第一項「平面」
厚い雲に陰を差され、燻り空から撒かれた雪たちは、帰り道を知らされていないのだろう。寒いから帰る気も起きないのかもしれないけれど、地表に堕ちて融けるなら花を模して濡れて、咲いたのだと嘯いても不興は買わないだろうけど、でもそれも最初だけだ。続く弁たちは、降り付く寸前に既に濡れた先を見て、こんなはずじゃなかったと嘆く間もなく形を失くしていく。募るのだろう。きっと。募るから積もるのだろう。声を出す間もなく。傍から見れば静謐な様は確かに品があって、白く詫びて柔く憂いている。しかしその内に渦を巻く悲嘆は、知らずに踏み入る人を妨げるでなく足をとり、未練をむき出しにする。踏まれた跡はどうしたって花にはならない。誰だってそんなことは知っているのに。
その人は当たり前のような顔をして現れた。自分が来るのを私は分かっていたはずだと言いたげに馴れ馴れしく近づいて来て、私の名前を呼んだ。私はそれがとても腹立たしくて、なるべく他人を装った。実際に他人ではあったけれど、それでも他人を装わなければ誰かに笑われるのではないかと不安になって、こういう時のために社交辞令があるのかなと思った。
「ああ、悪い悪い、ごめんね。私おしゃべりだから、沙也と全然違ってびっくりしたかな」
「別に沙也も喋らないわけじゃなかったですよ」
「そうなんだ、まあ、そうだったのかもね。私が喋りすぎるからあの子喋れなかった」
沙也の姉を名乗ったその女の人が、腕を上げて大仰に言う。冗談だと言いたいのではなくて、その嘘っぽい演技がむしろ真実を語るにふさわしいのだと言いたげに、普段ほとんどしないから知らなかったけど、愛想笑いもタダじゃないらしい。あまり相手にばかり喋らせていると用意できる顔の在庫が無くなりそうな悪寒がしたから、私は仕方なく自ら口を開くことにした。
「私に何か御用ですか?」
「御用、御用って、ああ用ならあるんだけど、御ってつけられちゃうとこっちもそんな大した用だったかなって不安になっちゃうよね、ましてや中学生にそんな話し方されるとさ。まあちょっと、歩こうか、この辺私も一応卒業生なんだけど最近どうなってるかよく分からないな。向こうのバス停があった辺りはお店とかあったよね。今時の中学生は行くの?」
「分かりません、私は行かないので」
「友達は?」
「分かりません」
「いないの?」
「分かりません」
「そう、沙也とは仲良かったんだよね、学校の先生に聞いたんだけど。あ、でも君と沙也の関係をどうこう言う気は無いよ。お葬式も身内で済ませてしまったから、沙也が君と特に仲が良かったとは聞いていたんだ。死因が死因だったから、あまり外に聞かせることでもなくて、理解してもらえるとありがたいな。もう、もう一年以上たったことになるのかな、なんにしろ色々落ち着いたからさ、妹が世話になったのだし、このままというのも不義理な気がしてね。君が望むならいつでも家に上がってくれて構わないけど、どうする?」
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫って、お参り行かなくていいってこと? 日本語分かりづらいよね。まあそれはそれとして、今日来たのは君の話を聞いてみたい気持ちもあったんだ。これは姉としての直感としか言いようがないけれど、あの子、家じゃ無口だったけど、家の外ならそれなりに喋ってたんだろうなって思ってたんだ。別に仲が悪かったわけじゃないよ、ただうちの家系、言ってしまえば皆おしゃべりでね、喋りたかったら相手の話にむりやり割って入らないとダメなんだよ。そこを行くと沙也は相手の話を遮ってまで自分の話をしたいってタイプでもなかったから、かといって私達が気を遣って沙也を喋らせようとしても、気を遣われて喋らされるのもあまり本意でなかったようだったし、ただ、なんとなく分かると思うんだけど、話慣れてるとか慣れてないとか、口ぶりとか何となくだけど沙也は話慣れてるような気がしてて、いつだったかな、多分沙也が中学に上がったくらいだよ。少し空気が変わったような感じもあって、きっと私達以外にちゃんと話を聞いてくれる人が居たんだろうなって思っててさ。色々話を聞く限り、君かなと。どう、合ってる?」
気まずくて目を逸らした先の川辺の住宅街が呆けている。学生達はそれにも慣れて幸も不幸もない、目を逸らしなよ、まじまじ見たところで何もありはしない。巧みな視線誘導によって真空の相は隠されている。視線という名の刺激は拒まれて、視界という名の気温だけがほんの僅か広がっていく。それ以上を許容できないのだと町の方が視線で訴えるのだから、目を合わせてはいけない。知らない誰かと目を合わせ続けるは狂気か無礼か、少なくともまともの振りをしていたければ目を逸らしなよ。そしたら向こうだってこちらから目を逸らすだろう。それが礼儀だ。一瞬の挨拶にも満たない儀式を以て私達は共存に同意する。互いがどれだけ病んでいても他人の振り、いなくなったらそうかと呟くが和を以て貴き体となる。人が礼儀を保てなくなるのはきっと余裕がない時でもなくて、多分、運命を感じた時だ。
「分かりません」
「あはは、いいね、そういうスタンス、嫌いじゃないよ。でもそっか、適当なところ入ろうかなと思ってたんだけど、なんかめんどくさくなっちゃったから私の車でいい? 君とは二人きりで話したい気がしてきたし。あ、名前言ってなかったね、夏帆ね、私、夏に帆を張るで夏帆。よろしく、戸高玲奈さん。勝手に名前呼んでごめんね」