6-1.姉の家出、妹の行方①
「ゆのちゃーん!あそぼーよー!」
「ゆのねー!おべんきょう、もういいでしょー!?」
「莉奈、芽依!今は静かにしてって言ったでしょ!」
「さっきからずっと同じこと言ってるじゃん!」
「……」
バンッ!
「!ちょ、芽依!?」
「コップ落ちちゃったぁ~」
「ジュースがノートに……」
「なにやってんのよっ!いい加減にして!」
ドタドタドタ……
「こら!莉奈!芽依!何があったの!?なんでこんなに床がびしょ濡れなの!?」
「だってゆのねーが怒るからぁ」
「わざとジュースこぼすなんてダメでしょ!お姉ちゃんはお勉強してるんだからジャマしないの!」
「やだあああ!ゆのねーとあそぶのおおお!!」
「……はぁ」
初夏の夜風が、開け放した窓からそよそよと入り込んでくる。5月中旬、午後7時を少し過ぎた頃。俺は2階の自室で、机に向かって複数の西洋古典を読み漁っていた。
その発端は古代ギリシャのソクラテスとプラトンによる西洋哲学、アリストテレスの政治学までさかのぼる。2000年以上前の思想だが、現代でも学ぶべき点は多い。特にアリストテレスの「政治学」を読むと、結局のところあらゆる政治形態の中で民主主義が一番マシなんだなと改めて思わされる。
ピンポーン。
突然、1階のインターフォンが鳴った。音の響きに目を上げて、ふと去年の同じ時期、同じ時間帯に広輔、陽太、京平の3人が学校での肝試しからうちに駆け込んできたときのことを思い出した。
当時のことを思い出していると、当時と同じように階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
「隆ちゃん、ちょっといい?」
お袋の声が、ドアの外から聞こえた。
「ん?どうかした?」
本を手にしながら椅子を引いて声を返す。
「結乃ちゃんよ。1人で来たみたい」
「結乃?」
予想外の名前に、一瞬言葉が詰まる。結乃がこの時間に1人で訪ねてくるのは初めてのことだった。
階段を駆け下りて玄関まで行くと、そこに立っていたのは確かに結乃だった。薄手のカーディガンの袖を指先で握りしめながら、少しバツが悪そうに笑っていた。
「えへへ、来ちゃった」
靴のまま立ち尽くす彼女の顔には、どこか不安がにじんでいた。目元の表情が、普段よりずっと弱々しい。
「どうしたんだ?何かあったか?」
俺の問いかけに、結乃は小さく首を振った。
「大したことじゃないの。ただ……ちょっとだけ、家にいたくなくて」
その声は、普段の結乃の明るさとは程遠かった。言葉選びも慎重になっているのがわかる。
「母さん、俺の部屋通していい?」
「ええ、わかったわ」
お袋が柔らかく微笑みながら頷いてくれた。
俺は結乃を連れて2階の自室へ上がった。扉を開けて中に入ると、結乃は周囲を見回しながら静かに立ち尽くしていた。
「ベッドに座って」
促すと、結乃は少しだけ表情を緩めて頷き、遠慮がちにベッドの端に腰を下ろした。その様子を確認してから、俺は自分の机の椅子に戻り、向かい合うように腰をかける。
「にゃお」
俺のベッドの上で丸くなっていたレオが、結乃の膝の上まで移動して再び丸くなる。結乃はレオを撫でながら、しばらく何も言わなかった。沈黙が部屋を満たすが、俺は急かさずただ静かに待った。
やがて、ぽつりぽつりと、結乃の口から言葉がこぼれ始めた。
「……最近ね、妹たちがうっとうしくて仕方ないの」
その言葉には、自責と苛立ちの入り混じった感情がにじんでいた。
結乃には2人の妹がいる。小学2年生の莉奈ちゃん。そして今年4歳になる末妹の芽依ちゃんだ。2人とも人懐っこい子たちで、俺が村中家を訪れると2人の遊び相手になるのがお決まりだった。
「特にね、芽依。あの子、ほんとに手がかかるの。かまってあげないと、すぐイタズラするし、騒ぐし、泣くし……でも、かまってあげたらあげたで、次から次に変なことしようとするから、もう収拾がつかなくなるの」
結乃は少し語気を強めながらも、必死に感情を抑えているようだった。
「……でも、頭ではわかってるの。悪戯するのは、たぶん私が相手してあげてないからだって。芽依なりに一生懸命アピールしてるんだって。でも、いざそうされると、すごくイラッとしちゃう。つい、強く言っちゃって……わかってるのに、止められないの」
結乃は苦笑まじりに言って、ふと視線を逸らす。目の端には、涙がうっすらと滲んでいた。
「私……なんか、最近すぐイライラしちゃって。前だったら『しょうがないなぁ』って笑えたことも、今はダメ。ひとつでも予定が狂うと、頭の中がぐちゃぐちゃになっちゃう……たぶん、受験のせいだと思う。蒼嶺学園、ほんとに行きたいから。失敗したくなくて……でも、自信がないの」
ベッドの上で、彼女は膝の上のレオを囲うように両手を乗せ、指をぎゅっと絡めている。
「やらなきゃって思うほど焦るし、焦ると怒りっぽくなるし、妹たちが騒ぐと集中できないし……で、怒鳴って自己嫌悪して、また疲れて……この繰り返し。なんか、もう全部投げ出したくなっちゃう」
その声はかすかに震えていた。俺は椅子の背にもたれながら、ゆっくりと頷いた。
「なるほどな。それで1人で家を出て、ここに来たのか」
結乃は少し間を置いて、こくりとうなずいた。大きくも小さくもない、けれど確かな頷きだった。
「家出って言っても、別に本気で逃げたいわけじゃないの。ただ、ちょっとだけ、誰にも触られない場所にいたかった。それで……なんとなく、隆くんの家が思い浮かんだの」
彼女は言葉を選ぶようにして、静かに続けた。結乃の話を聞きながら、俺はふと、彼女の今までの姿を思い返していた。
転生前も、もちろん今でも、結乃はいつも明るくて前向きで、誰に対しても公平だった。クラスでは自然とみんなの中心になって、何かトラブルがあれば間に入って収めてくれるし、学校行事でも率先して準備を進めるようなタイプだった。勉強も運動もできて、先生たちの信頼も厚い。周囲の誰もが一目、いや二目置く存在だった。
だがそんな彼女も、決して完璧超人ではない。できないこと、難しいことは当然あるし、余裕を失って周囲にきつく当たってしまうこともあるのだ。特に今回の中学受験勉強は、彼女にとっても大きなハードルとなっていた。そんな中で、家では妹たちに囲まれ、休まる暇もない日々。彼女が疲れを溜め込まないわけがない。
「結乃」
俺は声をかけた。彼女は小さく「ん?」と返事をし、ベッドの上でこちらに目を向ける。
「俺、自分には弟も妹もいないけど……小さい子に懐かれやすいせいか相手することが多くてさ。たった数時間、相手するだけでも、ものすごく疲れるんだ。全力で遊んで、全力で泣いて、思ったように動かないし、こっちの都合なんてお構いなし」
俺は苦笑交じりに肩をすくめた。
「だから、毎日ああいう子たちと一緒に生活してるって想像すると、そりゃ嫌になる日だってあるよなって思う。しかも、今の結乃は受験で大変な時期だ。そんな中で妹の面倒まで見るなんて、俺には絶対真似できない」
そう言い切ると、結乃は驚いたように瞬きをして、それからぽつりとつぶやいた。
「……そんなふうに言ってもらえるなんて、思わなかった」
「何が?」
彼女はうっすらと笑った。でもその笑みには、これまで人知れず抱えていた寂しさが滲んでいた。
「私、ずっと……頑張れて当然って思ってた。でも、やっぱり私にも限界があって、でも心の奥ではそれを認めたくなくて、認めちゃったら、私が私じゃなくなる気がしたから。だから無意識に無理して頑張ってたけど……それが今になって弾けちゃったのかな……」
そう言って、結乃はふっと息を吐いた。
彼女の自己分析はおそらく合っているのだろう。なんでも完璧にこなす結乃。それがアイデンティティになってしまい、そうでない自分を受け入れられずに無理を重ねてしまった。そして今日、とうとう自分のキャパを超えてしまい、家出という形で暴発してしまったのだろう。
「結乃。結乃がこれまですごく頑張ってきたことは、俺を含めてみんなわかってる。でも、人間には誰だって限界はある。完璧超人なんて誰もいない。だから限界だと思ったら、遠慮なく周りを頼っていいんだ。凛たちにはいつも言ってるけど、これは結乃にだって言えるんだからな」
頼られる側が人に頼る難しさは、俺もよくわかっているつもりだ。けど、これが1つのきっかけとなって、結乃がもっと周囲に助けを求めやすくなれば、もう結乃は同じことを繰り返さないはずだ。
「……ふふ。完璧超人なんて誰もいないって、隆くんが言っても説得力ないよ」
だって正に目の前に完璧超人がいるんだから、とでも言いたげに笑いながら結乃が言う。
「おいおい。莉奈ちゃん、芽依ちゃんと遊んでグロッキーになっている俺なんか何度も見てるだろ?」
「でもそれくらいじゃん」
そんなことは、と反論しかけたが、実際それくらいしかないのでやめることにした。そんな俺の様子を見ながら再び結乃が笑う。どうやらだいぶ気が紛れたようだ。
「ありがと、隆くん。聞いてくれて、責めないでくれて、ちゃんと受け止めてくれて……」
彼女は膝の上で手をぎゅっと握りながら、真っ直ぐ俺を見つめてきた。その瞳はさっきまでの曇りが嘘のように澄んでいた。
「なんか、胸の奥がだいぶ軽くなったよ。やっぱり今日ここに来てよかった。レオもありがとね」
「にゃお」
結乃がお礼を言いながらレオを撫でると、レオは返事をして結乃に撫でられながら目を細めた。
無理に慰めるでもなく、励ますでもなく、ただ事実として。彼女の疲れが少しでも癒えたなら、それだけで意味があると思えた。
「家の人には伝えてあるのか?ここに来ること」
「うん。ちゃんと伝えてある……というか、伝えたつもり。お母さんと妹たちがちょうどお風呂に入ってる間に、机の上に置き手紙置いてきたから」
なるほど。であれば時間的にはもうお風呂から上がって、結乃の母親・有子さんが置き手紙に気づく頃だろう。
「そっか。じゃあ、そろそろ電話かかってくるんじゃないか?」
プルルルル、プルルルル……
俺がそう言い終えるか終えないかのうちに、まさにそのタイミングで固定電話が鳴り出し、ほどなくして切れた。お袋が電話に出ているのだろう。
「……うちかな?」
「多分な」
結乃と目を合わせて小さく笑い合った。そのときだった。
ドタドタドタッ!
階下から階段を駆け上がってくる、けたたましい足音が響いたかと思うと、次の瞬間、勢いよくドアが開け放たれた。
「隆ちゃん、結乃ちゃん!」
ドアの向こうに現れたのは、焦りに満ちた表情のお袋だった。片手には電話の子機が握りしめられている。
「ど、どうしたんですかおばさん?」
結乃が立ち上がりながら訊ねる。お袋は息を切らせながら、言葉を絞り出すように叫んだ。
「め、芽依ちゃんが……いなくなっちゃったって!」
「……え?」
時が一瞬止まったような感覚に陥った。部屋の空気が、一気に張りつめる。
「どういうことですか!?どこにもいないんですか!?家の中は!?」
「お母さん、家中探したって。でも見つからなくて……玄関のドアの鍵が開いてて靴が無くなってたから、1人で外に出ちゃったみたい」
結乃が今までにないくらいの速さで捲し立てるようにお袋に訊くと、お袋は息を整えながら答える。
「電話貸して」
俺はお袋から子機を受け取り、パニックになっている有子さんを宥めながら、まずは110番通報するよう伝える。可能であれば駐在さんに対応してもらいたいところだが、駐在所の開庁時間はすでに過ぎてしまっている。次にご近所さんに電話をして協力を仰ぐこと、有子さんの夫であり3姉妹の父である靖さんに連絡すること、結乃とともに自分もそちらに向かうことを伝えて電話を一旦切る。
次に俺は河台のじいちゃんちに電話をかけ、事情を説明して協力を依頼する。じいちゃんが農協まで車で迎えに来るとのことなので、そこでじいちゃんに拾ってもらって結乃の家まで向かうことにした。
俺は電話を切るとすぐさま必要なものをショルダーバッグに詰めて結乃に向き直った。同時に、レオが結乃の膝の上から素早く俺の肩の上に移動した。
「よし、探そう」
「うん!」
結乃がすでに玄関に向かって走り出していた。彼女の表情は、つい数分前とはまったく違う。完全に姉としての本能が働いているのがわかった。
「農協でじいちゃんに拾ってもらって結乃の家まで行ってくる。母さんは父さんが帰ってきたらすぐ手伝うように伝えて」
「わかったわ!」
お袋の声を背後に聞きつつ、俺はスニーカーを履いて結乃とともに玄関を飛び出した。窓から入ってきた夜風は涼しかったが、夜を駆ける体が浴びる夜風は冷たく感じた。




