第三項「文化」
「例えばここから一・二メートル先までなるべく正確に歩いてくれと言われると困難に思えるだろうね。だからヒントとして一メートルまでの間なら一つだけ長さを測って良いとしよう。君ならどこを測るかな、一・二メートルに一番近い一メートルいっぱいまで測るのは少数派じゃないかな、少なくとも私なら〇・六メートルを測る。一・二倍を考えるよりも二倍を考える方が容易だと言うのが人情、人情だと思うよ。数字一つとっても一から二というのはある程度人にとって直感的なんだ。けど二から三となるとこれは結構おかしいことだ。まるで数を順に数えるのは人として当然の技能のように思えるけれど二から三というのはつまり一・五倍だからね、三から四となるともう割りきることすらままならない。にもかかわらず百、千、一万と言う数字を私達は当然のように数える。あるいは一を足すだけと思えるかもしれないけれど、それを本当に百回も千回も一万回も繰り返すものかな。私達は数字というものを知っている。まるで四や五という数がこの世に最初から存在してたかのように考える」
「電子書籍が普及するときに、紙の本に比べて読書に関する能力が低下するのではないかという議論があったらしいよ。紙のページをめくったり、本の厚さや重さを感じたり、意図しないページを開いてしまったり。そういう経験もまた読む能力への影響があるのではないかって。実際紙の方が内容への理解度や記憶が良いという研究もあった。でもかつて似たような議論が文字に関してさえもあった。つまり、それまで口伝や実演によって継承されてきた技術を文字にすることによって、人の習熟度が下がるのではないかと。実際そういうことはあると思うよ。どっちが速いかとかより強く定着するかとかは、まあやりようはいくらでもあるだろうけど、それ以前に経験としてそれらは全く別物だからね。文明が高度になるにつれ、情報化される物事は増えていく。それらは素の人間の実感からますます離れていく。人間と知性の切り離しは文字や言葉が発明された時点で既に始まっている、知ったら知った分だけ自分の体から知性が切り離されていく」
「何かを知ると人の体は反作用的に何かを知らなくなる、知ると思えば知らない故の知ろうという無意識の働きがどうしても体から失われてしまう。逆に知らなければこれまた反作用的に体は知ろうとする。五感に限らず、はて、知的であるためには無知でいるべきか。私の答えはノー。まあ私も学生の頃はなるべく知的であるべきとは思っていたよ。知とは人の肉体に宿るべきではないか。でも夜中暗い部屋で人に読ませる気の無い難解で重苦しい本を頭をかきむしりながら読んで、少しでも自分の身の一部にしようと唸っているときに、不意に鏡に映る衰弱した自分の顔を見た時ね、自分に知性があるようになんてまるで思えない、知性を前に怯える獣だと、そういう気がしてきた。得心が行った、私のすべきことは自ら知性を纏うではなく、知性を前に情けなく恥を晒すことだ。あるいは人が知性を司る振りをせねばならぬ時もあるだろうけど、それは一人、部屋の中ですることじゃないなとね。今じゃ人前ですら恥を晒すことに躊躇いもないけれど。そんな私から言わせれば君や沙也は至極知的だ。いや批判するわけじゃない。むしろ君たちのような子供たちがいるから、私も惨めに知を這いつくばる甲斐があると思える。だから君たちは好き放題悩んでよ、いつか答えは出るから好き放題にさ」
「とはいえ知ったものを知らなかったことにするのは案外難しくないんだよ。コインを一枚投げたとする。そして私達はそれが表か裏かを知る。しかしコインを何度も繰り返し投げるとその確率がおよそ半分であることが分かる。すると私達はこう思う、コインが表か裏かなんてものはどうでもよいことだったし、一万回投げたときの九千三百十五回目の結果なんて意味がない。そして忘れる、記録を残しておいたところで誰も見返しはしないだろう」
「例えば私達は電車を待っているとする。大体時刻表の時間通りに来るだろうというのは私も君も問題なく了解できることだろう。でもまあ未来なんて不確かだから何が起こるかなんて分からない。どんなに鉄道会社が丹念に整備をしたところで、人身事故が起こるかもしれないし、何かしら災害が起こるかもしれない。あくまで時間通りに来る確率が高いというだけの話で、実際に来るかなんて知らない。なのにまるで私達は未来を知っているかのように振る舞う。振る舞わずにはいられない。十秒後隕石が落ちてきて自分は死ぬんじゃないだろうかなどとは、人生で何度かそういう妄想をするにしても、毎秒考えたりはしない。疑わず、そしてその通りになるのであれば、知っていたのと何も変わらない。器用なものだと思う」
「適当に円を描いてその一部を虫眼鏡とかルーペとか、とにかく拡大して見たなら、それは直線に見える。変な話じゃないよね。次に線を引こう。どこまでも長く長く、少なくともその場から見える限りはずっとだよ。前を見ても後ろを見てもどこまでも続く線、円じゃない線だ。例えばアメリカとかに果てしなく長い直線の道路があるよね、そういうものを想像して。そうしたら不安にならないかな、もしかしたらこの直線は円の一部じゃないかって。さっき円を拡大したら直線に見えたように、逆に線を縮小して見たなら実は円になっているんじゃないか。どこかで途切れる線のはずだが、円ではないとも言い切れない。なんということか、人間は円と線を見分けられない。こんな言い方をすると科学者がまた大袈裟に語って悦に入っていると思われるかもしれない、つまり誰かがこう言う、大体まず端の見えない線なんて卑怯だ、ほらこうして直径十センチの円の横に長さ十センチの直線を引いた、円の方は円だと分かるし、線の方は途切れて円を描いていないことがはっきり分かるだろう、そう言われたら私は楽しくなってさらに言う。じゃあその直線がほんの一部でも曲がっていない保証はどこにあるのか。君が適当に引いたせいでどこか歪んでいるかもしれないし、もしそうなら円の一部として見なすこともできるのではないか。円の方はどうだ、少しも途切れていない保証はあるのか、顕微鏡で見たら途切れているかもしれない。何を以てそれを円と言い張るのだ、円のように見える書き損ねの直線かもしれない。ふふ、きっともう話を聞いて貰えなくなるだろうね。頭でっかちがやたらと話をややこしくしやがってってね。別に相手を責めたい訳でも自分の考えを押し付けたいわけでもないんだよ、ただ相手が苦し紛れでも何か理屈っぽいことを言ってそれが万に一つでも納得できることかもしれないと期待してしまうんだ。それに、今のやり取り、いや、私の一人語りだけど、まあとにかく一連の流れでまた一つ人間の性質が見てとれる。さっき私は円が一つに繋がっている保証はどこにあるのかなどと屁理屈を述べた訳だけど、私だって別に紙に書いた円に一々そんな保証を求めたい訳じゃない。考え方の一つに過ぎないのであって、別にそれが円であると言うことを認めること自体は生活上やぶさかではない。つまり例え確認できない途切れがあったとしても、それは繋がっていると認めることが出来るということなんだ。それがどうしたって思うかもしれないけど、でも結構不思議というか、変な話だとは思わない?」
「私は今少し右を見ながら運転しつつ喋っている。当然だけど私から左に居る君は見えていない。この車の駆動音や振動によって君が左に居るということを、視覚以外でも認識することは難しい。だからもしかしたら君は左に居ないかもしれない。しかし、まぁ私は君が左に居るだろうと思って話す、そして君から返事が返ってくることを一々疑問に思ったりはしない。哲学の話をしたいわけじゃない、単純に君が走っている車から音無く飛び降りる様な人間ではないだろうと思うだけのことだよ。でも言ってしまえば、今日初めて会ったばかりの人間なんだから、実際は次に左を向いたらいなくなっていてもおかしいわけじゃない」
「一度死んだ人間だけが自らを神であると証明できるのなら、一度も死んでいない人間を神であるとも、神でないとも証明することはできない。人は皆自分が人であるのか神であるのかを知らずに死んでいく。目の前の人間だってそう。それでも知りたい。科学によって人間が真に得たものは自らが模造品ではないという思想だよ。人間は他を定義することによってその実、定義を行う主体としての自己というものを無意識に確立する」
「曲がりなりにも私は科学者だから、自分で理論を考え、あるいは数式を作る。仮定を決め、実験を行いその記録をまとめる。先人の威を借り、その隙間にエゴを詰めて論文を書く。発表するときには当然であるような顔をしなければならないが内心では冷や汗が止まらない。何度実験しても同じ結果が出るのだからきっとこれは正しいのだと思う心の反対側で、もし、もう一度実験したなら全く異なる結果が出た時にはどうしようと考える」
「でもさ、科学って結構すごいよ? なにか分かんなかったり困りごとがあったりしたとして、私はそれをどうにかして解決したいって思うわけ。頭でも考えるし、手も動かす。色んな方法を試したつもりが本質的にはずっと同じことをしてたと気づく、でも次はちゃんと他の方法を探せるようになる。新しいものも古いものも、自分のものも他人のものも、恥も外聞もなく手を付けては捨て、手を付けては捨て、増えるのは浅い知識と何もできなかったという結果だけ。だけど、だけどね、それがさ、見事に全部同じ理由で駄目になるんだよ。こればかりは実際にやった人間にしか分からないと思うな。真理ってそうやって見えるんだよ。そういう風にしか見えない。本当にさ。私は今までの全ての知識が真実だっていう何かしらの確証が得られたんだったら爆笑するよ。本気で。悔しすぎてさ。でももう、私の負けでいいんだよ。傍から見たら馬鹿かもしれないけどね、笑いたきゃ笑えばいい。私だって笑いたいんだ。でも一ミリも笑えない。当然のような顔をして澄ましてる真理や世界の顔をほんの少しでも歪ませて、なんなら思いっきり蹴っ飛ばしてからじゃないと笑えない」
「現実とは幻想の、その最たるものの名だよ」