よんぶんのいち
よんぶんのいち
見慣れたはずの扉の前。12月という冬真っ只中のこの季節に、空調の効いていない廊下でコートを着ることなく声がかかるのをじっと待つというのは、なかなかの拷問だ。これでは体どころか心まで冷え切ってしまうじゃないか。それでもどうにか、一定のテンションを保っていられるのは、ひとえに僕が中に入るのを今か今かと心待ちにしている目立ちたがり屋だからだろう。
とは言え僕も馬鹿じゃない。早くみんなを驚かせたい、キャーギャーと騒がれたいという気持ちと、ドン引きされたらどうしようという気持ちが七対三くらいの割合で混在している。いくら僕が神経図太い鈍感野郎(親友談)だとしても、さすがに今のこの状況を手放しに楽しむことなんてできるはずもなかった。というか、この状況を心の底から楽しめるヤツは本物の馬鹿か変態だ。もし実際にそんなヤツがいたら、きっとそいつはとてつもなく残念なヤツなのだろう。……いや、それはそれで悩みなく人生を面白可笑しく送っていそうで、ちょっと羨ましくもあるか。
とにかく、残念ながら僕は変態でも馬鹿でもないので、冷静にクラスメイトの反応を予想することが出来た。おかげで三割ほどの思考がマイナス方面に向かってしまい、せっかくの激レアなイベントだというのにいまいち乗り切れていない。無念。
視線を上げれば、これまた見慣れた長方形型の黒いプレート。そこには『二年三組』と書かれている。
私立水葉高等学校第一学棟三階二年三組。そこが今僕のいる場所であり、僕が在籍するクラスだ。理系に力を入れているらしい本校は最近開校したばかりのため評価は可もなく不可もなく。ただ、新設校だけあって校舎は真新しく設備も最新の物が揃っているので、生徒からの評判は上々だ。僕としては、デザイン性を重視した校舎の使い勝手の悪さが少しマイナスポイントだけど。
携帯を取りだして時刻を確認してみれば、8時25分を三分ほど過ぎたところ。担任にここで待つようにと言われて、ホームルームが始まってから三分が経過したとも言う。
たった三分なのにこの長さ。体感的には十分を軽く回っていてもおかしくない。寒さのせいなのか、それとも僕が実のところ結構怖じ気づいているせいなのか。七対三ではなく三対七? いやそんなはずはない。僕は肝っ玉の小さな男じゃない。音痴でも音楽の授業でソロパートを堂々と歌い上げるぐらい根性の据わった男だ。だから怖じ気づくはずがない。この手の震えも武者震いだ。そうに決まっている。
携帯がミシッと音を立てて廊下に響いた。慌てて力を抜き、どこにもヒビが入っていないことを念のため確認してからポケットに入れる。危うく母さんに怒られるところだった。
中からお呼びはいまだかからない。担任は「すぐに呼ぶから」と言っていたのに、何をしているのだろう。「入りやすいようにあらかじめ先生がみんなに説明しておく」とも言っていたが、それにしても長すぎる。これだから新米は――
『そんなわけだから、みんなも仲良くするように。それでは柳井さん。入ってきて』
「はっ、はい!」
突然のお呼びに心臓が跳ね上がる。心の声が漏れ聞こえていたのかと戦々恐々として次の言葉を待ったが、そんなことはないしあるはずもなく、早鐘を打つ心臓を落ち着かせるべく深呼吸をして、そっと胸に手を当てた。
ふにっとした感触が手から伝わる。マシュマロのような、はんぺんのような、近所のパン屋で売っているメロンパンの中身のような柔らかさ。押すとそれに応じて形を変え、手を離すと元の形に戻る弾力性。ずっと触っていたくなる心地よさと、同時に昂ぶる感情。
それは未知なるもの。それは数日前までの僕にはなかったもの。男である僕にはなくて当たり前だったもの。しかし『今の僕』にはあって然るべきのもの。
ゆっくりと視線を下げる。視界に捉えたのは、セーラー服にセーター、スカートにニーソという水葉高校の女子制服と、黒曜石のように黒くて艶やかな長い髪。
そして、緩やかな曲線を描く、なだらかで小さいながらも「我在り」と存在を主張する慎ましやかな胸。
そう。それは男がたどり着くべき聖地であり、夢にまで見た桃源郷。
おっぱいである。
時は少し遡る。
深夜のことだった。強烈な刺激を感じて目を覚ました。足でもつったのかと思ったが、そんな程度の低い痛みではなかった。起きたばかりの冴えない頭も手伝って、何も理解できないままに痛みだけは強く鋭くなり、腹の辺りから全身へと広がっていった。このまま僕は死ぬのか? そう恐怖を覚え始めたと同時に、僕は気を失ってしまった。
その後、いくら待てども降りてこない息子を叩き起こしにやってきた母さんがベッドの上で見つけたのは、小学生くらいの子供だった。
次に目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。痛みはさっぱり引いていたが、代わりに全身の感覚が酷く鈍く感じられた。
どこかほっとした様子の医者が言うには、僕は奇病にかかり、この数日間、生死の境を彷徨っていたらしい。
遡行病。そう呼ばれる奇病は、近年発見されたばかりの新しい疾病だ。この疾病は何故か十代の男女にだけ発症し、発症した患者は肉体の若返り、退行を起こす。退行は運が良ければ小学生ぐらいで止まり、その後元の年齢まで戻るそうだが、運が悪ければ際限なく進み、胎児となって消滅、死ぬらしい。退行を止める手立てがなく、致死率は80パーセント。極めて危険な疾病なのだそうだ。僕は運が良かった。
無事だったことに安堵する傍ら、枕元に佇む両親の表情は冴えなかった。息子が死ななかったのだから喜べば良いものを、とちょっとふて腐れてみたが、すぐにその原因は判明した。
医者は「落ち着いて聞くように」と前置きをしてから、ゆっくりと、小さな子供に言い聞かせるように話した。
『君は女の子になってしまった』と。
この医者、頭が湧いているのか? と、かなり失礼なことを思ってしまった。なんせそんなことはありえないのだから。しかし持ってきてもらった鏡を覗いて、医者が冷静であることを理解した。
鏡に映っていたのは、見慣れた平均的日本顔をした高校男子などではなく、髪の長い、右目が緑色、左目が赤色をした小さな『女の子』だった。
医者曰く、僕はかなり危険な領域まで退行をしたらしく、それによって遺伝子配列がぐっちゃぐちゃになり、なんとか一命は取り留めたものの、性別が変化してしまったそうだ。オッドアイもその時の弊害だとか。
驚き桃の木なんとやらだ。唐突すぎる現実を処理できず固まったままの僕に『これからは女の子として生きていくんだ』とか、『もう手続きは済ませてある』とか、勝手に話を進めていく医者に驚いたし、微妙な顔をしていた両親もすぐにいつもの調子を取り戻していたのも驚きだ。そしてなにより、そんな周囲の様子を見て「まあいいか」の一言で片付けてしまった僕自身に一番驚いた。
人間は意外と強い生き物らしい。
そして現在。
ケセラセラの一言で全てを丸く収めた僕は、前向きにこれからのことを考えて今日を迎えた結果、「とりあえず女の子になった僕を見てみんなを驚かせてやろう」というなかなかに前向きというか前しか見ていない考えに至った。生まれ変わった姿が意外とどストライクで可愛らしく、「これなら結構いけてるんじゃないか?」とナルシスト全開に思ったのがその原因だ。あとそれと、単純に僕が目立ちたがり屋だから。
ちなみにオッドアイは黒髪黒目が標準的な日本では目立つので、カラーコンタクトを入れて黒色に見えるようにしている。コンタクトを入れるのは始めてて、毎朝入れるのが面倒だ。僕個人としてはカラコンなんてなしでもいいと思うのだけど、両親が入れた方が良いというので従っている。綺麗なのにもったいない。
『柳井さん?』
っと。長い回想&説明をしている間にも現実では時間が進んでしまっていたらしい。
教室はざわめいていた。そりゃそうだ。担任がどう僕のことを説明したか分からないが、だいたいは想像が付く。さきほどの僕の返事を聞いて、その声があまりにも記憶の中の声と一致せず、みんな動揺しているのだ。予想通りの反応に気分が高揚してくる。
ささっと前髪を直し、自慢の長いポニーテールにも指を通す。脳内で円陣を組み、頬を軽く叩いて気合を入れ直し、勢いよく扉を開けた。
扉が右へスライドし、異様な空気に包まれた教室が眼前に広がる。今度こそ本当の武者震いをして、教室に足を踏み入れた。
数多の視線を体中に受ける。注目されてうなぎのぼりする気分をどうにか抑えつつ教卓の横に立つ。心臓は早鐘を打っているが、今はそれも心地が良い。自分でも分かるぐらいに口角が上がっている。
黒板にみんなも知っているであろう僕の名前を描き、お気に入りのポニーテールが華麗に舞うよう勢いをつけて振り返る。『おお』と男を主成分とするどよめきが上がる。自然と広がる笑みをそのままに、僕は威勢良く口を開いた。
「柳井奈月だ。改めて、みんなよろしくぅ!」
教室が一瞬静寂に包まれ、すぐにさきほど以上のざわめきを取り戻す。
「マジかよ」
「あれが奈月……?」
「か、可愛くないか?」
「そこらの女より可愛いだろ」
「そこらとはどのあたりかしら~? ……でも、ほんとそうよね」
「ちっちゃくて可愛くない?」
「あれが元男? というか、奈月?」
ふふふふふ……おっと涎が。
みんないい反応だ。思った以上の好感触。もうちょっと気持ち悪がられると(少しだけ)心配していたけど、杞憂だったらしい。いいクラスに恵まれたものだ。
特に後悔なんてしていなかったが、これではっきりした。女の子になっても何ら問題はなかった。むしろこれだけ注目されて良かったかもしれない。見た目も僕の好みだし。
だからだろうか。唐突に気になってきた。これだけ好意的に受け入れられて、気持ちが緩んだのだろう。
人は貪欲な生き物だ。欲しかったものを手にしても満たされることはなく、さらなるものを欲してしまう。
僕は可愛い。髪は綺麗だし長いし艶があるし、顔もアイドルいけるんじゃないかと思えてくるぐらい整っている。小柄な体も素晴らしい。ふとももも絶妙な細さだ。
しかし、しかしだ。ある一点、その一点だけは及第点、いや、及第点未満だった。そこさえ良ければ僕の理想とする完璧な美少女だったというのに、その一点だけは赤点だったのだ。
人は強欲な生き物だ。一度気にし始めると止まらなくなる。意識の外にあったはずのそれが、急に一番の悩みの種となり、あっと言う間に開花してしまった。
忌々しげに視線を下ろす。それを視界に捉え、きつく睨み付ける。
そう。それは男がたどり着くべき聖地であり、夢にまで見た桃源郷。
その聖地であり桃源郷のおっぱいが――
小さいのだ。