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血より青くて春より遠い  作者: 志村花畑
第二節「遠流」
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第四項「血より青い」

「例えば、たとえば、世界で自分とだれかもう一人の二人きりになったとする。言葉は通じるとして、そしたら頑張って生きようと言うのが容易いんじゃないかな。老い先向こう後ろ向きなことを言うよりも前向きなことを言っておいた方が後々有利に働くだろうと、それは自分が死んだ後を想像することは出来ないから、想像できる未来について語る、その方が楽だと思うんだよ。変なことは言ってないと思うんだ、思うんだけど、そう、どうしても自分はどこかで間違っているかもしれないと考え、それは常に不安で、そして時折目の前に現実として横たわる。そういう時大抵私は安堵するんだ。ああよかった、私は間違えていた。自分になんの間違いも無いなんて悪魔の証明をする羽目にならなくて済んだ、それにそれまでの道程もまたそれを知るために必要なもので、無駄などではなかった。そう、思う、けど、沙也の遺体を前にして、私が安堵するはずも無かったんだ。なんでそんな簡単なことも想像できなかったんだろう。私は沙也が死んだなら安堵して、だから対偶的に不安でさえいれば沙也は生きているだろうなどと、訳の分からない思い込み、妄想とすら呼べない無意識にあったんだ。悪魔が確かにいるうちは安堵できるから、悪魔を心に住まわせて、その口で私は、沙也に、だからなにか伝わるはずも無かったんだ、当然だった。私は沙也のことを理解できていなかったんじゃなくて、自分が死んであげられないから沙也に生きていて欲しかっただけなのかもしれない」


 礼儀とも違う、一度崩れた砂の城を立て直すためにまず土台を固める必要がある。砂は既にあるから集める必要は無いけれど、さっきまで城を形どっていた分、自然でなく欠片になったものたちを一度崩す、徒労に見える作業が必要になる。虚構を崩す、虚構が許されない唯一の時間。虚構が全て真実になってしまう時間。だから真実のみを話さなければならない。別の所で砂の城を作り始めるわけにはいかない。嘘が本当になるのを許せなくて私は黙っているからこそ、今何も言わなければ何も無かったことになってしまう、私、そして沙也、何も無かったなんてそんなことは絶対に無かった。


「私の、私の話をしてもいいですか」


「ああ、聞かせて欲しいな」


 嘘とは違う、虚構は足先と同じ方向に向かうものだから、歩きたいように歩いても、どうしようもなく混じる。足は浮かしてはならない。足元を見てはならない。どっちが先かは知らない。


「私は今、この車が今に制御が利かなくなって、どこか壁にでもぶつかってひしゃげた鉄の塊になって、その中で押しつぶされたいと思っています」


車窓に透ける夕闇を漂う光明は飛行機かと思えば星だった。飛行機はどこか、今は飛んでいないのか。いつか飛行機に乗ろう、夜に飛ぶ飛行機に。


「私だって死にたい。死にたくて死にたくてたまらない。なにに、そんなに気を遣って死なないのか。沙也が羨ましいとは思いません、私は私として死にたい。多分私と沙也が違うのは自殺したいか、誰かに殺されたいかということだと思います。沙也の手は自分を殺すに足る手だった。私の手は自分じゃない誰かを殺すための手です。手を使うのが下手で、自分の首を絞める力の加減が上手くいかないんです。めちゃくちゃにするか表面を傷つけるしかできない。だから誰かに殺されて被害者の顔をしたいんです。私にはそれができるんです。傷つけられた人間の顔が。沙也はできませんでした。夏帆さんが傷つけたわけじゃない。沙也が傷ついていたなら、それは沙也自身の手で傷ついていたんです」


 声を出さずに夏帆さんがあいまいに笑った。ああこの人沙也の姉だ。


「沙也は」


 声がかすれた。言葉に喉が耐えきれずに。


「沙也は少しずつ切り離していたんです。煮えたぎる血と張りつめた肉の中にそれが、何かそれは、涼しげで、そう、涼し気で、永遠で静かで色が、色が多分淡く、淡く、青い、血が、滑るでしょう、その滑った後、肌理に残る血くらいの青さです。血は赤いです、例えばの話で、でもそれを少し青くしたような、薄さというか、眼球の後ろで理解できる程度の、色の話じゃないんですよ、青いとか赤いとかそういう話なんです。すみません、言葉が下手なんです、説明も難しくて、それを手で掬うでしょう、そしたらそれをずっと手の平で転がすんです。天気は曇りです。風は吹いているんですけど、カーテンとかに遮られていて、だから風は感じなくて、手のひらまで吹いてくることは心配しなくていいんです。でも目は離しちゃ駄目です。遠くを感じるのは呼吸だけです。浅く吸って、頭の薄いところで多分この息は外までつながっているだろうなって思うくらいのことで、吐くときはそれが単に横隔膜の運動であるように、単なる弛緩であるべきです。目が手の動きに同期して、転がってるところだけが見えるでしょう、不意に思うんです、これを握りつぶして全部忘れてしまおうかって、すると体が重くなってくる、苦しい、だから多分それはそのうち終わってしまう。でもその重さが逆に気持ちよくなってきて、もう少し揺れていたくなる。目の筋肉も腕の筋肉も耐えかねてくる。耐えかねて指の隙間からそれが零れて、床に落ちます。音はしません、ゆっくりと腰を落として、衣擦れがします、その振動が雫に伝わって震える、それがまた面白くて、あえて服が擦れるように蹲って、眼をそれに浸します。ゆっくり瞼を閉じて、その隙間に入ったそれが涼しくて、ちょっと笑う。でもすぐに体温が伝わってしまうから終わりです。それからこそばゆさを鼻の奥で抑えつつ目を開いて、視界が、少し青いんです、青くて、青くて、ああ、よかったなって思って、また笑って、でもちょっとだけ早く目を洗いたいなって思って、また目を閉じると血が透けて今度は赤い、楽しいです。楽しいけど、そんな風に楽しい時に、私達はどんな顔をしたらいいか分からないんですよ。鏡なんて怖くて見れない。自分の声なんて聞きたくない。なんて言ったら、楽しいんですけど、楽しいって一人で呟いたらダメです、近くに、横に楽しいねって一緒に言ってくれる人が居ないと、ダメだから、沙也は私に、別に私じゃなくても良かった、でも多分そういうのが分かるの私だけだったから、でも私はなんでか、沙也に楽しいって言い返してあげられなかった。私は全部台無しにしたかったんです。沙也の目に指を突っ込んで、残らず拭って、そういうことがしたかった。そこに嘘をつくなら横に居たところで意味なんて無くて、でもだから沙也はなんて言ったらいいか分からなくて、一人に、私も実際になにかしたわけじゃなくて、やましくはなかった。ただ、そういうこともあるだろうと思ったんです。生きていたら、したいと思っても実際にはしないこともあるだろうなって、なんとなく思って、つまり、私達は抱き合わなくてもいいだろうなって、沙也がどう思ってたかは分からないです。いや、多分、寂しかったと思います。だって最後は私の前から消えた。それで一人で死んだ。きっと寂しかった。私はいまだにどうも、自分が間違ったことをした気はしてないんです。太陽が差してないから、誰も私を、私達を責めません」


 指先が届いたのにすり抜けた。上腕がしびれて前腕が肘に垂れ下がる。舌がせぐり上げ、視界が遠のく。ああ、息をしていなかった。そう気づいた時に何かを忘れた。


「太陽が差すなら、私達も自分の間違いに気づくだろうに、差さないから」


 忘れたものから言葉になっていく。真理はそういう風にしか見えない。私のじゃない言葉が喉に絡みついて早く死ねとうるさい。馬鹿の言葉は馬鹿にしか吐けないのに、私は自分が馬鹿なことに今更気づいた。


「そう、君は沙也のことを想ってくれてたんだね」


「分からないです。私も自分が何をしてるのか、してたのか。お願いします、今すぐ私を罵ってください。もう嫌だ、馬鹿なのはもう嫌だ」


透明に痴れた環状線が浮き沈みを繰り返しそれはいつ霧散するとも知れず、世にはそれを信ずるものと信ぜ得ないものがいることなのだろう。陽気が差せば幸福にも見えて、雨を凌ぐにはそれを遮るものを設置することになるから、あるいはそれらは庇い合いもするだろう、見捨て合いもするだろう。私は沙也の死を未だ庇いたいのだ。手向けるための花なんて育ててこなかった。骨は遠くに投げ捨てよう。それで、私と沙也二人きりで、この身果てようとも、その覚悟あるを以て、手は紡ぐを以て、足は血に浸けるを以て、行けるとこまで行こうじゃないか、その先に何もないと知って笑いたい。肉体の躍動の如何に惨めかをそればかりは沙也だって笑うだろう。


「馬鹿なんかじゃないよ。そんなのは馬鹿なんかじゃない」


「だって、じゃあ、私はどうしたらよかったのか、何も分からなくて、だめでしょう、そんなのは。でも私はやましくなんてないんです。悩んでも病んでもいない、そんな」


「だめじゃないよ。君はだめじゃない。それの何がいけないんだ。何もやましいことなんてない。大丈夫だよ……。ああ、ごめん、泣かせるつもりは無かったんだ。そう、そう、君に会いに来たのは、きっと誰かが背負ってくれてて、まだ背負ってるんじゃないかと思ったんだ。それだけなんだよ。だからそう、思い出した、自分が理屈っぽい人間になった理由さ、小学生の時に水泳の授業で教師が言ったんだ。息は吐かなきゃ吸えないって。真面目な顔で。おかしい話だと思ったんだ、息を吸うために息を吐くなんて、狐でももっとマシに化かすよ、思わない?」

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