第三章『白鯨討伐戦』プロローグ
ある人知らぬ平原の中、ある一匹の、いや匹と呼ぶにはふさわしくないほどの愚鈍な獣が大気を泳ぐ。
白き獣は飢えていた。何を食べても食い足りない。食べても食べても満たされない。胃に、体に、ずっと穴が空いているような飢餓感が止まない、止まない。土を食べてみても食い足りない。
白き獣はわからない。自分が何を食べたのか。体が傷だらけになっているのに誰が傷をつけたのかわからない。口が赤くなっていても、その赤がなにかもわからない。
白き獣は恐れている。
『鯨はーたくさんのひとたちをー腹ペコから救えるんですー。でもー食べられたくないならー逃げてもーいいんですよー。食べるやつが食べられる覚悟もないなんてームカつくじゃないですかー。だからーたくさん食べてもいいんですよー。』
数少ない記憶の大部分を占める母の声。食べられろとも食べろとも聞こえる抗いがたい飢餓そのものの声。獣は食べられるのが怖い。歯を突き立てられるのが怖い。この世のすべてが怖い。
白き獣は消え去りたい。この孤独感を。獣の仲間はいない。同じような生物もいない。話し合うのも見合うこともできない。なのに皆は獣を食べにやってくる。にくい、にくい、この世がにくい。獣を一人ぼっちにするこの世がにくい。
白き獣は考えた。ならばすべてを自らで満たそうと。世界が自分になれば孤独はなくなると。獣の霧は大地に、空にと広がり、埋め尽くす。そうすれば世界を忘れて、自らがなくなるとも知らずに……。獣は霧を出し続ける。自らの願いを叶えるために。
大地を見ると突如として一人の子どもが現れた。
だがそれは子どもではないと体のうころの一枚に至るまで感じ取る。大昔に獣を生んだ母の匂いがする。絶対服従の四文字が頭を埋め尽くす。
「久しぶりだねー僕らのペットちゃん。見ない間にたらふく食べたようじゃないかい。飢えはなくなったかい?
……うーん、どうやらまだ食い足りないようだ。あ〜あ、僕達は君を可愛そうだと思っているんだよ。だって君は自分が食べたものを忘れてしまうんだからさー、僕らは食べたのが僕達の糧になるのに。本当に可愛そうだよね。」
獣はいきなり可愛そうと言われて困惑した。
「あ〜そうそう。僕らは君に用があったんだよー。福音がいきなり文字を変えてねー、やることが変わったんだよ。今はもうカララギのごちそうを食べてたはずなのにさー、喰い患いを起こしそうさ。だから僕の言う事に従ってもらうよ、暴飲、ぼうしょくぅー!」
白き獣は考えるのやめ、すべて喰らえと言われた、考えるのをやめた白鯨は自分を満たしてくれるもとへと泳ぐ。
白き獣は呼ばれ、称えられ、憎まれている。全ての名前につばを吐き、蔑み、悪態をつく獣。
そう『白鯨』と。
はじまります