第四項「海」
堤防を乗り越えるための、くすんだ人工的な緑色の階段の影になっている場所に彼女はいた。正午過ぎなのに一人くらいなら入って余裕があるくらいの影だった。私はそれを階段の上から見下ろして、日差しと波の音に目を細めて、なんて声をかけようかと考えていたら、不意に彼女が頭を上げて目が合った。私の影が落ちたのに気付いたのかもしれない。佐倉が言っていた伊藤さん。小説家の妹の。一瞬遅れて彼女の足元の花がコンクリートの割れ目から生えてるのが見えた。菫。彼女の手元にあったのは、海を見ながら描いているのに、海の絵ではなくて人のスケッチだった。
「なにか?」
「あー……、えっと」
私が口籠っていると伊藤さんは私を無視するように目線を手元のスケッチブックに戻した。
「私は伊藤由、あなたは?」
目の代わりに口だけがこっちに向けられたみたいだった。絵を描いてるのだから目の方が大事なのかもしれない。
「戸高」
「下の名前は?」
「秘密」
「どうして? 私は教えたのに」
「だって教えたら描かれそうだから」
「……言いたいことは分かるけど、変な人」
私は相変わらず目を細めながら言葉を返していた。私は声を張り上げているけど、伊藤さんは普通に話しているから、時々波の音に紛れて聞こえなかった。
「美術部って昼休みに学校出て良いの? ここ学校の敷地内?」
「知らないけど、なんも言われてないからいいんじゃない。前に堤防まで出て行ってる生徒いたから真似しただけ。あと私、美術部じゃないよ」
「なんで? 美術部入らないの? あんまり活発じゃない?」
「描いた絵見られなくないから」
「どうして、上手なのに」
「上手だから。私の絵を見るとやめちゃう人がいるの」
言いたいことは分かるけど、変な人だって言い返しそうになって止めた。
「私見ちゃった」
「戸高さんは描いてないでしょ」
「これから描くかも」
「じゃあ描いてよ。私、描いてない人と話すのかったるくて嫌い」
無い本題を探しながら海を見ていたら、白波が海に飲まれるのが見えて、なんで私がそんなことをしないといけないんだろうって気になってしまった。別に本題なんて無くたっていいだろうに。
「もしかして迷惑?」
「そういうこと聞かれるのは迷惑かな。……佐倉さんとよく一緒に居る人でしょ」
迷いが含んだ口調で伊藤さんが少し私を見上げて言った。
「知ってるの?」
「うん、佐倉さんは。同じ中学だったから。名前だけだけど、向こうも私のこと知らないんじゃない、名前ぐらいしか」
「佐倉は伊藤さんのこと話してたよ」
「へえ。ま、小学校も一緒だったし、そっか。なんか言ってた?」
「絵が上手って」
「よく言われる」
「あとお姉さんが小説家って」
「え、ああ、佐倉さんそんなことも知ってるんだ。あんまりそういうこと話すイメージ無かったな」
「そんなイメージ?」
「佐倉さんのこと知らないだけだけど、そういう人の噂みたいなの興味無いと思ってた」
話したこと無いのにそういうのが分かるのは、結局話さないだけだったんだろうな。
「かもね。でも佐倉は伊藤さんのこと羨ましいんだよ」
「私が? なんで」
「だって佐倉は絵描けないから」
「描いてないだけでしょ。ちゃんとやれば誰でも描けるよ」
まるで傲慢だって誹りを待っているかのようだった。私に嫌われたいのだ、あるいは佐倉にも。
「でも佐倉には描く理由が無いんだよ」
「そんなの私だって特別無いよ。私からしたら佐倉さんのほうがよっぽど羨ましいけど。人付き合いうまくて」
「伊藤さんは描くの楽しいの?」
つまらない質問だなと思いながら言ってて思った。伊藤さんもつまらなそうに答えた。
「楽しいかな、よく分かんない。絵のことだけ考えてられるときは楽しいけど、楽しいから描いてるってわけでもないかな。なんのためにって考えるとしんどい。ねえ佐倉さんにも絵描かせてみてよ、理由なんて描いてから考えても遅くないって」
「あ、優しいんだ」
「優しいって言うか、描かないと分かんないことってあると思うから。描き終わった絵見てたら後から理由があったかなって思うことだってあるよ」
「絵が伊藤さんに優しいから伊藤さんは絵が上手いんだね」
あ、口が滑ったのが言いながら分かった。最低。死にたい。
「自分が描かれるのは嫌がるくせに、自分は私のことを言葉にするんだ」
なんでもないような返事だったら帰ろうと思ってたけど、伊藤さんはむしろ不快感を露わにして私を見た。
「……ごめん」
「いや、まあ……、いいよ、いやだけど。私も似たようなことしたことあるし」
潮の匂いを思い出させるように波の音が耳の中に鳴った。海の情景が少し私達の気分を飲み込んで、軽くなる。
「そう」
「代わりに私にも一つ教えて」
「いいよ」
「下の名前」
「玲奈」
「……まあ私、人の名前覚えるの苦手なんだけど」
それから伊藤さんは初めて完全にスケッチブックから手を放して私を見た。
「先に悪いことしたのは戸高さんだから、もう一個いいでしょ。戸高さんは、私の絵みたいに、その、そう戸高さんが言うところの、自分に優しくしてくれるものってなにかある?」
「どうしてそんなことが気になるの?」
「言いたくない? ただの興味。私だって時々思うから、絵が無かったなら私はどうしていたんだろうって」
「そっか、うん、優しい、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。そのどっちもかもしれないし、そのどっちでもないかもしれない。そういう言葉で表現したくない。ごめんなさい」
「ううん、そう……、分かるから別にいい」