1-4.夏の約束①
3連休初日の金曜日。夏の暑い日差しが降り注ぐ中、俺はお袋が運転する車に乗っている。
こんなところだったっけか?
助手席からの景色を眺めながら思う。
「七海ちゃん、もう両手でピアノ弾けるんだって。すごいわよね~」
運転席の母親が感心したように言う。
ああ、確かに転生前もそんな感じだったな。
俺の脳裏には、アップライトピアノを演奏する彼女の後ろ姿が、数少ない記憶の1つとして蘇っていた。
「明子ちゃん、隆ちゃん、いらっしゃ~い!」
目的地の家に着いて車から降りると、その家の住人である女性から歓迎を受ける。一見すると1人に見えるが、よく見るとその背後に小さな人影が見える。
「香苗ちゃんしばらく~!七海ちゃん、大きくなったねえ!」
お袋が女性の背後にいる少女を見ながらお決まりの文句を言う。
「隆ちゃんだって!すっかりお兄さんね!」
女性がしゃがみこんで俺に目線を合わせながら言うと、その背後から少女がこちらに近寄ってくる。しかし当の本人は足をもじもじさせて、こちらに目線を向けてくれない。
「ほら七海。隆ちゃんに挨拶して?」
「久しぶり、七海」
「……久しぶり、隆ちゃん」
俺が声をかけたのが嬉しかったのか、恥ずかしがりながらもかわいらしい笑顔を見せて答えてくれた。
彼女は春野七海。彼女の母親・香苗さんとお袋が高校時代からの友人で、赤ん坊の頃から付き合いがある同い年のガールフレンド。
ストレートの黒髪が特徴的な美人さんで、ピアノとバレエを特技としていた。キッズモデルとして雑誌に載ったこともあったらしい。
同い年としては最も付き合いが長かったが、互いの家が遠く、かつ母親の香苗さんが平日に仕事をしていたこともあり、なかなか母親同士の都合が合わず頻繁に遊ぶ間柄ではなかった。
それでも小学校低学年までは最低でも年に1回は会っていたが、俺の記憶が正しければ、小学校2年のときに俺の家で一緒に遊んだのを最後に本人同士の交流は途絶えてしまった。
実に20年ぶりの再会となる。
「じゃあおうちに入りましょう!隆ちゃんにピアノ聴いてもらわなくちゃ!」
意気揚々と玄関へ向かう香苗さんと七海に続いて、俺らも春野家にお邪魔するのだった。
「さあ七海、ここはおうちでお客さんは2人だけだけど、発表会だと思って弾いてみて!」
香苗さんの激励に七海が頷くと、ピアノの椅子の傍まで歩いていき、一旦こちらを向いてお辞儀をする。その後、椅子に座って深呼吸をすると、自身の小さな手を鍵盤の上にゆっくりと置いた。
♫♪~♫♪~♫♪~♫♪~♪♫~♪♫~
ゆっくりと動き出した指から奏でられるピアノの音。
ってこの曲は……
イントロが耳に入った途端、俺は一瞬目を見開いて驚く。その俺を尻目に、彼女は普段の練習成果を発揮していく。
転生前にも何度か彼女のピアノを聴いたことがあったが、曲目までは覚えていなかった。まさかこんな曲を弾いていたとは……
♫~♪~~♪~~♩
演奏が終わると、七海は椅子から降りて再びこちらを向き、お辞儀をする。するとお袋が大きく拍手をし始め、俺もつられて拍手をする。
「すごーい!プロのピアニストになれるわよ七海ちゃん!」
上擦った声がお袋の興奮の大きさを物語っている。それとは対照的に、香苗さんは七海を見ながら冷静に頷いていた。
「今の曲はなんていうの?聞いたことがある曲だから結構有名だと思うんだけど」
お袋が香苗さんを見ながら訊ねる。
「リストのラ・カンパネラだよね」
香苗さんが答える前に俺が確認する。
「そう!隆ちゃん知ってるの!?」
「テレビで聴いたことがある。確かすごく難しい曲だったはず」
「そうなの!?」
話をする香苗さんと俺を交互に見ながらお袋が言う。
音楽室の肖像画でもおなじみのフランツ・リストは、作曲家としてだけでなくピアニストとしても超一流で、ピアノの魔術師とも呼ばれた。ラ・カンパネラは彼の代表作であり、音数もさることながら大きい跳躍の数も多く、プロを目指す人の練習曲として位置づけられている。
「そう。七海が弾いてるのは初級者向けの編曲版なの。まだまだ完成度は足りないけど、今日の演奏は今までで一番出来が良かったわ。隆ちゃんが見守ってくれたおかげかしら?」
香苗さんがそう言うと、七海は下を向いて恥ずかしがる素振りを見せる。
「今はこんなだけど、この子、隆ちゃんが遊びに来るってわかった日からずっと楽しみにしてたのよ?昨日なんかずうっと『隆ちゃん明日来る?本当に明日来てくれる?』って何度も私に訊いてきて」
「お母さん、言わないでよぉ……///」
香苗さんの曝露にいてもたってもいられず、七海が顔を赤らめながら香苗さんに抗議する。
「本当?そんなに楽しみにしてくれてて嬉しいわ。私にはとても完成度が低いようには見えなかったけど」
お袋が2人を見ながら言う。
「今は7割くらいかしら。発表会本番まではまだ時間があるけど、その間にもっと練習して完璧に仕上げなくちゃ。ね?」
香苗さんが七海を見ながら言うと、七海は笑顔でコクリと頷く。
「でも、今のレベルに到達するにもすごく練習したんじゃない?」
お袋が重ねて香苗さんに訊ねる。
「今は月、水、金の週3で学校が終わった夕方からレッスンをやってもらってるわ」
「確か、小中のときのお友達が先生をしてくれてるのよね?」
「そう。うちに来てもらって個人レッスンをお願いしてるの。彼女、結婚はしてるけど子どもがいなくて、その代わりに七海を娘みたいに想ってくれてるの。学校の宿題も一緒に見てくれるからとても助かってるわ」
ん~こりゃあれか?自分が仕事で夕方家にいないから、友達にピアノのレッスンという名の子守りをお願いしてるってことか?
「バレエのレッスンは?」
「バレエは土日の午前中よ。今はもう1人でレッスンを受けられるから、私は送迎だけ。もう次のコンクールの演目も決まったのよね?」
七海がまた笑顔で頷く。
「そうなんだ~ねえねえちょっとだけ踊っているところ見せてくれない?」
「そうね。練習したところまでやってみる?」
七海がまた頷くと、その場でポーズを取り、軽やかに舞い始めた。静止時にはほぼ動かず、舞うときには優雅に、7歳とは思えないメリハリが効いた演技だ。相当練習したに違いない。
「すごーい!七海ちゃんすごく上手!!」
お袋が再び拍手を送る。当の本人は、笑顔を見せながらも少し息が上がっていた。
「コンクールの課題演技なんだけど、今のでまだ半分なの。実際は今の倍の時間演技しないといけないから、もう少し体力をつけないとね」
香苗さんが七海の腰に手を添えながら言う。だが、上げた息を整えながら頷く七海を見ながら、俺の胸中は複雑だった。
「さ、ちょっと早いけどお昼ご飯にしましょ!2人が来るから張り切って豪華にしちゃった!」
「あ、香苗ちゃん、私も手伝うわ」
「香苗ちゃん、俺もピアノ弾きたいんだけど」
話が切り替わったところで香苗さんに話しかける。
「あら!隆ちゃんも弾きたくなっちゃった?もちろん良いわよ。七海、隆ちゃんに教えてあげて」
「うん!隆ちゃん、一緒に弾こう!」
七海が今日一番の笑顔で答えると、俺の腕を引っ張ってピアノの方へ向かう。俺はそのまま七海につられてピアノの椅子の左側に座り、七海は右側に座った。
「さっきの曲、最初はどんな感じ?」
「こうだよ」
七海が曲の最初の指の位置を、実際に自分の指を置いて示す。俺が1オクターブ下の鍵盤に、七海の真似をして乗せる。
「最初は左手からこう弾いて、次に右手」
「こうか?」
七海が出だしの部分を弾いてみせる。それに続けて俺も同じように鍵盤を叩く。
「うん、そう!それをもう1回同じように弾くの」
というような具合で、七海のレッスンを受けながらラ・カンパネラを弾いていく。実際は神様チートのおかげで耳コピ即興演奏できるから、レッスン無しでもさっきのラ・カンパネラはすぐに演奏できる。だが俺と一緒にピアノを弾いて七海が嬉しいなら、付き合う以外の選択肢は無い。
「次はね、えっとぉ、こうやってこうなんだけど、なんて言えばいいかなぁ……」
「もう1回ゆっくりやって見せて」
七海が説明に困る箇所は、ゆっくり弾かせて真似をする。
「えっとぉ、こうやって、こう」
「こうか?」
「そうそう!隆ちゃん上手!」
そんなこんなで昼食の支度が整うまでに、曲の触りの部分は完璧に弾きこなせるようになった(ように見せかけた)。
「ご飯の用意できたわよ~」
「お母さん!隆ちゃんすごいんだよ!すぐ弾けるようになっちゃう!」
香苗さんに七海が話しかける。
「え!?隆ちゃんあの曲弾けるようになったの?」
「すごいじゃない!聞かせて聞かせて!」
「まだ全部じゃないけどな」
お袋と香苗さんに返事をしつつ、俺は七海に教えてもらったところだけを演奏する。ただし俺が想像する、曲のあるべき姿を神様チートで具現化しつつ。イメージは、俺が敬愛する盲目のピアニストだ。
「すごいわ隆ちゃん!完璧よ!」
「すごい!すごい!」
弾き終わると、香苗さんは拍手をしながら驚き、七海は目を輝かせながら喜ぶ。
「明子ちゃん!隆ちゃんには才能があるわ!絶対ピアノ習った方がいい!」
「えー!そう!?」
驚きと困惑が混じった声でお袋が返答する。
「七海と少し弾いただけでこれだけ弾けるんだもの!プロの先生に教わればすぐにトップよ!」
「ええ……隆ちゃん、どうする?」
香苗さんにせっつかれ、お袋は困惑しながらも俺に訊ねる。
「俺はやらない」
「ええどうして!?もったいないよ隆ちゃん!」
習う意思はないことを伝えると、香苗さんが驚きの声を上げる。その横で、七海が悲しそうな表情を浮かべる。
「ピアノは好きだけど、他にやりたいことがあるし。そもそも習い事はやらないつもりだから」
もちろんこの意思はお袋も承知済み。それも含めた困惑だったわけだ。
「私も色んな習い事勧めたんだけど、毎回こうなのよねぇ」
「そうなのぉ。残念……」
お袋の言葉に香苗さんがため息交じりに呟く。
「それに、ピアノは七海が教えてくれればそれで十分だよ」
七海を見ながら言うと、彼女の目に輝きが戻る。
「また一緒に弾いてくれる!?」
「うん」
「次に会ったときも!?」
「うん」
「大人になっても!?」
「もちろん」
「やったあ!」
七海が満面の笑みで小躍りする。
「あら?隆ちゃん、もしかして七海を貰ってくれるのかしら?」
「どういうこと?」
「ふふ。さ、2人ともお昼ご飯にしましょう」
わざと惚けた振りをする俺に香苗さんは微笑みながら、俺と七海をダイニングテーブルへ手招きするのだった。