第二項「下がる解像度」
寒い日だったと思う。天気も悪くて、足元を見て歩かないと落ち着かないような心細さがあったのを覚えている。私はその日、親に連れられて死期の近い祖母の見舞いに病院を訪れていた。病院の薬と動物の入り混じったような匂いに吐き気を催しながら、どうにか辿り着いた祖母の病室はもはや暑いくらい暖房が利いていて、照明もやけに目に刺さった。そこでなんの話をしたかはよく覚えていない、いつも祖母とは大体同じような差し障りの無い話をしていたような気がするし、その時もそうだった。嫌われていたわけではないと思うけど、妙に他人行儀だった。だからその一言だけ脳にこびりついたのだろうか。
「あなたは自信を持ちなさい」
祖母はその言葉を何度も繰り返した。言葉だけならそんなに変ではなかったと思うけれど、有無を言わさない響きがあった。私は叱られているような気持ちになって、ただ分かった、分かったと頷き続けることしかできず、なぜ祖母がそんな風にそんなことを言ったのかはついぞ分からぬまま祖母は死んだ。
沙也と出会ったのは中学の図書館だった。
一年生の時はクラスが違ったから顔も名前も知らない他人だったけれど、たまたま隣で沙也が書架の高いところにある本を取ろうとした瞬間に、その手首にある何重もの傷が見えた。私の視線に沙也もすぐに気が付いて手首を隠したが、その様子に私はなぜか無性に腹が立って、なぜ隠すのか、隠すぐらいなら何故そんなことをするのかと尋ねてしまった。
「だってダメでしょ、こういうの」
沙也がそう答えた瞬間、自分でも訳が分からないうちに手持ちの鞄から鋏を取り出して自分の手首を切った。カッターのようには切れなかったから皮を挟んで切った。それを沙也に見せてこれの一体何がダメなのかとさらに問い詰めた。沙也は私の剣幕に唖然とした様子で何も答えなかったから、私はこんなもの何もダメじゃないと言って、制服の袖をまくって図書館を出て校内を歩き回ろうとした。そんな私を沙也は力づくで引き留めた。私もすぐに頭が冷えて足を止めたけれど、それでも何がやましいのだという気持ちが収まらず、沙也を睨んだ時に、なんとなく祖母の気持ちを理解できたような気がした。祖母もこんなことに自信を持てと言ったつもりは無かっただろうし、もちろん認めはしないだろうけど、それでもこれには自信をもって良くて、これはダメだなんて言うつもりも無かっただろう、だから私も祖母の言葉が忘れられなかった。何がやましいのだ。
それから私と沙也はよく話すようになった。
「玲奈は頭おかしいよね」
出会って一か月後の下校時にはそんなことを言われた。
「普通だよ」
「そう思いたい?」
「どっちでもいいかな」
沙也は呆れた感じで笑っていたけれど、本当にどっちでもよさそうなのは私より沙也の方だったと思う。その時沙也は夕日を眺めて、涙を流していたから。
「夕日がきれいだから、泣いてるの」
私がなぜ泣いているのか聞く前に沙也は言った。
「毎日見てるのに?」
「毎日泣きそうだよ」
ここまで繊細だと、生きるのも辛いのだろうと納得して、一緒に夕日を眺めていたけれど、私はやはり泣くような気はしなくて、それどころか何となく沙也を殺してしまいたいような気がしていた。それから不意に祖母の病室の匂いを思い出した。私は沙也の近くにいる間だけあそこに行かずに済む、多分そういうことだと思った。やましいことなんて何もない。今なら祖母と面と向かって話せる、そんな気がした。