑った気がした。何だかわからないけど、竹青のことを理解できた気がした。


そのときだった。パソコンの画面、カーソルの後ろに自然と浮かび上がった竹青の顔が安堵したように見えた。そして、竹青は淡々と語りかけた。


「……それでも、俺には、書きたかったんだ。本当にやるせなかった。お前が黙っていた三年間。俺はずっと、お前の喉にぶら下がっていた。」


「これを俺と徹は書くために生まれてきたのだと思う。だから、あえてこの時代なんじゃないか。声を荒らげて、読者を突き放しながらでも、書かなきゃいけなかったんだよ。」


 空気が変わった。徹は思わず、タイピングの手を止めた。その声には、竹青自身の熱が宿っていた。 打ち込んだ記憶はない。でも、間違いなく彼たちの心の声と叫びだった。画面の下部に、最後の行が追加された。


 「名前を返す。これはもう、徹の思想だ。」


 「この名前は返す返さないではないよ。竹青は俺とお前の二人の名だよ。それこそがこの脱殻だろう。違うか竹青。」


 少し、疲れた。打鍵の音は続いていたが、思考はその場に座り込んでいた。そしてふいに、徹は呟いてしまった。


 「……もう、誰がかいているかがわからないな。この文章。抽象的すぎないか。叫んでいるだけだし、攻撃しかしてないじゃないか。」


 パソコンに映る竹青はため息をつきながら、




 「それでいい。そもそも文学なんて大概が自己満だろう。何かを伝えたいなんて大げさなのだよ。そんな力は作家にはない。徹自身の思いを乗せること。あとは読者が判断することだ。しかも名前なんて、お前が最後にへたくそを隠すためにあるんだから。」




「……でも俺、前までは誰かに読まれたかったんだよ。」


 徹は力なく笑った。


 そこに残っていたのは、徹の呼吸と、徹の皮膚と、徹の罪。そして、二つの融合した徹の信念だ。 草稿のラストに、彼らは署名を打った。


 ネットカフェの時計が、残り5分を切っていた。 警告音が鳴る寸前の沈黙。 延長ボタンに手を伸ばすこともできなかった。身体が凄く重い。今まで直視するのを避けていた。絶望や執着、社会的な孤独などが徹の肩に乗っているようだった。しかし、徹は竹青という信念と一緒だった。孤独だが孤独じゃない。どこか晴れやかだった。だが、状況は何も変わっていない。彼らは追われる身だった。


 USBとパソコン、草稿の詰まったバッグが、妙に重い。しかし、それは意味のある重さだった。パソコンの画面には、まだnoteの投稿画面が開かれたまま。アップロードボタンにカーソルを合わせながら、徹は指を止めていた。ここで押して、もしブースを出た瞬間に捕まったらどうする。このまま投稿ボタンを押さずに、三年前のように逃げ続けるのか。手が震えていた。それは思想の熱ではなく、現実の恐怖だった。 書くことと外に出ることが、初めて正面衝突していた。


「竹青....投稿してから出るべきか。どうすればいいと思う。」


「いや、まだだ。....この草稿は俺らの中でこの思想を教えてくれた人のところから投稿しない意味がないだろ。」


 徹の声ではなかった。だがもう、その声を拒めなかった。自分の中に、もうひとりの自分の体温が混ざっている。


 あの場所へ行こう。


 彼女の家。いや、彼女と過ごしたあの部屋でしなければならない。過去の俺と決別して俺らがあいつにとって理想の男になるためにはあそこじゃないといけない。


「....全部、見ていてくれたらよかったのに。見ていなくてよかったのかもしれないけど。」


 「理想の男....ってなんだよ。今更....」


 「徹!....あそこからじゃないと始まらないぞ。....始めるにしても終わるとしても。」


 そうだ、投稿は、誰かが見ていると思える場所から行うべきだ。もしかしたら、自分勝手なのかもしれない。そうだ自分が何をするか、何をしたいか。それだけが、思想に名前を与えるためにできる、最後の贈与だ。状況は関係がない。


 徹はログアウトし、USBを抜いた。フロントへ行く足音は、靴底の音が膝まで響くほど重かった。扉を開ける手はもっと重かった。せっかくここまで来たのに、自分の中で何が大切なのかを俺らは理解ができたのに、ここで終わるのかもしれない。胸の鼓動が早すぎる。俺の全身は血が足りないと叫んでいる。五臓六腑が張り裂けそうなぐらい叫んでいる。ドアにかけた手が自分の思う通りに動かない。震えすぎて固まった。何とかして両手で扉を開けると、そこには警官はいなかった。それが奇跡なのか、予定通りなのかは分らない。


 ただ、夜なのに空はまぶしく晴れているようだった。


 徹は歩いた。ここ一日何も食べていない。空腹なのに身体は何も欲していなかった。 右手にUSB、左手はポケットの中でずっと震えていた。左手には本来何を俺は持っていたかったのだろう。


「三年前で終わったはずなのに、離婚していないからって指輪ずっとしていて。あいつの薬指は....くそ期待なんてしても無駄なのに....」


「俺が逃げないでお前と早く一緒にこうして自分とは何かの答えを出せたのなら変わったのかな。いや、なにも考えない。無駄だ。本当に....無駄だ。」


「........。」


 かつて彼女と暮らしていたアパートは、駅から歩いて川を渡り、そこから少し離れた住宅地にある。その道を覚えている足取りで歩くことだけが、今の自分をこの都市に繋ぎ止めていた。途中、何度か引き返そうと思った。


「やっぱりやめよう。」


 と口の中でつぶやいた瞬間、USBがポケットの中でカチャリと鳴った。思想が否を打った。いや、竹青か。いや、俺か。もう誰でもいい。直線を抜けると、あの建物が現れた。 一階の真ん中の部屋。シャッターは閉まっていて、車も止まっていた。郵便受けの名前は向井のままだった。徹はインターフォンを押した。反応がない。徹の中で何か、堰き止めているものが川の氾濫のように一気に彼を飲み込んだ。


「俺、頑張ったんだ。また、書いてみたんだ。三年前はダメダメで悲しい思いさせたけど、俺、今なら胸張ってお前の旦那だったんだってこれから言えると思うんだ。最後にこれだけ....伝わせてくれ!」


「僕は君の中の理想の考え方を聞いて、あの時は全然理解できなかったけど、今ならすごく理解できる。僕がまたこうやって頑張ろうと思ったのはミラナのおかげだったんだ。俺はこれからもずっと心から愛している。君の理想の男で居続けるよ。だから行かなきゃ。やらなきゃいけないんだ。本当にありがとう。」


 竹青は黙って聞いていた。それが自分たちの信念の核の部分だと認識していたから。 玄関のガラスの部分に、自分の姿が映る。その奥に、誰かの肩が小さく揺れている気がした。徹は気づかない。だが、竹青は知っていた。それが自分たちの大切な人であることを。泣いていることを。そこにはまだ火傷のような静かな嗚咽が残っていたことを。


一瞬、接続は途絶える。そのあと、数秒の沈黙のあとにmirana_homeが接続一覧に表示された。胸が詰まりそうだった。Wi-Fiに接続するだけなのに、それは自分の中に妻がかつて存在していたということの証明のように見えた。逆に見れば、今は一人だという絶望も徹に突き刺さった。noteの投稿画面を開く。タイトル欄に指を置く。数秒迷って、こう打つ。


『精神的脱殻論』


 本文を貼りつける。 最終段落をもう一度読み返すことはなかった。 それをしたら、たぶん押せなかった。今の自分には響きすぎるような気がした。投稿ボタンにカーソルを合わせ、ためらい、呼吸し、竹青の声と、徹の心臓が一致した。


「送信。」


 空気が少し動いた気がした。懐かしい匂いがした。 いや、部屋の匂いが少しだけ、あのときのままだったのかもしれない。彼はUSBをそっと封筒に入れ、ポストに差し込んだ。彼らは共に言った。


「最後に愛している。何度でも....うん....行ってきます。」


 それだけだった。この後、徹はどこに向かうのか。この投稿は誰に届くのか。それとももう、誰かには届いているのか。残すのは、ただ皮膚の痕跡だけ。


 


 駅までの道は、こんなに長かっただろうか。足が重いのではない。もう歩かせる思想が、内部にいないのだった。徹は、自分が今どこをどう歩いているのか、何度か見失いかけた。しかし、自分の意志で行動できるそれが自由で誇らしくて、感慨深かった。振り返ると、投稿前の自分がまだその角に立っているような錯覚があった。いや、そうじゃない。あいつはもういない。俺から抜けたのだ。歩いているうちに、気づいたことがある。靴の重さ、手の中の空虚、身体を支えているのが何か。全部、初めての感覚だった。


「俺はもう、社会に生きるロボットじゃない。」


「二十二年かかったけど、これから人間として生きていける気がする。」


 道端の電柱、落ちたネクタイピン、よれたコピーのチラシ。 通行人の会話、犬の鳴き声。それらがどれも書く価値のあるものとは思えなかった。そしてそれが、救いだった。noteの通知は鳴っていない。 誰が読んだかなんて、もういい。自分が書いたという事実すら、今は遠かった。ただ、叫びたかった。火を投げた者として。皮膚を剥がした者として。そして、それでもなお、服を着て歩いている名なしの歩行者として。交番は近づいていた。自首するという言葉ではもう、足りなかった。これは、所有の放棄だった。名の供出だった。脱殻の完遂だった。


 パトカーのドアが閉まる音が、やけにやさしく響いた。手錠はなかった。逃げないことを、もう自分が知っているからだ。静かな道だった。明け方の都市が、窓越しにゆっくりと後退していく。


「竹青、いるか。」


 車内で徹は小さくつぶやいた。返事はなかった。けれど、体の奥で誰かがあくびをするような温度があった。それで充分だった。もう言葉にしなくても、俺らは共にある。反論しなくていい。煽動しなくていい。徹の体温と混ざり、沈黙の中に火種だけ残している。警察署の庁舎が見えたとき、どこかで終わったと思った。けれどそれは間違いだった。思想は外れたのではなく、内側に定着したのだ。誰にも見えない場所に降ろされた、自己の信念の共有体として。ああ、これが精神的脱殻なのだと、はっきり分かった。名は返した。叫びは終えた。投稿は完了した。けれど竹青は、皮膚のすぐ裏にまだ燃えていた。


「向井徹さん、こちらへ。」


 警官の声に促されて車を降りる。曇ったドアガラスに、自分の姿が二重写しになった。そこにいたのは、ただの徹だった。徹は、一歩だけ深く呼吸してから、歩き出した。


 思想と共に、沈黙のまま。そして生のまま。


「こちらに座ってください。荷物は持ち込み禁止なので預かります。」


 徹は素直にバックを渡した。その時、パソコンからピッ」と短く音がした気がした。通知か何かだったのかもしれない。けれども、徹にはどうでもいいことだった。


「今回のことで聞きたいことがあります。聞いてもいいですか。まずはあなたのペンネームを教えてください。」


徹たちは笑顔で答えた。


「はい、俺らは........竹青です。」

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