第三項「踊り場」
そう、それで、海が見える高校だと聞いて、この高校を選んだのだった。教室から少し窓の外に目を向けるだけで海が見えた。少しでも忘れないようにと思って選んだ、なのに、見えすぎかもしれない。見えすぎだ。未だ春が新しい、よそよそしく煤けた教室も相まって視界が通り過ぎる。道路を一本挟んだらすぐ堤防が在って、だから学校に入ってくるときはその高さで半分くらいはよく見えないのだ。上階の教室からはこんなに見えるのに、堤防なんて無くなってしまえばいい。それで教室の窓はなにかで塞いで、逆になればいい。通り掛けに見えるくらいで良かったのに、授業中でも目のやり場に困ると外を見てしまって、眺めていると忘れないどころか遠い青に滲んで流れて行ってしまうような。ああいや、それもいいのかもしれない。最近じゃ私の記憶も妄想に近い。ただもう一度言葉を吐きたい。沙也に届く声を、もう一度。何も返ってこなくてもいい。どこにも帰れなくなってもいい。喉はもうかれてしまった。血を流してみたい、海に一滴、それが絶叫に代えられるなら、海に流してみたい。日に焼かれる海は自分は今にも干からびるなんて虚言癖があるみたいで、まともに取り合う方が馬鹿みたい。私の方がまだまともに揺蕩うと思うよ、思わない?
数日後は雨だった。雨音が鳴り続ける人も閑散とした放課後、蛍光灯に照らされた教室は晴れの日よりもやたら明るく、湿った空気も相まって、泣いてる誰かを励ますよう強いられている気分だった。
「昔はさ、犬連れてる人嫌いだったよ。そんな首輪なんかつけてさ、いくら犬にそういう習性があったとしてもさ、首輪つけて引っ張るなんてやるもんじゃないと思ってた。そんな共存の仕方するくらいなら犬か人間が滅びた方がいいんじゃないかなって。なんだけど、いつだったかも覚えてないけど早朝にさ、おじいちゃんが犬連れて歩いてたんだよね。歩くのが精一杯って感じのおじいちゃん、その後をぴったり犬が付いていって、なんだろ、どっちが主人か分からない感じだった。あればかりは首輪なんて着いてたところで対等かなと思ったね。なんでだろう、首輪なんて大したもんじゃなかったんだなって。犬も人間も生きてるんだなって、当たり前のこと思った。私は自分が恥ずかしくなってさ。自分が勘違いしてたことじゃなくて、その時の自分の立つ瀬の無さにさ、今すぐその辺の雑草でも掴んで食べたら許されるのかなとか、わけわかんないこと考えてたよ。分かる?」
「佐倉は真面目過ぎるんだよ」
「玲奈はさ、なんかいいよね。ずっと罪人みたいな顔してて、ちゃんと許されてるって感じ。でも変だよね、罪なんて心の中に浮かぶものを関係のない肉体的に変換して、それで釣り合ったような気持ちになるなんて考えるのはさ。心が勝手に咎めて、なのに体に罰を受けさせようとするのは不公平だよ。心なんて嫌いだからさ、嫌いだから」
「それはきっと心も傷ついたんじゃない」
「もっと質悪いじゃん、それ。傷ついたなら一人で傷ついてればいいよ。なんで体も道連れにしようとするのかな、質悪いよ」
最近の佐倉は私と二人だけだとずっと機嫌が悪かった。多分私じゃなくてもいいんだろうと思ったけど、生憎彼女を無視したり、代わりを押し付けたりするほど器用じゃなかった。
「じゃあ私も道連れにしていいよ。佐倉が傷ついた分だけ私の体を傷つけても」
気付いた時にはそう言っていた。今更。なんでもっとまともなことが言えないんだろう。遊んでばかりいたからかもしれない。馬鹿だから。
「なんで」
「佐倉、真面目だから、私のことまで傷つけていいか考えるでしょ。それで私を傷つけてでも自分を傷つけなきゃいけないんだったら、私も一緒に傷つくから」
「私が死にたいって言ったら、玲奈も死ぬの?」
「いいよ」
「そう、そう。じゃあ死のうよ。今度、また話すから。信じるから、私」
「うん」
「信じるよ、私真面目だから」
花が咲くのを見た気分だった。多分私が咲かせた花だったと思う。それは良かったと思う。
「信じるって自分で言っててさ、思ったけど。多分後から信じることが出来たと言ったときにさ、信じるしかなかったとも言えるし、疑わずに済んだと言うことも出来るし、結局自分が何をしてたのかなんて全く分からないんだろうね。だから一人は嫌なんだと思う。二人だったらきっとそうだったんだって、だって人が人を信じるのは不思議なことじゃないからさ、疑ってばかりじゃ生きることも死ぬことも出来ないからさ」