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04

「フィン? ――と、ユリア?」

 金曜日の夕方。フィンとユリアは仕事終わりのミラに()()()()出くわした。

 陽が沈んで石造りの街角は薄暗い。灯されたばかりの街灯は、出力が甘めで少し白っぽい。ジジジジと点滅しているものもある。

「やあ、ひさしぶりだね」

 三階建ての建物から出てきたミラは、階段の最後の一段で手すりに掴まって足首を擦っていた。人影に気づいて見上げた顔は疲れが浮かんでいる。フィンはミラの様子が気になりつつも、訝し気に自分とユリアを見比べるミラの様子に計画を推し進めた。

(足、どうしたんだろうか)

「今日はユリアと約束があるんだ。食事を一緒にとりに行くところさ」

 フィンは、ミラへの心配と内心の緊張を必死に隠して声を出した。目が泳がないように努めるも、どうしても視線がミラの足首に向かう。本当は、どうしたのだとしゃがんでしまいたい。だけどそれをしてしまうと、確かめたいことが確かめられなくなる。

 フィンの体に隠れるように立っているユリアは最初に手を軽く振ったきり、黙っている。

(ぼくがミラ以外の女性と二人で会うなんてことは、これまでなかった。学友や後輩からの告白や誘いをミラを理由にきっぱり断ってきたことをミラも知っている。――さあ、どういう反応をする?)

 フィンの希望が思わす幻か。妙な間があいた。だけど、ミラの表情に変化はない。

「あらそうなの? 楽しんで」

 あっさり引き下がったミラに、フィンは落胆した。だけどまあ、わかっていたことだ。わかっていて、吹っ掛けたのはフィンだ。

(ミラはぼくに恋をしていない。嫉妬しないのは当然だ)

 ミラと気まずいまま会えないのは嫌だった。片想いなのはわかっている。それでもフィンはミラのことがやっぱり好きだから、彼女のそばにいたかった。それでも、と思ったのだ。

 ――離れたことで、ぼくへの想いが芽生えたりしないだろうか。ミラもぼくがいないと寂しいと思ってくれないだろうか――と。

 そのための賭けだったけれど、フィンはものの見事に敗退した。フィンの左側に立ったままのユリアに顔を向けると、見慣れたといってもよい呆れ果てた表情を返された。今日のことを依頼しに行った日と、さっき会ってから、合計三時間にも満たないような短い間に、何度もこんな顔をさせてしまって申し訳ない。

「呆れた。一人で会いに行く勇気がないから、一緒に来てくれって話じゃなかったの? 人を浮気相手みたいにしないでちょうだい」

「すまない」

 表情だけでなく、はっきりという。ユリアのお小言はミラには聞こえなかったらしい。苦笑で返したぼくをじっと見ていたらしいミラが、「いつの間にか仲良しなのね」と見当違いに呟いて体を起こした。

「ミラ、足はどうかしたのかい?」

 ミラから嫉妬心はもらえなかった。ユリアを巻き込むのもこれ以上は申し訳ない。三人で食事に行こうと、当初の予定を伝えようとしたフィンを、ミラはきつく睨みつけた。

「どうもしないわ」

「でも、さっき足を擦っていただろう? 痛むのなら送るけれど」

 手すりに置かれたままのミラの手のすぐそばにフィンも手をついて、患部が見えるようにフィンはしゃがんだ。ロングスカートとヒールの高いパンプスの間、フリルのついた靴下にそっと手を伸ばす。途端、ミラの金切り声が暗い街路に響いた。

「どうもしないっていってるでしょう!」

 反射的に手を引っ込めて立ち上がったフィンを押しのけるように、ミラが階段を下りて帰路につく。驚いたのはユリアも同じだったようで、癇癪を起したミラに駆け寄った。

「ミラ? どうしたのよ」

「ミラ?」

 足を痛めているのならそんな歩き方はしないほうがいい。フィンもミラを追いかけて後ろから肘を掴んで引き留めた。掴まれた肘をミラが払う。その勢いのまま睨みあげられて、フィンはたじろいだ。

「うるさい、放っておいて!」

「ミラ?」

「お食事でも舞台でもデートでもしてきたらいいじゃない! もう放っておいて!」

 ミラはフィンにだけ怒鳴った。横にいるユリアのことが目に入らないかのように、フィンだけを睨みつけて、フィンにだけ声を荒げている。いつかのフィンと同じだった。

「はあ。――お邪魔虫は帰りましょうかね」

 硬直した空気をユリアが揺らした。

「でも……」

 ここでミラを放っておく選択肢などフィンにはない。だけれど、ユリアをこんな空気に巻き込んでしまったのはフィンだ。汽車に乗ってまで来てもらったのに申し訳ない。

「取ってもらったホテルもすぐそこだし、食堂もついていたからわたしはそこでゆっくり過ごすわ」

「ホテル!?」

 陽が沈んだばかりで人通りもあるとはいえ、女性一人を帰せない。そんなフィンの心配を解消しようとしたユリアの言葉に、ミラが噛みつく。

「なによ。あたしにこの時間から家まで汽車で帰れっていうの? お義兄さんが手配してくれた()()()()のホテルをありがたく使わせていただきます。せっかく早引きまでして、おいしいご飯をご馳走になるつもりだったのに、痴話げんかに巻き込まれるのはごめんだわ」

 面倒そうに手をひらひらさせて、「この建物の裏だったわよね」と先ほどチェックインしたばかりのホテルに戻っていく。

(お義兄さんっていいかた、すごい刺があったな。明日改めて謝りに行こう)

 相変わらず振り返りもしないユリアを見送って、フィンは黙り込んだミラを覗き込んで視線を合わせた。

「後ろめたいことはなにもないよ。ぼくの家にもきみの家にも彼女を泊めるわけにはいかないから、旅行者向けのホテルを手配しただけ」

「……」

「ミラ、触るよ」

「きゃっ……」

 視線を合わせようとしないミラにため息を吐いて、フィンは彼女の膝裏に手を入れて抱え上げた。宙に浮いた脚をバタつかせるけれど、本気で嫌がったときの暴れかたでないことに、フィンは胸を撫でおろした。本気で嫌がれば、ミラのことだ。バタつかせた脚でフィンを蹴って飛び降りる。

(機嫌が悪いものの、そばにいることはいいらしい)

「ちょっと、ここ職場!」

 怒りとは明らかに違う赤さで顔を火照らせたミラが、フィンの胸に顔を押しつけて隠す。

「残業だったんでしょ。もう誰もいないじゃないか」

 努めて平静を装いながら、フィンはミラを持ち上げた腕にぐっと力を入れた。人参色の髪の毛にそっと頬を擦りつけて、大きく深呼吸をする。

(会いたかった。触れたかった)

 不足していたミラ成分を吸い込むと、フィンは馬車乗り場までゆっくり歩いた。揺らさないように、ミラの足に振動が響かないように、慎重に。

 週末のオフィス街は、街全体が浮かれて映った。一刻も早くこの街を離れて、すぐ隣にある繁華街へ羽根を伸ばそうと、大人たちがはしゃいでいた。



 馬車を降りる際は、いつものようにフィンが先に降りて、ミラが伸ばす手を受け取った。今日はさらに、馬車が扉を閉めて去ったあとに、フィンがミラを抱き上げる。商人の館が立ち並ぶ町もこの時間は静かだ。昼間は多数の馬車が行き交って、石の路地を車輪が走る音がひっきりなしに響いている。今は、歩く人もなく、館や街灯がオレンジ色にぽうっと浮かび上がっている。

「このまま帰るの?」

「おじさまもおばさまも気にしないだろう」

 実際、婚約者に横抱きされて帰宅した娘を迎えた彼女の両親は、「だから急に走り出すのはやめなさいっていつもいっているでしょう」と、ミラが自分で怪我をしたものだと決めつけてお小言を漏らしただけだった。

「あなたたち、ごはんは?」

「あとでいただいてもよろしいでしょうか?」

「じゃあパイをひとつ増やそうかしら」

「ありがとうございます」

「重くないか? 手伝うか?」

「ハハッ。大丈夫、とても軽いですよ」

「ほお、うまくなったもんだな」

 昔から家族同然に扱ってくれるこの家が、フィンにはありがたい。フィンにとっても、二人はれっきとした自分の両親だった。結婚相手の家族も、この家以外には考えられない。フィンは、娘そっちのけの会話に、ブツブツと文句を漏らすミラを縦抱きに抱えなおして階段を上がると、部屋の扉を開けた。

「さて、まずはミラ、足を見せて」

 一人掛けのソファーにミラを下ろして、フィンは片膝を床につけた。跪いて見上げたミラは、この期に及んでまだ視線を合わせようとしない。

(本当に頑固だ)

 ならば勝手に診るまで。患部をよく見ようと、フィンは足を崩して胡坐を組んだ。ミラの靴は、玄関先で彼女の母親がスポンスポン引っこ抜いてくれていた。室内履きと屋外履きを分けるのは、戦後隣国からもたらされた比較的新しい習慣だ。年配者だけの家に行くと、今でも土足で室内を歩く。

 ミラの右足からフリルのついた靴下をはぎ取って、フィンは慎重にミラの足を両手で持ち上げた。

「ちょっと!」

 横抱きにされたときと比較にならないくらい真っ赤な顔をしたミラの様子に、フィンは気づかない。

「あ、ごめん、痛かった?」

 非難の声も意味を取り違えて、宥めるように足首のそばをそっと撫でる。

「~~~~!」

 ミラは声も出せずに悶絶した。美青年が座る女性の前で地べたに腰を下ろして、裸足の足を掲げるように持ち上げて悩まし気な顔をしている。

(こんなの間近で見るものじゃないっ!)

「痛っ!」

 突然頭頂部を叩かれて顔を跳ね上げたフィンが見たのは、過去最高に顔を真っ赤にして潤んだ瞳で恨みがましく睨んでくるミラだった。

「え、なに、どうしたの」

「~~~~!」

 キョトンとあどけなささえ漂わせながら、まるで理解していないフィンを、ミラはもう一度叩いた。

(成人指定が入りそうなことをしていながら、この無自覚! どうしてくれようっ)

 ――わたしばかりがドキドキしてバカみたい。

 そんなミラの動揺を、フィンは知らない。


「ヒールだと脚が浮腫むの」

「怪我をしたわけではないんだね? 氷をもらってこよう」

 症状を理解したわけではなさそうだが、フィンはいうなり階下に下りていった。パタンと閉じたドアを眺めて、ミラはため息を吐く。

(じゃあ別の靴を履けば? なんていわないのは、フィンのいいところよね。フットワークも軽いわ。――氷で冷やしたところであまり変わらないけれど、まあ、黙っておきましょ)

(それにしても)

 ユリアとフィンが食事に行くほどの仲になっていたとは、知らなかった。

(いつ会っていたのかしら)

 てっきり、ミラにつき合ってユリアを探しに行ったあの日だけだと思っていたのだ。

(フィンも、ユリアも、いってくれればいいのに。やましいことがあるみたいじゃない)

 ミラは唇を尖らせて、大きなクッションにボフリ、背中を預けた。


 底の浅いたらいに氷を入れたフィンは、すぐに戻ってきた。

「捻挫はあとから腫れるから気をつけなさいって、おばさまが」

「だから、そんなんじゃないっていってるのに!」

 またも足元にしゃがもうとするフィンからたらいを奪うように取って、ミラははす向かいの席をてのひらで示した。

「自分でするわ」

「でも……」

「レディの素足をやたらめったら触らないでくださる?」

「あ……」

 ポッと赤面したフィンが大人しく差し出したタオルを受け取り、ミラは氷枕を作り始めた。

 カランカラン、器にぶつかる氷の音がやたら気になる。自室にフィンと二人きり。別に珍しくもなんともないはずの光景が、今夜に限って居心地が悪い。

 言葉を発しないフィンも、なにをするでもなく、氷枕をじっと目で追っている。


(まいったな)

 二人で会うのが気まずいからこそ、ユリアを挟んで食事をして、曖昧なままに今まで通りの関係に戻るつもりだったのに、小細工なんて仕組んだ罰か、まさかの部屋に二人きり。せめてリビングでミラの両親と話ができれば、同じ効果が期待できたかもしれないのに。

(いつものくせで、すぐにミラの部屋に来てしまった……)

 子どものころからそれが当たり前すぎて、年頃を迎えた娘を持つミラの両親もなにも疑問に思っていないのか、はたまたフィンを信用しているのか、平気でフィンをミラの部屋に通す。せめてドアを開けておくべきかとも思うけれど、急にそんなことをしたら、意識しているのがバレバレで、そんな羞恥にフィンは耐えられない。

(パイを追加で焼くっていっていたから、おばさんに呼ばれるまで時間がある)

 そのときまでになんとか関係を取り戻したい気持ちと、いや、気まずく感じているのは自分だけではないかという疑念で頭がグルグルする。ふと視線を上げると、いつから見られていたのか、ミラと目が合った。

「――なんだか、久しぶりだね」

 とっさに出た言葉に、本当に久しぶりだと自分で頷きそうになる。

(そうかしら、なんて返されたら辛いな)

 内心苦笑いを浮かべたフィンに気がつくはずもないが、幸いミラからも「そうね」と同意を得られた。ぎこちない

「忙しかった?」

「まあ、それなりに」

 ぎこちないながら、会話が成り立っていることにフィンは安堵した。

(求めるレベルがどんどん下がっていく……)

「連絡をくれないから」

 だから忙しいのかと思って、と続く言葉を飲み込んだのは、それが真実ではないからだ。

(ミラが連絡をくれないのは、ミラにとってぼくはただの婚約者で、そんな自分がミラからの誘いを連続して断るものだから、義理を果たす必要も感じられなくなったんだ)

 なんとも思っていない相手を執拗に構う必要なんてないのだから。

「だって最近あなた、誘ったところでいつも予定あるじゃない」

 刺々しいあなたという呼称に、フィンの顔も引き攣る。まさに想像していた通りの答えだ。

「断られ続けるのって疲れるのよ」

 まるでフィンがわからずやのように、ミラは話した。ミラのこういう口調は、ここ数年で増えた。

 ――就職活動って大変なのよ。

 ――仕事なの。

 ――仕方ないじゃない。

 ――学生のときとぜんぜん違うのよ。

 立場の違いを知らしめるかのようなものいいは、好きじゃない。学生と社会人には明確な境界線があるかのように、ミラはまぶたを伏せて息を吐く。

 それに反論すると、まさしくフィンが子どものように感じられて、フィンはいつも言葉を飲み込んでいた。確かに学生のフィンには知らない世界があるだろう。それは認める。だけどそこを責められると、フィンにはどうしようもない。どうしようもないことで失望しないでほしい。

(ぼくじゃなかったら、とっくに大喧嘩だ)

 フィンの考えもあながち外れていない。ミラからの理不尽な否定も、フィンは静かに聞き流してきた。フィンは同世代の男性に比べて、格好つけたがりだ。なにごともスマートに対応し、大人っぽく見られたい。そんな願望が強い。憧れるだけでなく、努力もしてきた。

(それはぜんぶ、きみにかっこいいと思われたいからだ)

 これまでのフィンなら、そうだねごめんねと折れていた。それでミラと一緒にいられるならよかった。だけどもはやそうじゃない。フィンが我慢して、理解のある婚約者を装えば装うほど、ミラは自分を蔑ろにする。フィンは数秒沈黙し、ギュッとまぶたを閉じると、喧嘩腰にならないよう注意しつつ口を開いた。

「きみだってそうじゃないか」

 学校を卒業してからのミラこそ、フィンからの誘いを断る頻度が増えた。休日が被らなくなったわけでもないのに、一緒に過ごす時間が極端に減った。

「フィンも働き始めたらわかるわよ。くたくたなのよ。休日くらいゆっくりしたいわ」

(またそれだ)

「ぼくと一緒だとゆっくりできないってことか」

「そんなこといっていないじゃない。無理して会って、わたしが雑な態度をとって空気を悪くするのも嫌なのよ」

「……」

「ほらね、こんな空気になるわ」


 話は終わったとばかりに、ミラが氷枕をたらいの中に置いた。立ち上がって、ソファの横に立てかけたままだったバックをライディングテーブルに移動させる。持ち上げたバックは、フィンが初めて見るもの。会わない期間に買い求めたのだろう。

「バックを選ぶ時間はあるのに?」

 いってからフィンはたちまち後悔した。ひょっと出た一言だった。ミラの目が吊り上がる。

「ごめ――」

「一生懸命働いて、残業終わりになんとか時間を捻出して、自分で稼いだお金で買ったの! そんな自分へのご褒美に、わたしはショッピングもしちゃいけないの!?」

 金切り声が立ち上がったフィンの顔面に叩きつけられる。そんな大きな声よりも、フィンを驚かせたのは、ミラの瞳いっぱいに盛り上がった涙だった。ほんの少し瞬きをすれば、堰を切って溢れそうな涙を、ミラはふんわりしたブラウスの袖でグイっと乱暴に拭った。

「ミラ、ごめん」

 怒りにか、こみ上げてくる嗚咽にか、感情を押さえつけるようにして、ミラの小さな体が震えている。ここで泣きわめかないのも、涙を拭った眼でフィンを睨み続けるのも、非常にミラらしくて、それがフィンを落ち着かせた。ここ数か月の苛立ちも凪ぐくらい、ミラはミラらしかった。

「ミラ」

 フィンは数歩でミラに近寄った。見下ろす角度が変わって、ミラの細い肩に力が入っていることがよくわかった。女性らしい丸みを持ったミラの体は、健康的で若々しく張りがある。若い女性たちが好む痩せ型ではないけれど、男性のフィンからすればミラは頼りないほどに細い。

 視線をそらさずにさらに一歩近づいた。そうすると、ミラの体はすっかりフィンの影に隠れてしまった。こみ上げてくるしゃくり上げを抑え込むように鼻で大きく息を吸って、口を堅く結んだあと、ミラは俯いて動かない。ちらりと覗くうなじと人参色の後れ毛に苦しくなって、フィンはミラを抱き寄せた。力を入れずに両腕を回しただけで、ミラの額がフィンの胸に押しつけられる。

「ごめん。いっぱいいっぱいだったね」

(そう、ミラはいっぱいいっぱいだったんだ。ぼくに構う余裕もないくらい)

「わかったようなこといわないで」

「そうだね、ごめん」

(きみがとびきり頑固で、我慢強くて、意地っ張りで、そのくせ脆いことを、ぼくは失念していたね)

 ジュワっと、シャツが水分を吸収した。ミラの肩を通るように回したフィンの両腕は、両脇に大きな空洞がある。フィンはその隙間を埋めるように、ミラの頭と背中に手を動かした。その動きに合わせるように体を寄せてくるミラが愛おしい。爆発寸前の感情を抱えつつも、大人しく抱きしめられるくせに、フィンの背中に腕を回すことはしない強がりなミラが、フィンは好きだ。

「好きだよ、ミラ」

(たとえきみが、ぼくと同じ想いを返してくれなくても)


 時折鼻を啜るミラの背中を撫でて宥めて、どちらも声を発さない、静かな時間を過ごした。それからしばらくして、階下から「ごはんよ、下りてらっしゃい」とミラの母親の声が響いた。今更ながらに壁が薄いことを思い出して、フィンはオドオドしてしまう。今日のようなミラとのやりとりを両親に聞かれるのは恥ずかしい。フィンの家は幼いミラがお城だと喜んだような屋敷だから、声が壁を通り抜けることなどない。

 真っ赤な目をした娘と、その娘を抱えた未来の息子の姿を見て、さすがに彼女の両親もなにかあったと察したらしい。

「お前、まだ氷あるだろ。次は目にあてとけ。足に目に、忙しいやつだなあ」

「あなたっ! デリカシーがないわ!」

 ミラが腹に抱えた氷枕を入れたたらいを指さして、父親が眉間にしわを寄せる。心配しているのは間違いないのに、声掛けの内容が不正解だったせいで、妻に叱られていた。いつもの光景だ。ミラは父親をまるっと無視して席に着き、フィンは賑やかな三人を眺めて笑った。



「泊っていけばいい」

 晩酌が進んだミラの父親は、退室の挨拶をするフィンに向かってグラスを揺らした。

「いえ、父が心配しますので」

 正確には、母がうるさい。

「真面目だなあ。どうせ結婚するんだからかまわんだろうに。俺がフィンくらいの歳には」

「あら、あなた、わたくしはフィンくらいの歳のあなたを存じませんけれど、どのような武勇伝がおありで?」

「いや、ん? はて、なんだったか。そうだな、ミラがよくても、フィンはまだミラに襲われるわけにいかないか」

「あなたっ!」

 弁が立つはずの名の知れた大商人が家に戻れば失言大魔王で、そのたびに自分の妻に叱られてタジタジになる。フィンは眦を下げて、仲の良い夫婦に頭を下げた。

 ミラは玄関で待っていた。

「送るわ」

「門までね」

「わかってる」

 仕事で履いていたパンプスとは別の、皮の柔らかそうな散策用の靴を履いたミラが、コンソールテーブルから引き出した乗合馬車の時刻表と壁時計を見比べている。

「次の便がちょうどいいんじゃないかしら」

 週末の今日は、日付が変わるまでにもう二本程度あるはずだ。ミラの職場近くの飲食街から、商人区域を経由してフィンの家がある区域まで循環している便だ。飲食街を起点にしたものから、駅を基点としたもの、はたまた長距離を運行するものなど、辻馬車はこの国の重要な移動手段だった。

「歩いて平気なの?」

「ありがとう。この靴、爪先も幅広で、足への負担が少ないの」

「面白い形だね。コッペパンみたいだ」

「ふふっ、そうね。お父さまが今年の冬に流行らせたいみたいよ」

 エスコートなく、数歩先を行くミラが爪先を持ち上げてスカートの裾を翻す。どうやらミラもお気に入りの新商品らしい。

「ねえ、ミラ。ぼくはミラのことが好きだよ」

「うふふ。わたしも、フィンのことが好きよ」

 後ろ手に振り返って無邪気に笑うミラに、フィンは胸の内をかっぴらいて見せたくなる。

(そんな子どもじみた好きじゃないんだ)

 そんなことは不可能だから、せめてもの気持ちを乗せるように、フィンは浮かべていた笑みを消した。真剣なんだと伝えるように。伝わるように。

「そうじゃないんだ。ミラ。ぼくは、きみのことが恋愛感情で好きなんだ。恋、してるんだよ」

 飛び石二つの距離を向かい合い、二人は互いをジッと見つめ合った。数秒前まで笑っていたミラは表情を消した。フィンはもはや苦し気にも見えた。

「さっきのきみを見て、ミラが、許容量いっぱいなのは、よくわかった。そんなときに、ぼくのことまで想ってほしいなんて、いえないし、急にこんなこと告白されても困ると思う。だけどやっぱり、ぼくはミラと少しでも一緒に過ごしたいと思うし、そのためには、幼馴染だとか婚約者とかじゃなくて、恋人になりたい。ぼくは、ミラにとって一番優先されたい。それだけは、知っていてほしい」

 強く瞼を閉じると、連動して無意識に握りしめていた拳にも力が入った。

「急には無理でも、男として、きみに好かれたい。そうなれるよう、努力は惜しまない。――あと数年学生でいるのは許してほしい。学生時代を無駄にはしない」

 最後に一つ、温情を賜りたいと添えて、口を結んだ。

 ミラの表情は変わらない。フィンの言葉を噛みしめるように、真意を探るように目力だけが増している。ジッとフィンの眼の奥までを覗こうとし、だけどなにも掴めなかったらしく、ミラは怪しげに鼻に皺を寄せて、それでも続く言葉がないとわかると、直接的に訊いた。

「え? フィン、なにいってるの?」

「ごめん」

「そうじゃなくて。――ごめんなさい。あなたがなにをいいたいのか、わたし、理解できなかったの」

 控えめに体の前に手を組み替えたミラの戸惑った様子に、フィンは、

(やっぱりそうか)

と、言葉にしても飲み込めないくらいに、自身が恋愛対象外であったことを自覚して打ちのめされた。だけど、フィンはミラがいいのだ。形だけの婚約者じゃなく、恋人になりたいのなら、ここでひくわけにいかない。今ひいてしまえば、もうこの話を蒸し返す勇気なんてきっとでない。

「ぼくがミラのことを恋愛感情で好きって話だよ」

「知ってるわ」

 なにをいっているのといわんばかりのミラに、フィンはゆるゆると頭を振る。

「フィンがわたしを好きだなんて、子どものときから知っているわ」

「子どもの好きじゃないんだよ」

「知ってるわよ」

「わかってない」

「恋愛の好きでしょ?」

「恋愛だよ?」

「ええ。もちろん」

「ぼくはきみと恋人どうしになりたいっていってるんだよ」

「わたしたち恋人どうしじゃなかったの?」

 テンポよく短い言葉をやりあいながら、控えめだった声もだんだん大きくなる。

「違うだろう。恋人っていうのはお互いに恋をしているんだ」

「じゃあ合っているじゃない。わたしはフィンが好き。フィンもわたしが好き。なにが違うの?」

「ミラはぼくに恋していない」

「してるわよ」

「してない」

「っ。だからっ、好きだっていってるじゃない!」

 ミラの怒鳴り声が閑静な住宅街に響き渡った。あまりの大声に、フィンは圧倒されて言葉に詰まった。

 そんなフィンに、頭に血を昇らせたミラが詰め寄る。ミラは、夕方からずっと、爆発しそうな感情をなんとか必死に制御しようとしていた。沸点はここ数年で一番低くなっている。淑女にあるまじき態度で下からフィンの襟元を掴み上げると、至近距離からフィンを睨み上げた。

「ちょっと、ミラ……」

「さっきからなんなのよっ! なんでわたしの言葉を否定するの!? 好きだっていってるじゃない! それともなに? わたしは自分の気持ちも理解できないおバカさんだっていいたいの!?」

「ミラ、そうじゃない」

「そうじゃない! フィンはわたしの言葉を全部嘘だって跳ねのけたの! 好きだっていってるのに、違うっていうの! なんでそんなひどいことをいうの!? わたしの言葉を軽んじないでっ! 好きだっていうわたしの十年をあなたが否定しないでっ!」

 大きな声で怒鳴って、これでもかと眦を吊り上げている。

「返事はっ!」

「え、あ、うん。ごめん。……え、ほんとう?」

 目をしばたたかせて、自分よりも小さな婚約者を見下ろすフィンは、最高に格好悪かった。

「――ちょっと、あなたたち。恥ずかしいから家の中に入ってちょうだい」

 玄関扉から、ミラの母親が飛び出してきた。さすがのミラもきまり悪そうに赤面している。

「舞台女優でもお前みたいな声はでないだろうな。ご近所さんに響き渡る痴話げんか。俺は恥ずかしくて明日から外を歩けないぞ」

 首をポリポリ搔きながら父親も出てくる。二人はこれ以上なく顔を赤くして、深く頭を下げた。

 二人でお説教を受けるべくミラの両親の後ろを大人しくついて行きながら、薄暗い中でもわかるほど耳を赤くしたミラが小声でフィンを罵る。

「頭を叩いてやりたいわ」

「さっき叩かれたよ」

「足りない」

「――ぼくは、片想いだと思っていたんだ」

「ずっと好きだって伝えてきたはずよ」

 それは確かにそうだ。けれど、好きには種類があるから難しい。フィンは、ミラの両親に見咎められないように、そっとミラの手に指を絡ませた。

「不安、だったんだ」

 吐露した情けなさに、ミラのため息が重なる。

「フィンって本当、子どものころから気が小さいわよね。わたしは不安になったことなんてないわ。だってわたしたちの出逢いは運命でしょう? わたしはフィンが好きで、フィンはわたしが好き」

 だから、揺らぐはずもないじゃない、と主張する瞳は真剣だ。

(本気でいっているから、やっぱりぼくはきみに敵わない)

 恋に憧れる乙女のようなセリフを、疑い一つもなくいってのける。夢見がちといえばそれまでだけれど。

「きみがそんなにかわいい子だったなんて、知らなかったよ」

「あなた、わたしのなにを見てきたの?」

 絡ませた指をギュッとされて、フィンは笑った。フィンの笑い声に安心したように、唇に笑みを浮かべたミラが、フィンの胸に頭を寄せる。

 その甘えた仕草が、自分にしか与えられない、何度も繰り返されてきたものだと気がついて、フィンは泣きそうになった。



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