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血より青くて春より遠い  作者: 志村花畑
第一節「言語」
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第一項「滞留」

 春と不眠が無音に耐えられず裏返って手を叩いた。本当は耳鳴りがしていた。知らない誰かに聞こえたらどうしようと思わなくもなかった。暇を持て余して遊んでるって思われる。やだな。不経済に神経が委縮して手の甲がわずかに膨らむ、その分だけ薄く滑らかな空気が手の平に含んで通った音がした。ああ、やっぱり遊びだった。窓から差す光に指先の血が透けていた。こんな時だけ動物だった。人間になにか決まった鳴き声があったならよかったのに。次に聞こえてくるのが部屋の軋みであれ、自分の衣擦れであれ、多分笑われるから、その前にもう一度叩いた。なるべく両の手が平らにぶつかるようにした。表面の皮が弾かれるすこし湿った音と、骨に押し出された肉が低く震える音の二つがあった。それでどんなに叩いても私の満足するような音は出ないだろうというのが分かってしまってやめた。馬鹿。


 気付くと肺の空気が薄くて、それでなにかやり終えたような気になった。最初が悪かったと思う。だから言い訳が嘘くさい。衣擦れとベッドの軋みに目をしかめながら腰を下ろす。寂しい。何かに触れたい。できることなら人がいいかもしれない。でも一人だ。数分前に中身を入れてベッドに置いてあった通学鞄の中をまさぐった。底にある一本のカッターナイフを取り出した。口元が持て余して、唇を噛みしめる代わりに少し刃を出した。指を刃に押し付けると冷たい。気分が悪い。私は春が嫌いなのかもしれないと思った。気温が上がり始めたというのにわざわざ冷たいものに触れるのは多分風情が無いから。夏なら涼を求めて、秋なら冬を予感して、冬なら寒さが身に刺すかもしれない。でも春に冷たいものを触るのは馬鹿みたいだ。一人無力に、入れようとしても入らない力に笑いそうになりながら刃先を撫でる。一度も使ってはいないのにもう新品とは言えないそれを、持つ資格が私にはあるだろうか。見上げた窓が問えば私に逃げ道が無くなるのは分かり切っていたことなのに、それに映る自分の顔を何度も眺める。表情が無いのは一人だからだろうか、腐っているからだろうか。人を殺す人間の顔じゃない、でも、なら、何をする人間の顔だろう。まだ新品の匂いがするかばんの底にカッターナイフをしまい切り、その上から布を被せて、ほんとは今日いらない教科書で蓋をする。目で見えなくなると忘れそうで怖いから、必要以上に鞄を重くする。重い荷物は悪くないね。そう春が言う、窓が黙る。笑う。馬鹿らしくなる。


 立ち上がり鞄を持ち上げる。軽くはない、人を殺さない足は空気すら慮るように力なく、なぜ私は歩けるのだろう、意味もなく高揚する。部屋を出て鞄の重さに振り回されながら家の階段をゆっくり降りると、正面の玄関に革靴が揃い整っている。母がリビングでテレビを見ながら朝食をとっていた、私が数十分前に口にしたのとは違う、昨晩の残りだった。いってきますと声をかけるといってらっしゃいと返事が来た。惨めだった。けれど伸ばす指先の力がどんなに弱くとも、私はその手で靴を掴み履き家を出る。踵が鳴り、視界にまぶたの血が滲む。春が来たのだ。


 十数分歩く間、朝の太陽が作る影ばかり見ていた。高校に通い始めて利用するようになった電車。線路沿いの道をあるくと轟音を立てて通り過ぎていく。この時間、この辺りを歩くならみんな目的地は駅だから、太陽を背に分け合って担いでいるような気分になる。傲慢ではないか、不安になる。一度くらい振り返り、ああ眩しいと思うのが筋ではないか。


 反して背中がうすら寒い、知らない人間に囲まれて歩道を歩く、巨大なノイズが空気を重くするのかもしれない。どこにも行けない、それを免罪符として立ち止まることを許されるから、私達は皆罪人の顔をしてどこかに向かう、罪人同士慰め合っている。罰せられなんてしないよ、しやしない。今にも誰かうたい出すのではないだろうか、そんな気さえするほどの沈黙を遠目の鴉が興味無さげにひとつ鳴いた。


 勝手に乗って勝手に降りた電車を見送りもせず高校へ向かう。長く暗いトンネルを抜けたかのように笑い合う生徒たちが周囲に増えるほどに、鞄のカッターナイフが弱弱しく喚く。もう自分なんか捨ててしまえ、変な踊りをしながら宙を舞って、乾いた音を立てて地面に落ちるから、それで満足だろう。私は言う、その時は私も一緒だ。できもしない約束をなんて野暮を言うほどの短い付き合いでもない。黙るカッターナイフに笑う。あなた今にも死にそう、私はまだだよ。それでようやく弱音も吐き切ったのか、鞄の重しに戻っていく。目の前の舗装され日に照った歩道がやや短く、色は鮮やかになる。目が慣れてきた、もう遠慮なく踏みつける。踊れる足場だ。そうでしょ。


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